(幕間) とある日の思い出

「誰かのためにって、難しい」


 ぽつりと呟くと、足元にいた黒猫が、応えるように、にゃあと鳴いた。満流みつるがヨイと名付けたこの子は、迎えた日からこの夏までで、随分と大きくなった。裸足の足の甲に伝わる、肉球越しの体重は中々のものだ。まあ可愛いので良しとする。


「難しい?」


 満流が振り向く。しまった、と私は思う。手を止める理由を作ってしまった。かと言って、折角始めてしまった会話を止めるのも勿体無い。

 仕方なく、仕事のことを忘れたように、私は頷く。


「難しい。よく分からなくなってくる。ね、ヨイ」


「ちなみに、今ヨイに甘んじて踏まれてあげてるのは?」


「これはこれで肉球とヨイの重量がいい感じだから、単なる私の役得」


「なるほど、代わってほしい」


「ヨイに頼んで。私に決定権はないから」


「ヨイ〜」


「ア"?」


「ヨイのドスがすごい」


「韻踏んでるよ湖子さん」


「だってあまりにも鬼気迫ってたから。というわけでしばらくヨイは私のものです」


 そう宣言すると、夫は、この世の全ての希望を失ったような顔でぐったりと椅子にもたれ掛かる。丸顔だけど骨格は細い方なので、この前買った柔らかめの仕事椅子に体が沈んでいる。


「……血涙が出そう……」


「血が勿体無いでしょ」


「それはそう。……それで、なんで急にそんな実感を?」


「……今日、泣いてる人がいて」


「うん」


 こくり、と頷く。今日も満流は常温だ。身を乗り出すでもなく、あしらうでもなく。こちらが好きに漕ぎ進められるように、適度な流れに保ってくれる。


「通り過ぎようか迷って、声掛けた」


「掛けたんだ」


「うん、掛けた。そしたら、ちょっと迷惑だったみたいで。一人で泣きたかったらしい」


「それはまあ、見ただけで判断するのは難しいと思うけど……」


「でもまあ、良く考えれば顔隠そうとしてたし、そうだったなと思って」


 再びヨイが鳴いたので、私はそのままフローリングに胡座を組む。おっ、というような顔をして、これ幸いとヨイは私の背を登り始める。落ちないように前屈んで傾斜をつけた。首に当たるヒゲがくすぐったい。俯いているから、満流の顔は良く見えない。


「……人への行動ってさ、質量があるね」


 ヨイが頭まで登頂する。首が重い。


「質量?」


「どういう意図で渡しても、重みとか、引っかかりはあって。タイミングによっては負担になるし……うわ」


 ヨイが頭の上で伸び上がる。前脚を踏ん張ったのか、額の方に重心がずれた。爪が刺さって少し痛い。


「満流。落ちそうじゃない? ヨイ」


「大丈夫そう。今あくびしたよ」


「え、見たかった」


「ふふふ、今度は僕が得してしまった」


「うわ、さっき自慢した分三倍くらい悔しい」


 どう上向いても、視界に入るのはヨイの顎くらいだ。歯噛みしていると、ぽんと尻尾で首を叩かれた。残念だったな、か、角度を直せ、か。後者のような気もしなくもない。私は更にこうべを垂れながら、脱線していた話を引き戻す。


「……それで、参考にまでなんだんだけど。満流は誰かに何かしたいと思った時、どうしたら上手くいくと思う?」


「えっ、僕? 僕は……うーん?」


 首を捻る様が目に浮かぶ。かちゃりと、机の上にパソコン用の眼鏡を置く音がした。


「そうだな。……何か渡すのに例えるなら、紙袋に入れるとか、ラッピングするとか?」


「紙袋?」


 思わず顔を上げてしまい、ずり落ち掛けたヨイが抗議の鳴き声を上げた。ごめんごめんと、私は手探りでヨイの背中を撫でる。微かに、満流が微笑む気配がした。


「なんというか、そう、持っていきやすいような渡し方というか……?」


「ああ、印象も大事だよね」


 実際の行動に置き換えてみれば、言い方、に当たるだろうか。私は特にその辺りに関してはあまり感性が鋭くないから、何かと失敗しがちだ。でも、満流のこの喩えは分かり易い気がする。

 両手で頭の上のヨイを固定しながら、私は僅かに首を傾げる。


「その考え方、面白いからもっと聞きたい。他には?」


「他? 他……ほか……あ、あと同じような感じで考えるなら……何を選ぶかとか、どんな値段のものを選ぶかとか?」


「何を選ぶかは分かるけど。値段?」


「そうそう、値段。あと量とか……ほら、あんまり沢山もらっても、相手が申し訳なくなることもあるかなと……」


「……確かに」


 具体的に身に覚えがある話に、私は言いつつ目を逸らす。

 結婚前、同じ家具会社に勤めていた私達が、付き合い始めて1年ほど経った頃。仕事で使えるように、と、満流シンプルだけれど上品な時計をプレゼントしてもらったことがある。

 私はそれまで、衣類や身につけるものへのこだわりは大してない方だったから、初めて『特別な』時計を貰ったことが、それはそれは嬉しかったのた。時計を確認する度に、その思い出を通して普段の生活を見ることができるような気がした。私の生きる時間

に、大きくて綺麗な額縁を贈られたように感じた。

 そこまでは良かったのだが、ここからが問題だった。

 私は、その気持ちをどう伝えるか考えあぐねた。

 今ですらややマシになったものの、転生したばかりの当時の私には尚更、満流のような語彙も、自分を客観視する余裕もなく。感謝の言葉を渡すだけでは満足できなかった私は、迷走に迷走を重ね。

『満流、これ。私から』

『えっ!? ありがとう……!って、二個!?』

 遂に、同じ時計の男物をスペア含めて二つ贈る、という謎の暴挙に出る。

 結果驚いた満流にその場で尻餅をつかせてしまった、通称二倍時計事件は、未だに記憶に新しい。

 今思い返せば、流石に重いだろうとか、同じもの二つはいらないだろうとか、そもそもお揃いに躊躇わなかったのか、とかいう発想は出てくるのだけど。その時は多分、頭がまともに働いていなかったのだろう。


「それはそうかも。私もその節は本当にごめん」


 ヨイが滑らない程度に軽く頭を下げると、頭上から不思議そうな声がした。


「その節……?」


 まさか忘れているのか。私は転ばせて心底反省したのに。いや、満流が気にしてないなら、それが一番なのはそうだけど。


「ほら、時計のお返しの、あの」


 そう言うと、頭上で大きく息を吸う音が聞こえた。驚いたのか、ヨイが唸る。


「あ、時計!?」 


「そう、時計の」


「あー、いや、あれは僕もサプライズだったのとか箱からもう一つ出てきたのとかでびっくりしてしまって……あと、当時は言えなかったけど、あれです」


「あれ?」


「その、『お前に貸しは作らん!!倍でお返しだ!!』 みたいな感じかなって一瞬勘違いしたというか」


「……私、そんな武士みたいなこと言いそうだった?」


 確かに私の渡し方も緊張してぶっきらぼうになったとは思うけど、流石に納得いかない。


「いや、あの瞬間は僕も嬉しいやら何やらで発想が宇宙の彼方に吹き飛んでて……あ、でも、正直今もぎりぎり言いそうな気はしてる」


「……」


 時々、満流から見た私がよく分からなくなることがある。


「と、ともかく、」


 上擦った満流の声に被って、ヨイが姿勢を縮めるのを感じた。軽い衝撃と共に、抑えていた手から柔らかな毛並みがするりと飛び出していく。

 顔を上げる。黒い軌跡を、追う。


「相手を思って選んで、相手が受け取りやすいようにして渡せたら。結果はどうあれ、それはある程度、相手のためのを思った行動になった、ってことでいいんじゃないかな……と、僕は私見ながら思いました」


 滑らかに、柔らかに、ヨイは満流の膝の上に降り立っていた。


「急に最後だけ何かの答弁みたいになってる」


「いや、書くのと喋るのって違うなと。普段書いてるようなことでも、いざ喋ると気恥ずかしくなってしまって」


「別に恥ずかしいことは言ってないのに」


「そう? それなら、そうだといいな」


 淡く笑った顎に、ヨイが何を思ったか右前脚を掛ける。ぅわ、と、歓喜とも悲鳴ともつかない声を、満流が上げる。


「肉球が、肉球が」


「そのもちもちが毎日のケアの成果です」


 拾いたての頃、野良猫だったのですっかり硬くなって割れてしまっていたヨイの肉球は、今となってはあんみつの白玉と張れそうなほどの柔らかさになっている。


「なるほど、これは日々引っかかれながら塗る甲斐があるやつだ……」


「獣医さんにいいクリームを紹介してもらえてよかったよね」


 言いながら、私は考える。

 ラッピングと言っても、色々ある。紙袋、ビニール袋、そのまま、包装紙。

 同じように、負担に感じない値段や量と言っても、人それぞれだ。

 だけど多分、自分でルールを決めて、毎回紙袋とクッキー、ではだめなのだろう。いや、大体はそれで良いのかもしれないけれど、そうでは明らかに噛み合わない時も、きっとある。

 私は、満流のように繊細でも器用ではない。その場で考え出すには無理がある。だったらどうすればいいだろうか。

 ひとまずは、と、ヨイに両手を掛けられた満流を見ながら思う。

 普段から、考えておくことが必要なのだろう。この間までしばらく、ヨイに合う肉球クリームを探して、ペットショップに来ればクリームの棚を見ていたように。

 いや、それよりもっと地道だろうか。何せいつ何が起こるかなんて分かりはしない。使う機会がなくても、見られる機会がなくても、できることを考えて、蓄えること。

 それが、いざという時他人のために行動するための、必要条件なのかもしれない。

 難しいな、と考えると、また眉間に皺が寄りそうになった。でも。

 想像してみる。両手いっぱいの包装紙。かき集めた、色とりどりの、リボンや色紙の束。

 それはきっと。素敵な光景であるように、私には思えた。

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