第十七話 キャプティブNo.882 ①
共和国政府
通称〈
香りによる異能――〈
かつて魔法と呼ばれた香印を制度に組み込み、秩序の名のもとに監視・制御しようとしたのが、この香異特定局だった。
グラント・フォッサーは、その中でも最前線に立つ現場対応部門の捜査官だ。
香りが武器であり、証拠であり、呪いとなる時代において、彼の任務は、言葉よりも速く現場に踏み込み、香印の残痕を追い詰めることだ。
その朝も、捜査車両のラゲッジスペースから押収物が運び込まれた。
***
白磁の廊下を曲がった先、押収室の前に、セルジュは立っていた。薄いマスクを顎にずらして、真っ黒なコーヒーをマドラーでぐるぐる回している。タイルに背を預け、壁に片膝を立てた姿は、どこか戦場帰りの兵士のようだった。
気配に気づいて顔を上げる。
「珍しいな、グラント。お前が時間通りってのは」
グラントは肩をすくめた。軍用ブーツの底がタイルを鳴らす。
「今日は起こしてくるヤツがいたんでな」
「いいねえ。じゃあ早速付き合ってくれ」
「何が上がった?」
セルジュはマドラーをゴミ箱に捨てながら言った。
「キャプティブNo.882」
キャプティブとは、工房が自社内だけで使用する独自香料のことだ。
言葉のとおり、香りの
香料研究を事業の軸にする工房であれば、いくつかは必ず持っている。あのスフル・デテレだって、例外ではない。
「キャプティブ絡みの案件は面倒だ」
グラントの言葉に、セルジュは軽く笑った。
「こいつは収容支援施設で使われる香料だ。旧市街の地下クラブで見つかった。違法な流通ルートの疑いがある」
話を聞きながら、グラントは端末でデータベースにアクセスしていた。
「……No.882。本来は封鎖区域専用のはずだな」
「そう、戦傷者や拘留者向け。過敏な交感神経を鈍らせ、ストレス反応を遅らせる。こういう香りを吸わせておくと投薬治療もしやすくなるからな。――だが、このNo.882からは香印反応が出た。それが問題だ」
グラントが眉を寄せた。
キャプティブのなかには、特定の香印を固着させて生成されるものもある。そういう香料からは、〈香印反応〉が出る。
香印は、体内へ入る薬剤への応用は原則禁じられているが、〝香料〟としての流通は例外的に許容されている。ただし、それも精製から運用までが厳重に制限された工房内流通に限られていた。
したがって、通常の香料よりも流通規制が厳しいはずだった。旧市街の地下クラブなどという場末にあっていい香料ではない。
「嗅いだのか?」
「いや。オレもさっき見た」
セルジュはマスクを上げて、ひと息つく。
「お前の〝嗅覚〟に期待してるよ、相棒」
グラントは渋い顔で鼻を鳴らした。
「また幻覚に付き合わされるのはごめんだがな」
「精神汚染なら監査課に言ってくれ。俺は鼻しか使えないってことでここに回されたんだからさ」
二人は押収室の扉を潜った。
「これが押収物だ」
セルジュが透明な密封袋を差し出す。中には小瓶が一本。ラベルには焼印のように打たれた文字列。
セルジュの言葉を待たずに、グラントは袋の口を開けた。僅かにキャップを緩める。
香りが吹き出した。乾いた草束の匂いが微かに立つ――。
「は……?」
それだけ言って、グラントは硬直した。
印象的なのはラベンダーだ。あとはグラントの鼻では言葉にできない。
構造化され、熱に耐えるよう調整されているものの、その組成にグラントは嫌な既視感を覚えた。
ラベンダー。ナツメグ。ミント。
違う。
そんな素材の羅列ではない。
この匂いは、もっと深く、人の体温に馴染んでいた香りだ。嗅いだことがある。何度も。あのとき――視界が一瞬だけ、白く反転する。
それは、あまりに馴染み深い匂いだった。
芳香剤によく使われるあのありふれたラベンダーとは違う。自然に生えているものではない。もっと無機質で、冷たく、研ぎ澄まされている。
もう二度と、嗅ぐはずのない香りだった。
グラントは小瓶を持ったまま立ち尽くしていた。
表情はひどく静かだった。グラントの態度を奇妙に思ったセルジュが眉を上げ、鼻先で空気をすくう。
「……こ、れは……」
だが、その続きを言えなかった。
言葉よりも先に、香りが届いていた。
純化を辿って凍りついたラベンダー。
それは、かつての仲間だった男が纏っていた〈香印〉だった。
セルジュはそっと視線を落とした。沈黙をひとつ挟み、それでも確かめるように、はっきりと口を開いた。
「……シニストル、だな」
その名が、凍った記憶に小さなヒビを走らせた。
グラントは袋を置いた。耳鳴りが膨らみ、ひと呼吸のうちに沈んだ。
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