第4話 巡遊 後編


 次に向かったのは、生き物がいない世界だった。

 『永遠に広がる銀鏡の世界』と呼ばれるその世界は、文字通り銀の盆に張られた水が広がる円形の場所だ。水は基本的に凪いでおり、代わりに満天の星がその位置を変え続けて、水影の中を泳ぎ回る。また時折、本当に時折、涙が落ちるようにして、水面に波紋が立つこともあるらしい。

 この世界に生まれるなら、精霊は文字通りこの世界を大きく動かす唯一無二の存在となる。それこそ、創世者がはじめに定めたこの世界の物語さえもひっくり返してしまえるだろう。

 自分だけが影響を及ぼせる。世界と自分との間で、これ以上ないほど強い繋がりを結べる。

 その点では希望に沿うかと思ったものの、精霊は僅かな逡巡ののちに、雲に隠れるようにして光を翳らせた。


「……ここの静かさを崩すのは、申し訳ない気が、します。ここは完成されていますし、……それに、私一人だと、壊したのか良くしたのか、分からないかもしれません」


──壊したのか、良くしたのか、判断するには自分だけでは足りない……。


 確かにそうかもしれない。勿論この世界の主人になってしまえば、それも全て自分で決めてもいいのかもしれないけれど。少なくとも精霊が望むのは、そうした関わりではなさそうだった。

 それならばと、次の行き先には、『黄昏に染まる星の世界』と呼ばれる世界を選んだ。ここは創世者が赤土から練り上げ、炎で焼き上げて出来た世界で、空も土も星も、深い朱色に染められている。『白い細波の寄せる世界』とは対照的に、そこに存在する生き物は、見上げるような大きさの花のみだ。

 茎も葉も黒く広く、何であるかを知らなければ、影そのものが主人無しに佇んでいるように見える。巨木の枝ほどもある萼の先に咲くのもまた、暮れきる寸前の空のような、昏い藍色の花びらだ。朱い世界の中で追い出された闇が、花の形に結晶化したような立ち姿。

 ここに精霊が生まれるならば、この世界の生き物は、精霊と昏い花のみとなる。お互いの間に生じる感情がどうなるか──愛情になるか、憎悪になるか、孤立感になるか、恋情になるかは両者次第であるものの、いずれにしても容易には切れない関係となる。確実にこれ以上なく強い繋がりと呼べるだろう。

 そう説明すると、精霊は再び、しかし今度は先程より僅かに明確に、光を弱めた。


「……すみません。ここも少し、違うかもしれません。それに」


「それに?」


「この花には、私だけでは、だめな気がします」


「……そうでしょうか」


 言われて、私は巨大な花を見上げる。

 何千年も、ここに一人空を見上げる花。そういう風に、この世界はできている。この世界が存在する前から、そうであったと決められている。私がこの花であったら、むしろ孤独に慣れて、騒がしいのは苦手になるような気がする。


「もちろん、私がそんな気がする、と言うだけですが……」


 おずおずと付け加える精霊に、私は首を振った。私の意見との違いは、この精霊の明確な個性の現れでもある。それをきちんと突き詰めていくのも、精霊に合った世界を見つけるために必要なことだ。


「どうしてそう思われたのか、聞かせてもらってもいいですか? 教えていただけたなら、貴方の好みや価値観を知る手助けになると思うので」


 膝を曲げて、視線を精霊に合わせてみる。私たち夫婦に子どもはいなかったけれど、夫側の姪や甥と話すときはこうしたらいいと聞いたのを、思い出したので。


「理由……は……」


 言い淀む精霊を、急かさずに待つ。それとも、こうして見られていると余計に焦るだろうか。


「……その。私なら、不安になると思うので」


「不安に?」


「はい。……貴方と話していて、思いました。誰かの声がするのは、誰かの声がしない瞬間ができると、いうことで。それは、自分一人の時よりも、不安です。だから私が話し相手でなくても、何気ない誰かの声がしていた方が、嬉しいかもしれない、と思います」


 私は思わず、瞬きをしてしまった。

 静かな世界が好きで、かつ、多くの相手と関わるのを少しためらっている素振りを見せていたから、てっきり生き物が少ない世界の方が合っているかと思ったけれど。一概に、そういうことではないらしい。

 そうなると、多くの生き物がそれぞれに暮らす中で、限られた相手と暮らしていきたい、ということだろうか。

 目を閉じる。他にも、精霊が伝えてくれたことを、思い出してみる。

 『白い波の世界』で知りたい、と言っていたのは、役割。

 短く単調なサイクルはあまり好ましくないようだった。

 望んでいるのは、強く何かに関わること。

 それから、『銀鏡の世界』での発言。自分一人では、壊したのか良くしたのかの判断が難しい。

 裏を返せば、他者にとって良い結果になる行動をしたいし、その結果自体も分かる方がいい、ということだろうか。

 『黄昏星の世界』での言葉。誰かや何かの、たった一つの特別になりたいわけではない。自分たち以外の生き物の何気ないざわめきも、不快ではない。

 それから。この精霊の本質である、空転。

 イメージしてみる。

 噛み合わず回り続けること。

 微かに軋む音。連鎖していく、大きな歯車。変わらない役割。それはあの緑の虫の一生と、どう違う? 


「……あ、」


 瞼の裏で、蒼い光が揺れる。目を開くのと、精霊の控えめな声が聞こえるのは同時だった。


「……ココ様?」


「……あの」


 もしかすると、と思う。今閃いた直感が当たっていれば、私はこの精霊の穏やかで内向的な印象にばかり目を向けてしまっていたのかもしれない。

 そうだとしたら理由は明白だ。きっと、自分に必要以上に重ね過ぎていた。この精霊に、自分に似ているところがあるのが嬉しくて。

 でも、これは私たちのための旅ではない。この精霊だけのための旅だ。


「もう一つ、紹介したい世界を思いつきました。そちらは少し説明に時間が掛かるかもしれませんが、お付き合いいただけますか?」


「……はい、勿論です」


 頷いた精霊を、速やかに車へ案内する。その最中も、徐々に心臓が早鐘を打ち始める錯覚が止まらなかった。あくまでも人であった頃の記憶を通じて、そう感じているだけであるというのに。視界に溢れてきた銀髪を耳に掛けながら、私は櫂を呼び出し、車に翳す。ロックを外す音が、やけに大きく響いた気がした。

 空転とは。恐らく、空回りする、という表面上の意味だけではなく。

 車に乗り込む。エンジンを掛ける。

 そうではなくて。


──噛み合わずとも回り続けられる、ということではないだろうか?

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