第十三話 調香師の通過儀礼

 ジャックは一日ぶりに自宅へ戻ってきた。


 アンシーは玄関前のベンチに腰を下ろし、年季の入ったつなぎ姿で煙草をくゆらせていた。足元には濡れたじょうろやホースが無造作に転がり、水滴はまだ乾いていない。


 門扉もんぴの向こうにジャックの姿を認めると、アンシーは視線だけをゆったりと孫に向けた。


「ずいぶん時間がかかったじゃないか。おかえり、ジャック」


「ただいま。おばあちゃん」


 勝ち気な笑みも、鋭い言葉の端に混じるわずかな憂慮ゆうりょの色も、いつものアンシーそのものだった。


 アンシーは無言で、左手のタバコを肩越しに持ち上げた。火種のあるほうを風下かざしもに向けるのは、古い調香師の習性だった。


 ジャックは祖母の前方、風上に回って数メートル先で足を止めた。

 焙煎された紙、薄い葉の焦げ、熱に焼かれるニコチンの甘い膜が、鼻に届いた。


 祖母の吐く香りは、近すぎない。越えていい距離とそうでない距離を、決して間違えない。


「ノブレサントから電話が来たときには何事かと思ったよ。香水はちゃんと渡せたようだが」

 

「うん。渡せた」

 

 ジャックの簡潔な返事に、アンシーは眉をひそめた。孫の表情に張りつめた疲労の色を見て取ると、彼女のまなざしはすぐに真剣なものへと変わった。

 

「何があった?」

 

 話をひと通り聞き終えると、アンシーは口元に煙草をくわえ直して、しばらく火を見つめた。

 

「まったく……また香水を欲しがるって聞いたときから、嫌な予感はしてたけどね。香印が狂ってるのかい?」

 

「正確には……」

 

 アンシーはふうっと長い息を吐いた。くすぶった煙が白く広がり、空気の層を一枚くぐらせるように沈んでいく。

 

 タバコの火を消して、ゆっくり立ち上がる。玄関を開けると、ジャックに背中を向けたまま言った。

 

「けっこう厄介なことになってるみたいだね。……とにかく中へお入り。紅茶を淹れてやるよ」

 

 ジャックは無言でうなずいて、アンシーのあとを追った。


 


***


「はっきり言っておく。香印を再現する香水は作れない」

 

 いつものように古びた木のテーブルを挟んで向かい合い、アンシーが断言する。彼女の口調にはためらいがなかった。

 

「わかってる」

 

「なぜだか言ってみな。……おまえの言葉でな」


 ジャックは短く息を吸い、言葉を選びながら続けた。


「芳香成分を並べても、その人らしさの証明にはならないから」


 少し間を置き、続ける。


「たとえば、グレープフルーツを精油にしても、あの果実の香りにはならない。ヌートカトンが少し欠けるだけで、オレンジの皮になる」

 

「そうだな。グレープフルーツ精油だけでは、あの果実の温度、皮の張り、実を割った瞬間のみずみずしさまでは戻らない。それと同じで、香印の香りは、その人の時間や記憶と結びついた揮発体だ。……再現できるのは匂いの記号──〝それっぽさ〟だけだ」

 

 アンシーはカップを手にし、紅茶の香りを嗅いでから、一口含んだ。蒸気に混じるベルガモットの香りが、室内にわずかな湿度をもたらす。

 

「だからといって、香りに何の力もないわけじゃない。記号に過ぎない香りでも、人の行動や感情を左右するくらいの効き目はある」

 

 間をおいてから、アンシーは声を落とした。

 

「……アルカがそうだろ。香印と違って恒常性はないが、短時間なら人の知覚を狂わせる力がある。使い方次第で、十分に効く」

 

 静かに砂糖壺の蓋を開け、小さなスプーンで一杯分だけすくい取る。そのまま、躊躇ためらいのない手つきで紅茶に落とした。

 

「その使い方を決めるのが設計だ。……設計とは何を指すか、言ってごらん」

 

 ジャックは一度、視線をテーブルに落とした。思考が舌の上でかすかに転がるような感覚。

 

「ノートは、分子の物理特性だけで決まるものじゃない。知覚のタイミングと文脈によって立ち上がる。『どの香りを、いつ、どんな順で感じさせるか』まで、意図して組み立てないといけない」


 言葉の速度をわずかに落とす。


「分子量、揮発性きはつせい、拡散性、遷移せんいの継ぎ目、残香ざんこう……すべてを計算に入れて、知覚の順序と印象を構築する。それが、設計だ」

 

 言い終えて、ジャックは目を細めた。

 

(……意図的に、他人の感覚を乗っ取る。それが設計の正体か)

 

「普通は、そうだ。揮発性や分子量である程度の順序は決まる。だが、香印が絡むと違う。軽いトップが沈み、重いベースが浮くような――順序の錯覚だ。ノート構造が、知覚から崩される」

 

 頭の中に、ノブレサントで出会った香印が蘇る。揮発しないトップノート、沈みきらないベース。時間軸に乗らない香り。

 

 ジャックは膝の上で手を組み、そっとつぶやく。

 

「あれを再現するのは、やっぱり無理だ……」

 

 あのとき、自分をすり抜けたオブリエの身体。

 存在を世界から切り離してなお漂っていた、雨の香り。

 仮に構成に届いたとして、それを留める方法が、果たしてあるのか。

 

 アンシーの声が、思考を断ち切った。

 

「香印そのものを再現しろって言うなら、そりゃ無理さ。でも――オブリエは、外の香りに上塗りされたせいで、自分の香りを見失ってる。そういう状態なんだろ。……だったら、戻れる香りを用意してやるしかない。根本から、自分の芯を引き戻せるような香りをな」

 

 アンシーの声は穏やかだったが、言葉は突き刺すように鋭かった。

 

 ジャックは思わず目を上げる。

 そこにいたのは、優しい祖母ではなかった。

 

 調香師としての〝矜持〟を剥き出しにした――かつて数多の弟子を潰した女。

 

 調香師アンソレンス・ローラン。

 

「ジャック。おまえは、オブリエのために何かしたいと思ってる。それは見ればわかる。でもね、情だけじゃ香りは創れないんだよ。むしろ、潰しかねない」

 

 ジャックは目をそらさなかった。逸らせなかった。唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。

 

「オブリエに渡したあのアルカ。おまえはどう感じた?」

 

 問う声は鋭かった。曖昧な答えを許さない気配があった。

 

「……誰かの記憶の中で完成した理想像。余裕たっぷりの淑女。わざと隙を見せてくるとわかってても、惹かれずにいられない香り」

 

「そこまで読めるならわかるだろ。それはオブリエじゃないんだよ」

 

 アンシーの返答は一刀両断だった。

 

「あれは〝人に好かれるための檻〟だった。それを作ったのはあたしだ。オブリエがあたしにそう命じた。他人が望んだ理想像に、オブリエは自ら飲まれた。そうしなければ生きられなかった」

 

 ジャックの喉が、ごくりと動いた。

 

「ぼくに、何かできることはある?」

 

「おまえに何ができようと、やるか、やらないかしかない」

 

 アンシーはバッサリ切り捨てた。

 

「もしおまえにやる気があるなら、オブリエをテーマに香りを創ってみな」

 

 その瞬間、ジャックの目がわずかに開かれた。その表情には、注意深く見なければ見落としそうなほどわずかだったが、恐怖が混ざっていた。

 

「……でもそれは、香印の模倣になるのでは」

 

「そう思うならやめるんだな」

 

 間髪入れず、吐き捨てるような声が返ってきた。

 

「香印なんざ真似て創れるものか。創れると思ってるなら、お前は調香師じゃない。模倣屋だ」

 

 ジャックの目が、凍りついたように揺れる。

 

「匂いを再現するのは技術だ。だが存在を呼び戻すのは、問いだ。調香師は問いを立てる仕事なんだよ。もし本当に彼女自身が戻ってこれる香りを創れるなら、それは香印の模倣なんかじゃない。……魂の通訳とでもいうべきか。調香師にはそれができる。だが、訳し損なえば魂ごと壊れる」

 

 アンシーは棚のノート群を無造作に指差した。

 

「スフル・デテレの香料は誰でも使えるわけじゃない。それなりの資格がいる。机の上で安全な香りをこねてる間は、好きなだけ夢見てりゃいい。でも、あたしの工房で調香師を名乗る以上、いつか谷に突き落とすと決めてた。――今日がその日だ」

 

「谷……」

 

「甘えも、情けも許さない底だ。そこに落ちて這い上がれたら、おまえを調香師として認めてやる」

 

 ジャックは息を呑んだ。

 

 アンシーから提示されたものが〝通過儀礼〟ではないと理解したからだ。

 

 これは――審判だ。

 

「ジャック・ローラン。やるか、やらないか、選べ」

 

 喉が焼けていた。舌が張りついて、唾も出ない。奥歯の内側がきしむように痺れている。足の裏が冷たい。手のひらの汗が、香料瓶を滑らせたときと同じ感覚で滲んでいた。

 

 だが、それでも目は逸らさなかった。

 

 アンソレンス・ローラン。

 ペルジャンでも指折りの香料工房を束ねる主任調香師。その名の重さが、体の芯に沈む。

 

 逃げたい気持ちはあった。

 逃げたくなって当然の相手だった。

 逃げ出すならば、今だった。

 

 だが――逃げなかった。足は動かなかった。

 動けなかったのではない。自分で、その場に踏みとどまった。

 

「……やります」

 

 声は低かったが、確かな意志があった。

 アンシーはゆっくりとうなずいた。

 

「よろしい」

 

 その頬はまったく緩まなかった。ただ、ティーカップの端を親指で軽くなぞった。

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