第8話 守るものとは



「……え?」



 愚問だった。怪我をしたことはミカも知っているはずだ。診断を受けた後、リビングテーブルを囲んで説明もした。今後どうするかも言ったはずだ。それなのになぜ、そんなことを言うのか。


 ミカは相変わらずムスッとしていて、眼光こそ和らいだが依然として表情は険しいものだった。



「いやさ、なんで辞めちゃったの野球」


「……それ、前も説明したと思うんだけど」


「いや、あれが理由で辞めることないじゃんって言ってんの」


「……には関係ないじゃん」



 なぜだか、口調が強くなってしまう。普段ならと呼んでいるのに、と言ってしまう。それに頭がきたのか、ミカも先ほどより口調が強くなる。



「関係ない?自分のこと見れてないから言ってんじゃん!」


「実際、関係ないだろ」


「むかしっからそうだよね、他の人なんかまるで無視してさ!」


「いまそれこそ関係ねぇだろ、昔なんて」



 

 やめろ、こんなの望んでない。




「なんでそういう言い方しか出来ないわけ!?誰のために言ってると思ってんのっ!?」


「っ……とにかく、お前には関係ないだろ」




 手が、声が、震える。ミカも目を刃のように俺へと向け、顔がだんだん赤くなっている。いまにもこちらに、その握りしめた小さな拳を振りかぶって来そうなほどに。




「っ!!……はぁ。あーあくっだらないっ!怪我で夢が叶わないからって、辞めちゃうんだっ!ホンっトみっともないねぇっ!!」


「……は?」


「だってそうじゃんっ、毎日女々しく、帰ってきては部屋にこもってみっともなく――」




 ドンッ。


気づけば俺は、力いっぱいミカを突き飛ばしていた。床に崩れた体制で座り込むミカの目は、まるで何が起きたか分からないといったものだった。俺は止まらぬ身体で飛ばされたミカに近づき――


 パチンッ。



「……えっ」



 ミカの右頬にビンタをしていた。ミカは叩かれ赤くなった頬をゆっくり震える手でさすり、こちらに再度目を向ける。その目は揺らいでいた。しかしそんな可哀想なミカを見ても、俺の口は、身体は止まらなかった。堰き止めるものをどこかに失くしてしまっていた。



「くだらない……?みっともない……?ふざけんなっ!!」


「ひっ……」


「俺が……俺がどんだけやってきたと思ってんだ!!それをさあ、お前なんて言った?……なぁ、なあっ!!!」


「えっ、あっ」



 

 止まらない、止められない。




「ざっけんなよぉ!!なあ!?人の気も知らないで……おまえはぁ!!!」


「ひいっ……!」




 ふたたびビンタしようとした身体をようやく止める。息が苦しい。胸がドクドクしていて、熱い。脈打ち止めていられない身体という凶器が、ミカに向けられている。


ミカは小さくうずくまり、守る姿勢をしながら僅かな隙間からこちらを見ている。その瞳には、涙があった。それを見たとき俺は、脳裏に言葉が浮かんだ。




 取り返しのつかないことをしてしまった――。




「……っ!」


「あっ……」



 走り出す――。ここではないどこかへ行ってしまいたかった。口論が聞こえたのか、様子を見に来た両親が階段途中にいる。それを両手で掻き分けあいだを走っていく。玄関でかかとを潰しながら運動靴を履いて外へ出る。街灯がポツポツある道路を無我夢中で駆けて行く。周りには、誰もいない。



「ハァ、ハァ……!」



 走る、はしる、走る。ただ行く当てもなく、走る。喉が渇き吸い込む空気に触れるとジンとした痛みが走る。思い切り振っている腕も、だんだんと感覚が弱くなっていく。肩は痛み、脚はだんだん回らなくなっていく。


しかしそれでも走った。


消えろ、きえろ。消えろ消えろ消えろっ――と念じながら、ひたすら走り続ける。靴の踵は以前潰したまま、制服も髪も顔もぐちゃぐちゃにさせたまま、夜の色田市を駆け続けた。


ここではない――ここではない場所へ、消えてしまいたかった。




*         *         *




 体力の底すら残らぬかたちで疲れ果てた俺は、色田駅のバスターミナルにある小さなベンチに座っていた。駅構内からはスーツを着た人がゾロゾロと出てくる。かろうじて持って来ていたスマホのデジタル時計を見れば、すでに午後9時を回っていた。


 このまま帰ろうか?いや、帰ったところで居場所などない。かといってこのまま夜を明かすのも……そんな風に悶々と考えていたが、ふとひとつ思った。


喫茶店……。


 ベンチから立ち上がり、駅から離れるかたちで歩き出す。ギュッと絞まる痛みに喘ぐ筋肉を無理やり動かして進む。肩の痛みは、筋肉痛と散々走ったことによるアドレナリンの分泌によって抑えられており、今なら思いっきり投げられそうだなと馬鹿な考えを持つ。


そんな状態で喫茶店に辿り着く。駅からすぐ近くにあるのは分かっているが、ほんの一瞬で着いてしまったことに改めて驚く。しかし最も驚くべきところはそこではなかった。



「開いてる……この時間に?」



 まるでなにごとも無いように開いている喫茶店。表の小さな看板も『open』となっているし、店内の照明も点いている。恐る恐る扉に手をかけると、すんなり開いた。店内には誰も居らず、空のテーブルとやけに眩しく感じる照明が俺を静かに迎える。……本当に入ってしまって良かったのだろうか?


そう思い扉の前に立っていると、キッチンの方からツムギさんがやってきた。目が合うとツムギさんは少し驚いていたが、すぐにガラスコップに水を注ぎ始めた。それを見て俺は、なんだか安心した。


 いつものカウンターテーブル席につき、水の入ったガラスコップを受け取ると、一気に飲み干した。「おかわりください」と言ってガラスコップを差し出すと、ツムギさんは微笑みながら受け取ってくれた。ガラスコップに再度注がれた水は、渇きからか特別なものに見えた。


ツムギさんからガラスコップを受け取り、半分ほど飲んでテーブルに置いた。それからひと息つき、無言でツムギさんの方に小さくお辞儀する。



「ずいぶんお疲れのようですね」


「はい……。えっと、こんな時間にすみません」


「いいんですよ。こうした人のために、今日はこの時間まで開けてましたから」



 にっこりしながら言うツムギさん。それにつくづく、安心感を抱いてしまう。本当に今日、ここが開いていて良かった。


 それからはしばらく今後のことを考えていた。妹のミカにも、両親にも謝らなければならないだろう。しかしそれ以上に、ミカに言われた言葉に悩んでいた。




『なんで辞めちゃったの野球』




 理由なんて、分かってる。でもどこかその言葉に引っかかっている自分がいた。けれど、その気持ちをどこに持っていけば良いか分からないでいた。わざわざミカがそう言ったことにも、疑問が残っている。


ならばいったい、どうすれば――そう考えていると、ツムギさんがカウンターの向こうから、何かに気づいたらしく目と口を開けながら言った。



「アキラさん、どうしたんですっ?」


「え?」


「えっと、今アキラさん――」




「泣いてますよ?」

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