第十八話 キャプティブNo.882 ②

 グラントは、キャプティブNo.882のラベルをもう一度睨んだ。

 

「抽出元は?」

 

「工場コードはノブレサント・ラボだな」

 

 ノブレサント。

 グラントが唇を噛む。セルジュが続けて言った。

 

「成分は――わからない」


「わからない? キャプティブの開示請求はできるはずだ。香印反応があるんだろ」


 香料はすべて登録対象であり、報告義務がある。

 中でも、香印反応を示す香料は監査区分品として扱われ、保管から運用に至るまで一括して監視対象となる。

 

「ああ、普通の香料工場だったらな。だが、芳主のお膝元にある工場の情報開示請求はできない。……そういう〝決まり〟だ」

 

 セルジュが顔をしかめて言った。グラントも息を一つつく。空気に二人分の諦念ていねんが漂う。

 

 グラントが小瓶を持ち上げる。

 

「どこから抜かれた?」

 

「最終ロットは一年前に〈廃棄処理済〉になってる。現場記録には破棄立会いの署名もある」


 セルジュはモニターを指さす。


 グラントは無言で端末の画面を睨んだ。

 出荷記録の空白。そこにあるのは形式の誤謬ごびゅうというよりは、書くことを避けたような気配だった。

 

 セルジュは眉を寄せながら、端末に表示された成分構成を指でなぞる。

 

「天然由来成分が主軸で、部分的に人工処理されている」

 

「半合成だな」

 

「しかも、香印反応がある。ごく弱いが、揮発層から出る波長は典型的な〈治癒〉系だな」

 

「……治癒」

 

 グラントはぽつりと言う。

 セルジュは苦々しげに息を吐いた。

 

「シニストルも治癒系だったよな。……嫌な合致だ」

 

 グラントはセルジュを見た。

 

「……まさか、遺体がのか?」

 

「わからない。だけど、ただの生体抽出とは揮発挙動が合わない。定着率が高すぎる。……遺体、か。それっぽいものは、過去に何例かあるよ。どれも、正式には否定されてるけどね」

 

「オカルトだな」

 

 一拍。

 先に口を開いたのはセルジュだった。

 

「普通の人間ならね。だけど、シニストルの香印だぞ。鎮痛、鎮静、修復……すべてやってのけたせいで、単に〈癒し〉とだけ呼ばれた異次元の力だ。最期も……」

 

 グラントは応えない。無言のまま小瓶を見つめていた。沈黙のなか、ラベンダーの残り香だけが、わずかに鼻腔を刺していた。

 

 グラントは唇を引き結び、淡々と袋の口を縛った。


 


 ***


 蛍光灯の白い光が低くうなり、書類の上で微かにちらついていた。空調の風は冷たいというより薄く鋭く、肌の上を削ぐように通り抜ける。

 

 香異特定局、第三記録室。

 

 保管資料には、薬品と紙の焼けたような匂いが染みついている。風化すら拒むような静けさがあった。

 古い記録ボックスの蓋を開ける。

 鉄製の引き出しは重く、開閉のたびに軋む。


 グラントは袋詰めされた原本を取り出した。中には、事故当日の状況報告書と、香印痕を解析した図譜、複数の調書が重なっていた。


【分類:香印性失踪】

【被記録者:シニストル・メモアローム】

 

 ページをめくるたびに、封じられていた記憶が鼻の奥を刺激する。


【記録要旨】

 臨時癒療棟(旧軍直轄区画)の事故現場にて複数名への連続癒療中に香印出力過剰反応を起こし、現場より消失。香印痕のみが現場に残されていた。

 遺体の発見には至らず、当局は〈香印性失踪〉と判定。

(注:本件以前に同分類の判定例なし)


 グラントは眉をひそめた。

 

(……前例がない、だと?)

 

 判定基準の脚注には、こうあった。

 

 香気痕の濃度は異常に安定し、通常の散逸傾向を示さない。生体反応は確認されていないが、被記録者がを完全には否定できない。


(……オカルト野郎が適当書きやがって。香りに人間が〝喰われた〟っていうのか?)


 だが、シニストルは消えた。香りだけを残して。

 あの香りだけは空気に貼りついていたのに、肉体だけが忽然と消えてしまった。

 

「そんな死に方があるかよ……」


 資料の端をいじりながら、グラントは呟く。書類を閉じ、資料を元に戻しながら、ひとつ深く息を吐いた。


(……No.882)

 

 資料を戻していた指先が、一瞬止まった。

 

 背後の空気が、乾いた草の匂いを含んで膨れ上がったような気がした。

 

 グラントは苦々しげに息を吐く。振り返らない。

 

 だが、そこに、いる。

 ことに気づいた瞬間、胸がひどく冷えた。

 

 呼気の流れが皮膚に触れたような錯覚に、靴底に感じていた汗が一気に引く。

 

 呼吸を止める。だが匂いは止まらない。

 

(……やっぱりな)

 

 肩のあたりに重さを感じた。誰かが指を置いたような感触。すがるように、押し込むように、筋肉と骨を探るように。ずるり、と二の腕まで滑り落ちたその感触は、肌の上に触れたというよりも、皮膚の裏側を這うようだった。

 

 グラントは本能的に口を閉じ、目を伏せた。

 

 何もない。そこには何もないはずだ。わかっている。だが、身体がそれを認めない。


 温度が、下がる。

 

「戻れなかった」

 

 耳に、声が落ちた。

 グラントは息を詰めた。

 声の一音一音に合わせて、匂いも一拍ずつ強くなる。

 

「止めて、ほしかった」

 

 骨の内側で声が鳴っている。

 幻覚だとわかっている。だが、身体が反応した。重力の方向がねじれたように、爪先が一歩だけ後ろに退いた。

 

「おまえを癒してやる。逃がさない。ずっと」


 ――違う。癒されるためじゃない。あの場にお前を行かせたのは……。

 

 喉が詰まる。肺が拒む。喉の奥で、ラベンダーが逆流するようにこみ上げた。

 

 声が、止んだ。

 

 だが、香りは残っていた。

 鼻の奥でかすかに渦を巻き、ゆっくりと、残響のように、身体の内側にしがみついている。息を吸うたび、枯れた花粉が気道に入り込んでくるようだ。

 

(……まだ、いる)

 

 その確信だけが、異常に鮮明だった。

 

 指の内側に爪が食い込んでいた。拳を解こうとしたが、指が動かなかった。命令は脳から出ているのに、手は沈黙を守っていた。

 

 ラベンダーの香りが、ふと胸の内から立ち上った気がした。痛みだけが、まだかろうじて現実の側に留まっていると告げていた。


 だが、その痛みすら、いつか香りに溶けてしまう気がした。

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