第十六話 香料瓶を置いた日 ②

 キッチンの作業台には、地元の朝市で手に入れた野菜が並んでいる。


「家庭の日、ねえ……ただの人員確保にしか見えないけど」


「黙ってやりな」


「はいはい」


 ジャックはナイフを手にした。柄を握る感触が、どこか他人のものに感じる。だが、指先は覚えていた。にんじんを細く均一に切る。


 一方、グラントは巨大な根セロリと格闘していた。


「なんだこれ……石か?」


「根セロリですよ。煮込みラグーに入れると香りが立つんです」


「こういうのは斧で割るもんだろ」


 そう言って、グラントは両手で根菜をまな板に叩きつけた。


 ゴンッ、という鈍い音。


 籠の中から玉ねぎを一つ取り出していたジャックが顔を上げる。


「……包丁で切るんですよ」

 

 ジャックはため息をつきながら玉ねぎの皮を剥いた。根を落としてから、みじん切りにする。

 

 奥ではオブリエが、古い木箱からスパイス瓶を取り出していた。ひとつ手に取ると、香りを確かめるように鼻先に近づける。

 

「この緑の実は……アニス?」

 

「それはグリーン・カルダモンですよ。清涼感と、少しの辛みが出るんです。少し薬っぽくて、そこがいい」

 

 ジャックは答え、ふと彼女を見た。

 

「……ああ、そうだ。カルダモン。オブリエに合うんじゃないかなって思ったことがあるよ」

 

 オブリエが少し驚いた顔をした。

 

「ほんとに? それは、試してみたいわねえ」

 

「ただトップが強く出過ぎるから、そこをどうにか……」

 

 ジャックの指が無意識に動きかけ――思考を破ったのは、ベキ、メリッ……という不穏な音だった。

 

 ジャックは慌ててそちらを見た。

 

「グラントさん! なに、その音!?」

 

 バリッ、という一際大きい音がキッチンに響いた。

 

「この根セロリってやつを半分にしただけだ」

 

「割っただけじゃないの」

 

 オブリエが口を挟む。

 

「ラグーに入れるんじゃなかった? 細かく切らなきゃダメじゃないかな」

 

「それはジャックの役割だろ?」

 

「グラント、あんたって奴は。料理を力業で通そうとするんじゃないよ」

 

 呆れた顔を隠しもしないアンシーは、薄手のリネンのエプロン姿。手にはレードルを持ち、鍋で白ワインとバターのソースを作っている。

 

「ガストロノミーだ」

 

「ガストロノミーに謝りな」

 

「うちはビストロじゃなかったのか?」

 

「ここは厨房! 包丁とフライパンで精密手術してんだよ!」

 

 オブリエが笑いをこらえながら、ジャックの耳元でささやく。

 

「〝手術室〟で育ったあなたが、一番落ち着いてるのね」

 

「うちではこれが平常運転ですよ。混乱ってほどじゃないです、まだ」

 

 鍋がコトコトと鳴り、フレッシュなタイムとローリエが最初に広がった。

 

 それもすぐに他の匂いに呑まれる。焦げかけたソースの酸味が火元で尖り、パンの香ばしさがそれを和らげる。

 

 グラントの服についた鉄と油の匂いが、湯気に混じって空間の下層に沈む。

 

 アンシーの袖からは、香ばしく炙られたハーブの焦げと、揮発しかけたベルガモットの残り香が立ち上がっている。

 

 オブリエの袖口からはフリージアの余香が淡く漂っていた。

 

 どれかが主張することはない。すべて時間と共に滲み、混ざり、やがて次の香りが浮かび上がる。タイムは時間が経つにつれてみずみずしさを失い、乾いた枝のような匂いになる。蒸気で酸味と油脂が鈍り、空間の下層に重く溜まっていく。

 

 ジャックの手首には精油の残り香がかすかに残っていたが、包丁を握り直すたび、皮膚に新しい匂いが沈んでいった。茹で上がりの甘みが空気に滲む。調香師の指は台所の熱に包まれて、家族のために料理を作る手になっていく。

 

 その空気は、どこか懐かしかった。

 

 自分の匂いが、他の香りにそっと飲まれていく。皮膚の内側から抜け落ちていくようでもあった。香料の揮発が終わったあとにだけ漂う、ごく薄い残り香の静けさに、どこか似ていた。

 

 四人分の香りが、音もなく空気を撹拌かくはんしている。香りの主は、もはや誰でもなかった。空間そのものが発香していた。

 

 たった一日だけの食卓。

 それでも、香りの中に現在いまを残すことはできる。この空気は記憶を囲い込むのではなく、いまこの瞬間を開いている。


 テーブルに、料理が並んでいく。

 

 香草とチーズをパンに乗せたタルティーヌ。

 白ワインとバターのソースを絡めて皮目を香ばしく焼いた魚の蒸し焼きポワレ

 香草と野菜の蒸し煮ブレゼ

 そして、根セロリを加えた香味野菜の煮込みラグーも湯気を立てていた。

 

 ひと皿ずつ空になるたびに、記憶の深いところに沈んでいった。

 

 食後に残ったのは、冷めた鍋と、ワインと香草の香り。その夜の笑い声は、空気の中に長く残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る