6.宣戦布告

犬神いぬがみの儀式は、対応を誤れば肉体を乗っ取られる。そうなったらお前を処分しなければいけない」


 失血で薄れゆく意識の中、昔のことを思い出していた。


 この場面は確か、犬神の儀式をする数日前だ。


 他に人のいない客間で、朽花くちばなという呪術士と二人になった時だった。当時奴婢ぬひである私に犬神の儀式の注意事項を説明してくれた。ただの話半分に聞いていたのだが、何故今、私はこの場面を思い出しているのだろうか。


 思えば、朽花は最初に訪れてきたときから不気味であった。血が通っていないかのように白い肌。まばたきをしない目。冷たい肉体とわずかに漂う死臭。訪れた理由は未だに分からない。あれからかなりの年月が経っている。もう生きてはいないだろう。


 頭が回らず、深く考えることができない。何よりも、寒かった。


 これが死ぬということなのだろうか。


 睡魔にも襲われ、意識が穴に落ちる感覚を覚える。


 私は、カンナに何も返せなかった。


 最後に、ありがとうより、ごめんなさいと言うべきだっただろうか。


 もうこれ以上、何も考えられない。私の意識は、静かに、水底に沈むように、完全に途切れていった。




 私は、自ら殺されたはずだった。それなのに、何故またこの横穴で目を覚ますのだろうか。奇跡的に生き残ってしまったのだろうか。思考がまとまらず、何が起きているのか分からない。


 妖怪は呪術士に殺され、呪術士は信用を取り戻して家に戻る。そういう筋書きになったはずだ。カンナはもう、この場から去ったのだろうか。


 あの時、短刀を自らの身体に押し込み、カンナの手を固定した。出血によるものなのか、だんだんと寒くなったことも覚えている。あの時の痛みと、異常な熱も覚えている。それなのに、身体の痛みは残っていない。あの時ほどの寒気もなく、身体の熱も感じる。それどころか自分の心臓が動いているのも分かる。


 あと、何故自分は仰向けに倒れているのだろうか。カンナを押し倒したとき、私はうつ伏せになったはずだ。カンナが私を仰向けに変えたのだろうか。どうしても現状に違和感が強くなる。身体の上に何か冷たい物が乗っていた。横穴が薄暗いため、正体に心当たりがない。右手は何故かほとんど動かなかったので、私は左手でなんとかそれを押しのけた。


 起き上がろうとすると、上に乗っていたそれが、私の右手を握り込んでいることに気付く。粘性の液体が、手をべっとりと覆っている。手を外すこと自体は難しくはなかった。毛むくじゃらで、どこか懐かしい感じさえ覚える触感。それがなぜ私の手を握っていたのかと考えていると、私の右手に身に覚えのない固い物が握られていることに気付く。


 それは短刀だった。手入れの行き届いた、綺麗な刀身。だが、それは赤黒い粘性の液体で覆われていたためか、私の顔を反射することがなかった。この粘性の液体は、血のように鉄臭い。


 そして、それと同時に気付く。この手は、この腕は、一体誰のものだ。自分の身体はもっと毛むくじゃらの、獣の姿だった。


 今の私の手は、毛に覆われていない、まるで人間のものに見える。


 短刀、人間の手、血のような粘性の液体。しばらく思考が止まり、一つの可能性に行き着く。


 視線を、身体の上に乗っていたなにかに向ける。毛むくじゃらの獣に似た人型の何か。


 見違えるはずもない。それは、私の肉体だった。胸から血を流し、絶命している肉体。それがずっと握っていた手が誰の物なのか。この短刀の持ち主は誰なのか。


 理解すると共に、手が震えて、短刀が落ちる。呼吸のやり方が分からない。自分の顔に触れる。すべすべとした、毛の覆われていない顔。


 私が最後に短刀で貫かれ、その手をずっと握っていた相手は、一人しかいない。


「……カンナ?」


 目の奥が熱い。意識を失う直前に思い出した朽花の言葉が、頭の中で反響する。私のせいなのか? 私が、自分が何なのか考えなかったからか? 後悔にさいなまれるが、それで事態が良くなるわけではない。


 自分の中のカンナの意識を探す。でも、彼女の気配を感じ取ることはできなかった。


 この服装、この匂い。確認できる情報から、ますますこの肉体がカンナであるということが否定できなくなる。


 思わず叫びたくなった。感情のおもむくままに暴れたかった。だが、そんな衝動に駆られながらも、外の気配がそうさせてくれない。


 何故こうなったのか、記憶を掘り返す。私が獣の姿になった理由。その心当たりは、あの犬神の儀式以外になかった。


 私はおそらく普通の獣ではなかった。犬神そのものだったと考えるのが自然だ。そうじゃないと、カンナの肉体を奪ってしまったことに説明が付かない。


 カンナであれば、正確な理由を探してくれたかもしれない。でも、そのカンナはもういない。


 自分の首に両手を当てる。その瞬間、カンナとの思い出が溢れてくる。彼女からは沢山のものを貰った。私は何もかもを台無しにしてしまった。


 カンナを、恩人を殺したような自分に、生きる価値なんてない。


 そうして力を入れようとしたとき、あることが脳裏によぎった。




 ここで死ねば、それはカンナに二度目の死を与えることにならないか……?




 手に力が入らない。目尻に涙が浮かぶ。自分の死は怖くない。ただ、カンナを裏切るような発想をした事実が嫌であった。




 カンナは、自殺するような人間じゃない。カンナがやらないようなことをやりたくない。彼女の生き様を、私は穢したくはない。


 ならば、私はこれからカンナとして生きるのか? それは無理だ。私に彼女のような振る舞いはできない。カンナの知識も技量も私にはない。カンナのように上手く生きられるとは思っていない。何より、カンナをかたることはカンナへの侮辱だ。


 では、このまま逃げるのか? 個人的には論外だ。黙って逃げるなんて、カンナらしくない。カンナが逃げたという事実が、カンナの名誉を傷つける。


 なら打ち明けて捕まるか? これは論外どころか言語道断ごんごどうだんだ。そんなことをすれば何もかもを台無しにする。教えてもらったことも、カンナが消えたことも、全てが無駄になる。それに、この場合の最後は結局殺されるだろう。そうなると、カンナに二度目の死を与えることになる。




 そうして、一つの考えにたどり着く。これであればカンナの名誉を傷つけることもない。全て、私の罪になる。


 落した短刀を拾い上げ、血を手で拭った。血の脂が逆に広がってしまい、余計に刀身が曇ってしまう。どうすれば綺麗になるのかわからないまま、私は刀身を鞘に収めた。


 私は結界の外へ足を運ぶ。外の寒気は、私を拒絶しているように思えた。吐く息が白い。身体の内が冷え、意識が少しはっきりしてくる。


 こういうとき、血まみれの身体で、どういった表情をするべきなのだろうか。


 そんなことを考えていると、物陰から一人の人間が姿を現した。カンナが言っていた追っ手の一人だろう。


 名前は分からない。口元を布で巻いて隠しており、暗闇に姿を隠すのに適した姿をしている。


 カンナが靈山りょうざん家という呪術士の家系であることは知らされていた。おそらく、その関係者だ。


 彼は私に近付き、ひざまづく。これは目上の者への態度だ。私をカンナだと思っているなら、やはり私はカンナの姿なのだろう。


 彼は私を見上げながら言う。


神流かんな様、もうすぐ本隊が到着いたします。私は事態を最低限聞かされております。何があったのかは聞きません。お疲れ様でございました」


 よかった、間に合った。カンナから聞いていた本隊が既に到着していたら、私はきっとごまかしも何もできないでいた。


「……神流様?」


 彼は何も反応を返さない私を不審に感じ始める。これ以上黙っていることもできない。横穴から出る前に考えた、策を実行する。


 私は、笑った。できるだけ悪く聞こえるように。できるだけ、私のせいになるように。カンナは何一つ悪くない。悪いのは、私だから。


「神流様……何を……!? 違う、誰だお前は!?」


 正面にいた一人が、私の豹変を機に刀を抜こうとする。私はその手を押さえ、刀を抜く手を止めた。そこから間髪を入れず、顎を殴り上げる。油断していたのか、その攻撃は防御されることもなく通った。男の肉体は少し宙に浮き、背中から地面に倒れる。


 カンナから教えてもらった体術をこんな形で使うことになるなんて。そう考えると、自己嫌悪に襲われた。


 その一人は気絶したのか、起き上がることはなかった。周囲の人たちはいつの間にか姿を現し、私を囲んでいた。彼らは既に刀を抜いて臨戦態勢だ。本隊への連絡に動いている人物がいる可能性もある。急がないといけない。


「この呪術士の肉体はいただいた! 最初から、そのつもりでここにいたんだ! もうこの地には用はない!」


 この山にいる人、全員に聞こえるように大声を出す。泣きそうになりながらも、私ははじめて嘘をついた。宣戦布告とも取れる正体の告白。胸が張り裂けそうだ。だが、これでカンナの責任ではなくなるだろう。カンナの名誉は、私に騙されたという風になる以外は影響がないはずだ。


「憑き物だ! 捕らえろ!」


 誰かが叫ぶと同時に、戦いの火蓋が切られる。全員がそれと同時に襲いかかってきた。


 カンナを殺させるわけにはいかない。包囲網さえ突破出来れば、この場から逃げられるはずだ。


 一人、立ちはだかる。私を素手で直接掴もうとしてきた。カンナの教育を思い出す。


「呪術士に素手で触れようとされたら注意すること。手に術を仕込んでいることが多い」


 触られる直前に相手の手首を掴み、思い切り引っ張った。その勢いを使って腹部に膝をねじ込むと、呪術士は嘔吐し、膝をついた。


 更に一人、今度は札を直接貼ろうと接近する。


 カンナはこう言っていた。


「呪符はかなり応用の利く道具だ。呪術以外にも結界術や封印術を発動できる。一番警戒するべきは封印術だよ。封印術を仕込んだ呪符を貼られたら、精度が低くても動きに支障が出る」


 私は相手の呪符を持った腕を取り、背後に投げ捨てた。呪符が貼られないように、手の角度には気をつけるようにした。




 次の人物には刀で斬りかかられた。


 カンナからは武器を持った相手についてこう言われた。


「防御できる道具がないなら、武器相手に正面から戦わないこと。どうしても戦わないといけないときは、可能な範囲で腕や手を押さえる」


 手に持った刀を両手で取り、刀を奪う。そして首に押し当てかけたところで、私は正気に戻った。


 今の刀を奪い切りつける動きはカンナに教えられていない。私はカンナの記憶を読むことはできない。だから、おそらく、これはカンナの肉体に刻まれた動き。


 私は、この無自覚な動きが、自分がカンナの力を身勝手に使っているように感じた。だから刀を捨て、相手のこめかみに裏拳を入れて退ける。




 そうして、何人の呪術士を倒して、どれだけ走っただろうか。背後の声はだんだんと小さくなる。それでも私は足を止めることはなかった。


 道なき道を進み続け、肺がもはや張り裂けそうだ。全身が泥だらけになり、行く手を阻んだ葉が切り傷を作る。もはや一体の逃げ惑う獣のよう。


 擦り傷と切り傷にまみれながら、感情の行き場をどう解放すれば良いのか分からずにいる。喉の奥が熱い。目の奥に炎があるかのように思える。頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉にすることもかなわない。


 もはや周囲に誰もいないのに、私は何から逃げているのだろうか。




 夕日はすでに没し、夜のとばりが空を覆う。夜風がざわめく木の葉を揺らす。月の光は、私を逃がさないように照らし続けてくる。




 そうして、私は路傍ろぼうの石につまづき、小川に飛び込む形となった。水深は浅くはあるが、全身を濡らすには十分だ。すぐに水から上がるものの、呼吸は荒れ、冷たい空気が喉を切り裂くような不快感を与えてくる。それでも落ち着くために、何度も深呼吸を繰り返す。このまま一歩も動けず、息が整う頃には、私の身体は冷え切っていた。


 膝をつき両手を地面に突き出している体勢。月光に照らされ、川の水面に顔が反射する。流水でぼやけたそれは、カンナの肉体を奪ってしまっていると否応なしに証明してきた。




 あの切羽詰まった状況で、無理に押さえ込んでいた感情が溢れてくる。


 私は、カンナを、恩人を、殺してしまった……。大粒の涙が滞ることなく、川の水と共に落ちる。凍り付くような水の冷たさは、私に罰を与えてくれているかのようだった。


 何故私はこんなにも苦しんでいるのか。カンナはこんな結末は望んでいなかった。奥歯を噛み締めると、錆びた鉄の味が口の中に広がる。


 この感情をどこにぶつければいいのか。どう表現したら良いのか分からない。悲しみと、自分への怒りから、遠吠えの如き叫び声を上げた。


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