第7話 ざわめきの坩堝
のんびりとした雰囲気に浸っていると、一際大きな針の音がした。それに気づいて壁掛けアンティーク時計を見てみれば、短針が午後6時を示していた。外も暗く、街灯が水溜りを照らしている。
「それじゃあ、今日はこの辺で帰ります」
ツムギさんにそう告げ、鞄を持ち立ち上がる。同時にツムギさんも立ち上がり、レジカウンターへと歩いていく。
会計が終わり外に出ると、雨は止んでいた。暗がりの空には三日月。うっすら雲があったが、光を透過している。昼間の陽気さはなく、微かな冷たさを感じる。しかしさすが駅周辺、人は依然としてポツポツ歩いている。きっと帰宅途中なのだろう。
店の前で看板を『open』から『closed』にしているツムギさんに声をかける。
「今日はもう終わりですか?」
「ええ、もう来なさそうですし」
「……それじゃあ俺も帰ります。また今度」
「はい、また今度」
「今度……いつ行こうかな」
近いうちにまた行こう。そう思いながら俺はゆっくり、コンクリートの歩道で靴を濡らしながら帰った。
* * *
「なぁ……やっぱり退部、考え直さないか?」
デスクチェアにふんぞり返って腕を組み、こちらをジッと見るのは鈴木。中年独身デブの野球バカだ。雨の日の喫茶店から数日後……俺は、放課後の体育教官室に呼び出されていた。用件は以前俺が出した退部届について、だ。
正直、鈴木の前に立たされていることが苦痛でしょうがない。コイツは野球の指導こそ的確だが、人間的な教育は一切しない。他の教師や生徒の親にはバレてはいないが、多少の体罰もする。全ては野球が上手くなるために必要なのだとか。
教師の風上にも置けない。そんなやつがいまさら、辞めようとする生徒の邪魔をしている。何故そんなことをするのか分からないが、とにかく俺の意思は変わらない。
「……意思は変わりません。もう、燃え尽きました」
「燃え尽きたって、お前――」
「それでは失礼します」
「お、おいっ!まだ話は――」
言葉を最後まで聞くことなく、俺は体育教官室に礼をして扉をバタンと閉めた。扉の向こう、俺の後ろからは鈴木の唸り声がしたが聞かなかったことにした。
教官室の横に置いていた鞄を持って昇降口に向かい、ローファーを履いて学校を後にする。特に予定も無かったので喫茶店に行こうとしたが、少し思い直してやめた。帰宅途中、グラウンドからは力強く号令をかける声がした。緑のネットが風に揺れている。……立ち止まることなく、俺は帰路についた。
家に着くと今日は誰も居なかった。ミカも帰ってきていない。シンと静まり返った玄関は誰かの帰宅を待っていたかのように、俺の音だけやけにうるさく反響させる。ドサリと落ちる鞄に、バタンと閉まる玄関扉。ローファーを脱ぐ音。
……運動靴を履く音。制服がバサリと落ちる音に、バットを握る音。バットケースを握る。それには埃なんてついていないし、いつもと同じように黒く革っぽいツヤがある。そこにバットを入れて肩にかける。
「……行ってきます」
俺は
外に放置してある自転車にまたがり、漕ぎ出す。肩はまだ十分治っていないから、あまり刺激しないよう漕ぐ。
向かう先はいつもの場所。あの、河川敷。
* * *
「ただいま」
すっかり暗くなった、午後7時ごろ。俺はもう一度家に帰ってきた。汗はすっかり引いていて身体の熱も無くなってきている。運動後に乗る自転車ほど気持ちの良いものはない。
バットを元の場所に戻し、運動靴を脱いだ後、制服を持つ。そのまま自室に向かう前に……そうだ、手を洗おう。
玄関、リビングには照明が点いていて、家族の帰宅を知る。特におかえりという言葉は無いのだが、とりあえずもう一度小さく、「ただいま」とリビングの扉に向かって言っておいた。
手を洗い、階段を登り、自室に入る。ものの数秒でベッドにダイブする。無心のまま、天井を見上げる。暗い部屋の中でただ1人そうしていると、色んなものが脳裏によぎる。……部活をやっていた時は、こんなこと無かったんだけどな。
怪我をして、診断をもらったあの日から。ずーっと同じようなことが思考にある。野球のことを嫌いになろう、忘れようと努めても中途半端なこと。雰囲気を壊さないよう気を遣ってくれている両親と、さらに口を利かなくなったミカのこと。……そんな中見つけた喫茶店のこと。退部の件だってそうだ。
これまでただプロ野球選手になる夢だけを追いかけてきたし、他のことは二の次だった。そんな自分が肩を壊し、夢を失い、どうすれば良いか分からない未来を今見せられている。俺はいったい、どうしたいんだろうか?
また同じようにベッドに寝そべって天井を見ていると、コンコンとドアがノックされた。ノックをするのは父や母だけだ。この時間に来るなんて、珍しいな。
そう思いながら起き上がり扉を開けると、2階廊下の照明とともにミカの姿が現れた。険しく鋭い眼光で、目元にかかる栗毛を払いながらこちらを見上げている。ご飯のために呼びにきたのではないと、ハッキリ分かる。
「ど、どうした?」
「……」
無言。ピクリとも動かない。ミカは緊張している時に動けなくなってしまう所があるが、恐らくそれではない。ただ静かに、怒っている気がした。
思い当たる節はないが、とにかく怒っていることは確かだ。それにこうして会話が出来ることはあまりない。俺は少しばかりソワソワしていた。
「もうご飯出来たって?」
「……違う」
違うらしい。
「……あっ、洗い物出してないとか?」
「違う」
いったい、なんだろう。
「……あっ、風呂入れって――」
「違うッ!!!」
ダンッ!っと片足で廊下を強く踏みながら大声で言うミカ。表情はいっそう険しいものになり、両脚に添えられた両手が力いっぱい握られている。ミカのそんな姿は実に数年ぶり。兄妹喧嘩をしたとき以来だ。
しかしなにを考えても分からない。完全なお手上げ状態だ。
「……ごめん。本当に分からない」
「……」
目の前の妹は小さくため息をつき、一度下を向く。そしてもう一度、俺の目を真っ直ぐ見上げる。
「あのさ……なんで辞めちゃったの野球」
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