第9話 喪失と赤い石



「……えっ?」



 するとツーッと、頬に温かいものが通った。触ってみればそれは水。いつの間に、ガラスコップに入っていたはずの水が顔に付いたんだろう?そう思っているともう片方の頬にも、温かい水。


それはしばらく止むことなく流れ続けた。声は出ないし別に泣いているわけでもない。しかし、溢れ続けた。ただ自然と溢れていた。


 脳に巡る思考は先ほどから同じで、ただ俺はどうすれば良かったのかという問いだけだった。けれど、涙を皮切りに別の言葉が湧き出てきた。



「ツムギさん、俺……」



 それからポツポツと、ツムギさんに話し始めた。プロ野球選手になるのが夢だったこと。肩を壊してしまったことで野球を辞めてしまったこと。そして先ほど妹のミカと喧嘩しここに来たこと。ゆっくりと、出来上がってしまった氷を溶かすように話した。涙は依然として流れていたが、あまり気にはならなかった。少し恥ずかしかったけれど。


ツムギさんはそんな俺の話を、一切口を挟むことなく静かに聞いてくれた。俺はそれを見て思った。


ああ、だからここは居心地が良かったんだ、と。




*         *         *




 話し終えるころには午後9時半を過ぎていた。ツムギさんは話し終えた俺に一杯のコーヒーをくれた。「サービスです」とだけ告げて。俺はそのコーヒーを飲んだ時、今までにない清涼感を感じた。きっと特別なものなんだろうと思った。けれど少しだけ、しょっぱかった。



「……そんなことがあったんですね」


「はい……。それで俺、どうしたらいいのか分からなくて」



 ツムギさんはいつの間にか俺の座っている席の横にいた。椅子に座って、こちらを見ている。



「妹のミカがどうして急にそんなことを言ったのかも、これから俺がどうしたいかも……すみません、ホント急にこんなこと」


「いいんですよ。もともとここは、そういう人のためにある場所ですから」


「え、でもここ喫茶店ですよね?」


「はい、喫茶店ですよ」



 あっけらかんと言うツムギさんに俺はどう反応したらよいか分からなかったが、ツムギさんが言うのだから、きっとそうなのだろう。



「バッティングセンター、ありますよね?」


「あ、はい」


「バッティングセンターも、ボールを打つという行為はみな等しいですけど、来る理由はさまざまですよね?」



 確かにそうだ。単純に野球でのバッティングが上手くなりたくて来る人もいるが、それだけではない。野球のバントをしに来る人もいれば、はたまたストレス発散やバッティングの爽快感を求めて来る人もいる。



「それと同じ感じです。とくにここは、そういった場所であって欲しいと願って作った喫茶店ですから、アキラさんみたいな人に来て欲しいのです」


「へぇ……」


「ここの喫茶店の名前……『アウローラ』というのはそうした願いから付けた名前です」


「アウローラ。そうか、夜明け……」


「ですから、その夜明けに導くのも店主である私の役目です」



 そう言って、ツムギさんは首に着いているネックレスを取り始めた。いったい何をする気なんだろうと思っていると、ツムギさんが言った。



「ここに付いている赤い石に、触れて、目を閉じてください」


「え、えっ?」


「この石には、ある不思議な力があります。きっとアキラさんが求めているものが見られるはずです」


「求めているもの……」



 急にオカルトチックな話が出てきてしまい困惑したが、今はそんなことに動揺している場合じゃない。それにこう話すツムギさんの目は、真剣そのものだった。優しい笑みに乗せられた真っ直ぐに深い青の眼。力強く、それでいて柔らかい。矛盾しているが真理的なものだ。それだけで、信じる価値を持たせる。


 言われたとおり、ツムギさんの手のひらに置かれたネックレスの先の赤い石に触れ、目をゆっくり閉じる……。じんわり感じるツムギさんの手の温もりと、徐々に温かくなっていく赤い石。ふわりと香るコーヒーの落ち着く匂い。


しばらく触れていると、喫茶店の中に風を感じる。どこかで触れたことのある、水気を帯びた風。草木の揺れる音と砂ぼこりの感触。遠くでは誰かが俺を呼んでいる。この声は、誰だ?


……だんだん近づいてくる。それに伴って、やけに喫茶店内がうるさく感じる。物音が増えていって――あれ、コーヒーの香りがしない?これは――




「お兄ちゃん!!」




 声にハッとして、目を開ける。



 

そこにはいつかのミカと、がいた。思わず辺りを見渡し、それが幻想や妄想ではなく現実のものだと知る。


いつの間にか俺は、いつかの河川敷にいた。手や脚はいつもの俺。しかし目の前には、幼い妹のミカと、幼い、おれ。周囲に人はおらず、先ほどまでいたはずのツムギさんはいない。喫茶店も当然なかった。……いったい、なにが――



「やっぱりミカは上手いなー!」


「えっへへ、そうでしょ!」



 もう一度幼いミカとおれを見る。どうやらまたキャッチボールをしているらしく、互いにボールを投げ合いながら会話をしているようだ。


お揃いのグローブに、色違いの服を着て、同じボールを投げ合っている。こんな時期もあったなぁ……。


 そう思って懐かしむように見ていると突然、おれがボールをとって投げずにいる。ミカは首を傾げ、グローブをパカパカしている。



「なぁミカ」


「ん?なぁに~?」


「ミカもさ、一緒にプロ目指そうよ」



 おれが言う。



「どうして?ミカ、別にそこまで野球好きじゃないよ?」


「……だって、ミカ野球上手いだろ?プロ目指してみてもいいじゃんか」



 そう言って、おれが投げる。ポスッという音とともに、ミカのグローブに届く。しかしミカはそのままボールを持って、先ほどのおれのように投げなかった。



「ミカね、お兄ちゃんと野球ができればいいの。正直、お兄ちゃんがプロ目指すのもちょっぴり反対だし」


「え!?」



 そうだったっけ……?俺は記憶を辿るが、どうにも思い出せそうになかった。続けてミカが言う。




「ミカはね……なによりも楽しそうに野球してるのが好きなの!いちばん頑張ってて、いちばん楽しそうなお兄ちゃんが、好きなの!」


「だから、そのままでいてねっ!」



 ……ミカが精一杯投じたボールは、おれのグローブに力強く届く。おれはボールを持って、投球モーションを取りながら言う。



「じゃあ、約束なっ!」



 投じられた球は先ほど投げた時よりも強く、ミカのグローブを震わせる。それからおれは、続ける。



 

「お兄ちゃんは、ずっと野球続けるよ!プロになれなくても……ずっと!!」


「ほんとっ!?……ふふっ、約束ねお兄ちゃん!」



 

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