第10話 失くしちゃいけないもの




*         *         *




「アキラさん、起きてください」


「……え、あっ」



 目を開けるとそこには喫茶店とツムギさん。ツムギさんの首にはいつもと同じようにネックレスが着けられている。しかしいつもより、先に付いている赤い石が光って見えた。


先ほどの光景はなく、彼らもいない。程よいコーヒーの香りと、ぼんやり光る照明。辺りを見渡しても、あるのは空席と壁掛けアンティーク時計。時刻は午後11時を過ぎて――



「え!?」


「ずいぶん長く寝てましたね」


「す、すみません!俺、あのあと、すっかり……」



 そう言うとツムギさんはニコッと笑い、頷く。



「大丈夫ですよ。それに先ほども言いましたが、この石には不思議な力があります。私も触ったままずっと寝ていたことがありますし」


「はぁ」


「それより、少し前からスマートフォンが震えていますが大丈夫ですか?」


「えっ」



 いつの間にかカウンターテーブルの上に出していたスマホが震えている。慌てて見てみれば父からの着信だった。ボタンを押し、電話に出る。



「も、もしもし」


『ああ、アキラっ!良かった……電話に出てくれて!いまどこにいる!?ミカも一緒か!?』


「あ、えっと……――え、ミカ?」


『一緒じゃないのか!?お前を探しに行くって、俺たちは止めたんだが……そのまま行っちゃったんだっ!』


「えっ……」



 俺を……探しに?でもミカはここを知らない。突然のことに頭をフル回転させる。探しに、さがし、に……――あっ。



『とにかくアキラ、お前は今からでも帰って――』


「父さん俺……探しに行ってくるッ!!」


『え、おい!いま何時だと――』


「いいからッ!とにかく行ってくるッ!!」


『ちょ、おい――』



 電話を切り、スマホを持ったまま店の扉に向かう。ドアノブに手をかけた時、慌てて振り返りながらツムギさんに言う。



「コーヒーとか石とか、ありがとうツムギさん!俺、行ってきますっ!!」



 ツムギさんは微笑みながら、返事をしてくれる。



「またいつでも、アキラ


「ええ、また!」



 そう言って扉を勢いよく開け、暗い夜の道へと駆け出す。先ほどまで感じていた疲労感も痛みも、もはや関係なかった。……俺は今から、伝えなくちゃならないことがある!


明かりは少なく、人もさしていない。けれど俺には道がハッキリと見えた。進むべき道、その先に誰が待っているかも。




*         *         *




 ……兄が言ったことを思い出してしまう。あのとき確かに、お前には関係ない、と言っていた。それが心にチクリと刺さって、苛立ちよりも悲しみの方が勝った。けれど、その言葉を呼び起こしてしまったのは私の責任だった。



「どうして、わたし……」



 兄が野球をしなくなった。原因は分かっていた。肩に癒えない傷を負って、兄の好きな全力のプレーが出来なくなったからだ。それによってあれほど焦がれていたプロ野球選手になるという夢も、追えなくなった。それがどれほど兄にとって辛いことか、兄を除けば私が1番よく知っていたはずだ。なのに――



「あんな、いいかたっ……」



 涙がポロポロ溢れてしまう。それが体育座りをしている私の膝にポトポト落ちる。それは溢れていて、止むことのない後悔だった。言い訳なんてしようのないものだった。


 それでも私は、兄に野球を続けてほしかった。約束したはずだったから。だから話しづらくなってしまった兄に、少しだけ勇気を出して言った……はずだった。なんだか照れくさくて、気づけばあんな言い方になってしまっていた。後に引けなくなった私は、兄にとって最も残酷で覆しようのない現実を、非情な言い方で嘲笑ったのだ。


分かってる、ホントはそんな言い方したくないって。でも、止まれなくなってしまった。自分の気持ちばかり先行して、今1番辛くて、苦しいはずの兄に、また野球をして欲しくて……でもきっともう、私のことも野球のことも嫌いになっちゃった。私の、わたしの――



「わたしのせいでっ……ごめんお兄ちゃんっ、ごめんっ……!」



 こうして1人河川敷の小屋の中で言っても、返ってくるのは夜の静けさだけ。きっともう、取り返しはつかない。


兄を探しに来たのに、学校グラウンドにも、橋下にも、ここにも居なかった。きっともう帰ってこないのかも知れない。そう思うだけで、胸が張り裂けそうだった。ずっと、ズキズキ私を壊していく。


なにも出来ず、ただうずくまって泣いている。みっともなくて、くだらなくて、女々しくて、自分勝手なのは、本当は私のほうだ。これならいっそ、私が――




「ミカぁ!おい居るんだろっ!?」




 ……私を呼ぶ声。何度もなんども聞いた声。河川敷の入り口から聞こえる、すぐにここに来るだろう声。けれど私は……小屋から出れない。後悔で身体が動かない。



「ミカーッ!!」



 だんだん近づく声。徐々に足音も聞こえてくる。もうすぐ先に、居る。けれど……顔を上げられない。だって、わたしはっ……。


「……やっぱりここか、ミカ」


 ぎしりと小屋の入り口が音を立てる。兄がこの小屋に入ってきている。けれどまだ、私は顔を上げられない。


うずくまっていると、その横に兄が座る。鼻によく馴染む匂い、走ってきたのか少し荒い呼吸、そしてゆっくりと私の頭に置かれる大きな手。ゆっくり私の頭を撫でている。そして兄は呼吸を整えて、ぼそりと話し始めた。



「俺さ……肩を怪我して、プロになれないってわかった時、ぜんぶ終わったと思ってたんだ」



 その言葉に、また一つ胸に矢が刺さる。深くて大きくて、鈍い痛み。



「だから野球をやめた。そうすれば、好きから来る苦しみから逃れられると思ったんだ。……でも、そうじゃなかった。結局虚しさだけが残ってたんだ」



 そう言って、私の頭から手を離す兄。



「薄々気づいてた、無理やり辞めてもただ虚ろなんだって。でもそんな時、ミカが言ってくれた。まあ、あの時は正直……腹が立った」



 痛みが増す。けれど、これは私の責任だ、自業自得だ。



「……でも、おかげで大切なことを思い出したんだ。まぁ、ちょっと色々あったけど……ミカとの約束、ミカは覚えててくれたんだろ?」



 ハッと顔を上げる。そこには昔、一緒にキャッチボールをしたときと同じ笑顔の兄がいた。少しだけ赤くなった目で私をまっすぐに見てくれている。それに思わず、肩が揺れて、嗚咽が漏れそうになってしまう。けれど我慢した。私はそうする権利なんてないから。



「覚えててくれて……俺に思い出させてくれて、ありがとう。俺、野球やっぱり、好きだよっ」


「あっ、わぁ……っ」



 兄が、笑っている。



「あっ、んぐっ、う……うわああぁぁんっ!!!」


「うおっ、ちょっ!」


「ごめんな、さいっ、ごめんなさいっおにいちゃあんっ!!わたしっ……わたしっ」



 気づけば私は兄に抱きついて、おんおん泣いていた。涙も鼻水も混ざっちゃうぐらい、ぐしゃぐしゃに。けれど兄は優しく、前みたいに抱き返して頭を撫でてくれた。自分の震えとは違う震えを感じる。兄の手も、震えていた。




 しばらく私たちは、小屋の中でそうしていた。他に遮るものは、なにもなかった。

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