第二章

第十四話 記憶に傾いた処方

 ジャックは庭のベンチに身を沈め、鼻先に漂う香りを追っていた。植え込みにあるローズマリーとタイムの香りが、日差しに焼かれた石畳の匂いと混ざって漂っている。


 想像通り。


 人の手で整えられた植物と土の匂いは想像を超えない。匂いを知るだけなら写真一枚で十分だ。現地で嗅ぐ必要はない。

 

 だが、いつも通りの匂いは、しばしば心の安息をもたらす。

 

 懐かしい。オブリエとこの庭で草まみれになって遊んだ午後が、今でも肌の裏に残っている。

 あのときのオブリエの身体にも、この香りは染みついていたはずだ。鼻孔より先に、皮膚が思い出してしまうような。

 

「……過去の匂いか。それもいいかもしれない」

 

 ジャックはそう呟いた。

 

 オブリエが消えかけている理由は、彼女が自分の香りを見失ったからだ。

 ならば、彼女が幼い頃から纏っていた香りを作ればいいのではないだろうか。

 記憶がよみがえれば、香印の均衡も戻るのではないか。

 

 だが、少しの間、体を起こせなかった。この香りを組むべきかどうか、判断がつかなかった。

 

 だが、深く考える前に、指先はもう鞄の中を探っていた。ジャックは緩慢かんまんに鞄からノートとペンを取り出した。

 

 この庭の香りを再現する処方のパターンを、いくつか組み立ててみる。

 

 香りは、脳より先に胸へと落ちてきた。淡々とメモを取っていた手がだんだん早くなる。

 

 記憶を呼び起こす。過去を再現する。

 

 さかのぼる。思い出のピースを集める。

 あの笑顔。あの庭園。飽きもせず草と土だらけになって遊んだ午後。夕暮れになってもまったく帰りたがらなかったオブリエ。

 あの午後の光そのものみたいだと思った、オブリエの香印から香るフリージア。

 夕暮れに日が傾いたら空が黄金きん色になって、しばらく二人で眺めていた。帰りは手を繋いで歩いた、その温度。

 心の奥に残る、ときどき胸をかきむしりたくなるような懐かしさ。

 

 最後には、自分でも読みにくいと感じるほどに字が崩れていた。

 

 ジャックはノートを閉じ、ベンチから立ち上がった。


 向かう先は、庭を挟んだ別棟だ。

 そこに、調香室がある。


 祖母が使うとき以外は、自由に使っていいと許されている部屋だ。かつて、彼女の夫――ジャックにとっての祖父が、彼女のために建てたのだと聞いたことがある。

 

 祖父の記憶は、彼の中にはない。祖母に夫がいたという事実さえ、どこか遠い。

 ただ、記憶に乏しい祖父の存在も、この部屋を通せば現実味を帯びた。


 ドアを開けると、棚に並ぶ香料瓶が、昨日と変わらぬ順序でそこにあった。

 ジャックは静かに椅子に腰を下ろし、ノートを再び開いた。


「……」


 それが〝再現〟なのか〝修復〟なのか、自分でもよくわからなかった。



 

 ***


 まずは、ローズマリー精油。トップに据えるにはギリギリの主張だ。青みを抑えるため、カンファーの含有量が少ないものを選ぶ。

 

 無邪気な記憶には、プチグレン。未成熟な枝葉の青臭さ、かすかな金属の渋み。幼い頃、口に入れて怒られたあの草の味を思い出す。皮膚の上に落ちる前から、弾かれるような気配がある。

 

 飛びすぎるトップを抑えるため、リターダーを一滴だけ加えて揮発を曇らせる。拡散の勢いをわずかに鈍らせ、空気の中でさざ波のように漂わせる。記憶の奥でしか生きられない、曖昧な時間の感覚に寄せる。


 ローズマリーとプチグレンではトップが硬すぎる。空気の重みが飛ばないよう、半量以下に抑えたベルガモットとスウィートオレンジでかどを取る。オレンジの薄皮がはじけるような甘苦さ。昼寝の前のぬるい陽射し。


 ミドルはフリージア。思い出は薄い層のようで、ぴたりと重なることはない。だから、あえて合成フリージア基材を組み合わせて再構築する。なめらかな拡散、乾いた草を思わせる硬さ。


 そこに、カッシスリーフアブソリュートをほんのわずか仕込む。フリージアに、僅かなざらつきが差す。夏の午後に見た遠雷えんらいの気配。じんわりと視界の端をよぎる青い影。


 夏にしては風が冷たすぎるので、ヘディオンで暖かい空気の橋を架ける。


 ベースは床板の温もり。シダーウッド。やけに乾いて立ち上がるので、包むためにベンゾインを加える。その粘度は時間の重さだ。焦がした飴の薄膜うすまくのような甘さ。そこに加えるのは、温度を感じさせるバニラと、ノートを保つためのムスク。

 

 トップとベースの接続には、透明な調整材を一滴。これが残香にふくらみをもたらし、時間の中に香りを折りたたむ仕掛けになる。


 そして、最後にアルカ香料を二滴加える。

 無色の一滴が、香り全体を写真のフチのように縁取る。もう一滴は、その写真をアルバムへ差し込むしおり。

 どのノートにも干渉せず、時間軸の中で浮遊するよう設計された特異点。

 それがこの香料に許された、唯一の役割だ。


 トップの揮発は早すぎ、すぐにベースが沈む。ミドルは故意に空けた。音のない過去の余白。思い出はいつも、不意に立ち上がっては、輪郭を作らないまま消えていく。中域ミドルの不在――それが、かつての幸福に触れたときの喪失感を再現する。


 香調は、整っていた。


 ジャックは全体の組成を確かめながら、時間軸の中で香りがどのように流れるかを紙に書きつけていった。

 

 ノートの接続、拡散速度、素材同士の緊張と緩和。

 

 線が揺れた。文字は処方ではなく、かつて存在した日々のなぞり書きへと崩れていく。香りが脳に届くより先に、胸が詰まり始めていた。


 過去そのものを、ボトルに詰めようとしていた。



 

 ***


 アルコールの揮発がわずかに空気を乾かしていた。


 対面では、オブリエが静かに息を潜め、ジャックの手元を見つめている。


 昨日の夕方、試作品を仕上げてから一晩。

 香りは、今も安定していた。


 試作品をムエットに垂らす。

 

 鼻腔を打ったのは、記憶のどこかで長く眠っていた香り。


 ムエットを素早く鼻から離す。

 驚きではない。揮発に対する純粋な反射。


 数秒の静寂。


「……悪くない」

 

 低く呟くと、ジャックはムエットをそっと差し出した。

 

「まずは、これで」

 

 オブリエは頷き、ムエットを受け取る。

 鼻先に軽く添えて、ゆっくりと、深く息を吸った。

 

 乾いた昼下がり。遠くで雷が鳴りそうな匂いが一瞬よぎり、最後に日だまりの床板へ落ち着く。

 そんな、一続きの時間。

 記憶が、ゆっくりと形をもっていく。

 

「これは……君が作ったのか、ジッキー?」

 

 微かに驚きの混じった声だった。

 

「どうかな?」

 

「驚いたよ。ほんとうに、懐かしいな……」

 

 オブリエは静かに言って、ムエットに鼻先に寄せた。

 数秒――いや、それ以上。

 香りに触れた反応が、遅れてじわじわと滲み出している。

 

 無意識の笑み。だがその眼差しは宙を泳いでいた。目は開いているのに、何も見ていない。

 香りを、後追いしている。

 

 ――やばい。

 

 指が勝手に動く。ムエットを奪い返したくなる衝動が体を突き抜けた。

 

 ぐにゃり、とオブリエの輪郭が揺らぐ。

 光の中で、影が静かにほぐれていく。

 過去の亡霊が彼女を連れ去りにきたようだった。

 

「待って」

 

 現在いまから遠ざかっていく。過去の記憶に引きずられるように。

 

 ジャックはとっさに手を伸ばす。

 

 オブリエに触れた――はずだった。

 だが、そこにあったはずの温度が、次の瞬間、霧のように溶けた。


 確かだったはずの触感が、記憶の中にしか残っていない気がして、背筋が粟立つ。

 

「待って、待ってくれ――オブリエ!」

 

 その声に、重苦しい空気がふっと軽くなった。

 

「落ち着いて、ジッキー。わたしはここにいる」

 

 オブリエの声が、ひどく遠い。

 

「懐かしすぎて、つい思い出に耽ってしまったよ」

 

 ジャックは俯いた。

 

 作ったのは、確かに過去の香りだった。

 記憶の中の香りを再現することは、処方と素材さえあればさほど難しくない。だから完璧にこなした。構成も濃度も精密だった。

 

 だが、それが間違いだったのだ。

 

 組み立てたのは、過去のオブリエの周りにあった香りだった。オブリエの周囲に漂っていた記憶――風、草、声、肌、陽の光。それらを再構築したにすぎない。

 

 そこにオブリエはいた。

 だが、今は? 今のオブリエはどこにいた?

 

 懐かしさも、喜びも、沈黙も、すべて過去の出来事として閉じ込めてしまった。ミドルの不在が〝今〟を切り捨て、記憶の海に彼女を沈ませた。

 

(ここにいるはずのオブリエを、ぼくは香りで過去へ押しやった。彼女を思い出に変えかけた)

 

 ――それは、生きたまま埋葬するのと同じだ。

 

 そう思い立った瞬間、汗ばむ背中をひやりとした空気が撫でた。

 

 彼はすぐにオブリエからムエットを取り上げ、テーブルの隅に遠ざける。処方メモとムエットを香りごと握りつぶして、数秒だけ目を閉じた。

 

 喉の奥が焼けるように熱かった。だが、言わなければならなかった。

 

「……ごめん。これはだめだ。思い出すための香りじゃない。思い出の中に縛りつける香りだ」

 

 ジャックの深刻な様子を見たオブリエは、小さく微笑んだ、ように見えた。

 

「いいさ、ジッキー。君の気持ちは嬉しいよ」

 

 オブリエは、目線を合わせて微笑む。

 その表情に、責める色はなかった。ただ、強さと諦念の交じる静かな優しさだけがあった。

 

(――ぼくのせいだ)

 

 アルカについて何も理解していなかった。

 

(情だけで香りを創ったら彼女を潰しかねないって、おばあちゃんから強く言われていたのに!)

 

 芳主の体に直接使う香水。

 それが、どれほど繊細な調整を必要とするものか。

 本当の意味で、わかっていなかった。

 

(香りが誰のために在るのか、それを問わねばならなかったのに)

 

 記憶を呼び出すだけでは足りない。

 今の彼女が耐えられる構造でなければ、それは暴力になる。

 

 目の前のオブリエは、まだどこか霞んでいる。

 

 ――落ち着け。

 

 そう言い聞かせるが、胸の内の焦燥は消えてくれない。

 

「あの、オブリエ」


「うん? 何かな?」

 

「……もう一度、香りを作らせてください」

 

 オブリエは少し沈黙してから、口を開いた。


「いいとも。今度、お茶でも飲みながら話そう」

 

 ジャックは深く頭を垂れた。

 そのときのオブリエがどのような顔をしたのか、直視する勇気がなかった。

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