第十五話 香料瓶を置いた日 ①
空気は、
ジャックは深く息を吸い込み、感覚を研ぎ澄ます。
指先は、迷いなく香料の瓶を選ぶ。
(焦るな)
そう言い聞かせながら、指先にわずかに力を込める。
選ぶことは削ぐことだ。
正解はいつも沈黙の中にある。香りは、選ばれなかったものに
必要なものを見つけて、不要なものを切る。
まず、削る。それが調香の第一歩。
ビーカーに一滴ずつ香料を加え、配合比率をノートに記録する。アルコールに溶いた香料をムエットに染み込ませて、タイマーを見た。
アルコールを飛ばす間は鼻を近づけず、空気の中に香りが立ち上がるのを待つ。
浅く、短く、呼吸の切れ目で嗅ぐ。
「違う」
そう呟いて、ジャックはスタンドの頂点――円形に並んだクリップのてっぺんにムエットを挟む。視線はすでに次のビーカーに向かっている。
トップノートで香りの導線を引きたい。
オブリエの香りには、柔らかい溶け込みが必要だ。これは、ただの希釈。
ゼロから組み直す。
余計な甘みを殺す。ノートの主張を極限まで削ぎ、ほのかに香る程度の試作を四つ。足りない部分はあとから足せばいい。
だが、甘みが予想よりも強く残った。そのせいでミドルが曖昧で、香調がのっぺりした印象になる。思考の中で、ベースのバニリンがべたついて
「くどいな」
乾いた声が漏れた。自分で言った実感すらなかった。
手元のムエットを三枚、ためらいなくごみ箱へ捨てた。四枚目はしばらく指の中で握り直したが、それも放る。
スタンドに六枚のムエットが揃ったところで、ジャックはようやく手を止めた。
机上のタイマーが鳴る。45分。連続調香の限界。
ジャックはやや乱暴な手つきでそれを止めた。
もう一度、香りを確かめる。
「……
香りはあった。だが、ジャックには一瞬、それが〝香り〟として届かなかった。香調、強度、残香……あらゆるラベルが脱落し、ただの空気に還っていた。
苛立たしげに息を吐いて、ノートに視線を落とす。
立ち上がるでもなく、外の空気を吸いにいくのでもなく、ノートのページを睨んだまま。
目を閉じても、まぶたの裏には配合比率の数式が浮かんでは崩れ、また組み直される。
嗅覚を止めても、思考は止まらない。
香料が脳内のビーカーでぶつかり合い、膨張する。
揮発、混濁、分離。繰り返す。
記憶と錯覚のあいだで香りが混線する。
沈殿しきれない分子の幻覚が、何度も何度も試作を迫ってきた。
それは、休憩とは名ばかりの、静かな自傷行為だった。
***
ノックの音がした。続けて、扉が強引に開いた。
アンシーだった。
「限界だよ、こっちは」
青い作業着の袖をまくって仁王立ちしている。
「……もう、ちょっとだけ」
「三日だ、ジャック。三日。おまえは水だけで香料と向き合っている」
「食べると匂いの感じ方が変わりすぎる。何も食べたくない」
「断食で嗅覚を鋭敏化させようとでもしているのか?」
「そんなバカなことしない」
ジャックはムエットを睨みつけたまま、疲れたように吐き捨てた。
「バカはおまえだ」
アンシーもまたバッサリと言い捨てる。
「嗅覚は栄養不足に真っ先に反応するんだからな。水だけじゃ脳が先に止まる。鼻は、脳の奴隷なんだよ」
言い終わらぬうちに、アンシーはジャックの腕を引いた。
ジャックは抵抗しようとしたが、腰が完全に固まっていたせいで、半分よろけながら立ち上がる羽目になった。
調香室から出ると、アンシーは紙に包まれた何かをジャックに渡した。
全粒粉のパンにバターを塗っただけのもの、水筒に入った薄いブイヨンスープ、ゆで卵。
「まずはこれを食え。脳に栄養を回すのが先だ。味は二の次だからな」
ジャックは黙って、ゆで卵を食べた――
舌が卵にしがみつき、離れたくないと訴える。胃が思い出したように痛んだ。
味も香りも感じた気がするが、脳に届かない。ただ身体だけが、必死に喰らいついていた。
「で、今日は仕事禁止。〝家庭の日〟だよ。わかってるだろ?」
ジャックは頷いた。
口はすでにパンで塞がっていた。
***
ローラン家の門の前に、タイヤの摩擦痕が薄く刻まれていた。土混じりの石畳にはまだ、去った車の熱気が漂っている。
ジャックはその痕跡を視線でなぞりながら、無言のまま玄関の取っ手を押した。
「すまないな、勝手に上がっているよ」
リビングのソファに腰掛けていたのは、オブリエだった。姿勢はどこか落ち着かず、膝の上に小さな鞄を置いたまま、所在なさげにしていた。
「どうして……」
「ジュゼマンがな。わたしに休息が必要だというものだから」
ジャックは眉をひそめた。だが、言葉は続かなかった。
ジャックの後ろからやってきたアンシーが言った。
「オブリエ、やっと来たか。人手が足りてないんだ。手伝いな」
「構わないけど……それなりの理由があるんでしょうね?」
そう言うオブリエの顔は楽しそうだ。
ジャックは息を吐いた。
それから十分もしないうちに、外でクラクションが短く鳴った。
ごうごうとエンジン音を残して、錆びたシャーシの車が敷地の脇に停まる。ジャックが窓から覗くと、グラントが車のドアを片肘で開けながら降りてきた。
グラントはオブリエを見て、意外そうに言った。
「あれ、お嬢様もいんのかよ」
「フォッサーじゃないか。お前がローラン家に入り浸ってるというのは本当らしいな」
ジャックが玄関を開けると、グラントは思いのほか真面目な顔をして彼を見下ろした。
「倒れてないかと思って見に来たんだがな。少しはマシな顔してる」
「……まあ、今のところは」
「婆さんから聞いたぞ。断食? 三日も? アホのやることだ」
「気づいたら三日経ってたんですよ」
「それならもっとアホだ」
アンシーがキッチンから声を飛ばした。
「来ると思って多めに作るとこだ。手が空いてるなら働きな」
「腹のためなら貴族だって従うさ。包丁はどこだ?」
そう言って、グラントは無遠慮にキッチンへと向かった。
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