第23話 ナナシの隣人観察

 § § §


 自分という意識が芽生えたとき、ナナシはもううつにいて、鬱蒼うっそうとした緑の中に影の状態で倒れていた。それより前の記憶はない。


 とにかく人のいる場所を目指し、ランドセルを背負っている子どもを見かけてその影に収まる。どういうわけか、そのときナナシが考えたのは『入学式に行かないと』だったからだ。


 思えばそう。記憶もないのに、ナナシは初めから学校というものを知っていた。


 初めての宿主は周囲からからかわれやすい子だった。ナナシがお節介を焼いていじめっ子を転ばせたり足止めしたりしたら、入学早々宿主にアヤカシきなんて噂が立ってしまった。今でも反省している。

 善かれと思ったことが迷惑になると知り、宿主を頻繁に変えて、影に間借りはしても干渉はしないと決めた。


 同じ学年カラーの名札を目印に一年、二年、三年とナナシも学年を上げて、学校に忍び込み続ける。『学校には絶対通わねばならない』という謎の使命感があった。とはいえ、ほぼ音だけを拾うような授業でどれだけ身についたのかは知らない。

 小学校を六年、中学校を三年、高校を三年。そのあと少し彷徨って、カガチに拾われる。


「名前がないなら、名無しでいっか」


 拾い主のカガチはそう言った。『おい』とか『なぁ』よりも、はっきりと自分が呼ばれているとわかって便利だった。その便利な記号はカガチしか使わないものだったから、深く考えなかった。


 自分に呼称がついて約二年。

 今日一日で人から何度も呼びかけられて、ナナシは気づいた。


――名前なのに名無しって、変?


 キッチンの前で待機しつつ、うぅんと考える。


 ぐんと伸ばした影の繋がる先は洗面所で、本日のナナシの宿主、余部よのべ基惟もといがいる。


 彼は實珠みたまという命のコアを神から受け継いだ青年で、パッと見たところ普通の人間だが、虹彩の色と瞳孔の形が変わっている――らしい。

 基本的に影の中にいるナナシにとって、世界はいつも見上げるものだ。人の顔を真正面から見たことがほとんどなく、基惟と比較できるほど他を知らない。


 入浴後で濡れ髪の基惟は、ナナシに尋ねてくる。


「ドライヤーを使ったりしますが、ここの扉、開けていていいですか? うるさくないですか」

「だ、だい、じょうぶ、です」


 頭ではたくさん考えられるのに、ナナシは音のついた言葉にするのが苦手だ。カガチにはよく、まどろっこしいと言われたものだった。


 ドライヤーの音すら気にかける基惟は入浴前にもナナシのことを気遣ってくれた。影に水がかかっていいか、湯舟につかってもいいか、そもそも自分は服を脱いでいいものかと、事細かに。

 影化すれば触覚も視覚も意図的に遮断できるし、風呂場の扉の隙間を抜けて洗面所に退避しておける。そうナナシが説明して、彼はやっと納得して風呂に入った。


――カガチさんと、ぜんぜんちがう。


 カガチは生活面でナナシの存在を気にかけたりしなかった。というか、気遣う必要がない。ナナシはずっと部屋の隅で、手のひらサイズの小ビンの中にいたのだから。


 基惟の部屋では自由に動いていいと言われても落ち着かず、今は宿主を観察するに努めている。


「襟のタグは背中側に……うん、合ってた。次は、顔に保湿のクリームを。あ、これかな……」


 基惟が読み上げているのは、彼の先輩である田近野たぢかの葵宵きしょうが壁に貼っていった生活メモだ。洗面所に限らず、そこら中の壁にメモがある。


「クリームは五円玉ぐらいの大きさを目安に手のひらに乗せ……え、五円の穴部分をどう扱えば?」


 いちいち読み上げながら、基惟は保湿クリームを手のひらに取る。そして、その手のひらを指でつつき始めた。おそらく、クリームでできた円の中心に穴を開けようとしている。

 それは五円玉の外形を目安にしろという意味ではないか。穴を開けても総量は変わらないのでは。そう思っても、ナナシは人間の生活のことに詳しくないから声に出さない。


 ただ彼の一生懸命な姿がおかしくて、こっそりと壁に隠れて忍び笑いに徹する。


「ドライヤーの風は、いろんな方向から。頭皮から距離を離して使いましょう。わかりました」


 メモ相手に返事までするから、危うく噴き出してしまうところだった。


 基惟は切ったばかりの髪に手を当てて「うわぁ……」と声をもらす。自身の変化をつつましやかに驚いている。

 彼の表情は変化に乏しく、声も平坦そのものだ。先輩である葵宵がアップダウンの激しい坂なら、基惟は無風のグラウンドである。整備されすぎて穴ひとつない。どうせひと晩一緒に過ごすなら、葵宵を相手にしたほうが面白かったのでは。


「――さん……ナナシさん?」

「っ! は、いっ」


 失礼な考えごとをしているうちに、基惟の髪はすっかり乾いていた。


「終わったので部屋に戻ります。急に動いたらびっくりするかと思って」

「あ……ありが、とう。ついて、いき、ます」


 すぐに影を縮め、基惟の足に連れて行ってもらう。我ながら怠惰を極められる能力だ。


 居室に戻った基惟は、ベランダのカーテンを少し開いて外を眺めた。ナナシはそんな彼をしばらく見上げて、影から頭だけ生やしてみる。けれどこの高さでは、ベランダの壁が邪魔して何も見えない。


「おもしろい、もの、見えます、か?」


 声をかけたら、基惟はこちらを見下ろしてうなずく。表情筋が仕事を放棄している中で、薄青の瞳だけは何かの感情を蓄えているように見えた。


「よのべ、さん。せなか、のぼって、見ていい……ですか」


 頼んでみたら、基惟は迷うことなくナナシに手を差し伸べてきた。自力で彼の足から這っていけるのだが、ここはせっかくの厚意に甘えておく。影を細く伸ばして手のひらにお邪魔し、そこから腕をつたって肩まで上がる。


 で、肩からにょこりと頭を生やしてみたものの、空と街路樹と遠くの山しか見えなかった。


「なにを、見てた、の……ですか?」

「木が揺れるところを」

「……それ、おもしろい、の?」

「はい。風が吹いたら本当に揺れるんですね。すごいなぁ……」


 ナナシにはわからない感動が、表情の乏しい彼の顔をいくらか明るくする。


――そっか。見たこと、なかったんだ。


 この部屋に通されてすぐ基惟が言っていたのだ。窓がある部屋なんて、と。


 外の見えないワンルームで暮らし、年に一度、手術室とやらで痛い思いをする。ナナシは基惟のことを何も知らないが、幸せとは程遠い生き方をしてきたのかと察せるだけの材料はある。


 すぐそこにある基惟の横顔を見つめてしんみりとしていたら、その顔が唐突にこちらを向いた。


「そうだ、ナナシさん。やっぱりベッドは――」


 と、彼は珍しく目を丸くし、バランスを崩して尻もちをつく。その衝撃でナナシは彼の正面にべちっと落ちた。


「どう、したのっ?」

「思ったより、顔が近くにあったもので」

「あ……ごめん、なさい。こわい……です、ね」


 断りもなく頭を生やしてしまったナナシが悪い。

 けれど、基惟はわざわざ正座して頭を下げてきた。


「ごめんなさいは、急に動いた僕のほうです。それと、独りじゃない夜が初めてで慣れていないだけで、ナナシさんが怖かったわけじゃないです」

「はじめて、なの?」

「はい……いえ、正しくは十二年ぶりです。それより前は神さまと一緒でしたから」


 神と生活していたなんてさらりと口に出す青年は、ナナシが何か言う前に「そうだ」と話を本筋に戻す。けっこうマイペースな人だ。


「ベッド。やっぱりナナシさんが使ってください」

「…………ぅ?」

「鵜?」


 同じ音が返ってきたけれど、たぶん意思疎通は取れていない。


「いらない、です」


 そもそも、影の身体なので『寝る』という感覚がない。ただ意識を落とすだけだ。葵宵に提案されたゲスト職員用の布団も断っている。


「ゆかで、だいじょうぶ」

「でも、せっかくベッドがあるんですから」

「それは、よのべ、さんが、ねるところ、です」


 寝具どころか、この二年ほどはビン詰めで休んでいたぐらいだ。何も問題ない。けれど、基惟は納得できないようで、天井の隅あたりを見上げながら考え込んでいる。


 ややあって、彼はふっとこちらに視線を戻す。

 そして、何の前触れもなく両の口角をきゅっとあげて目を細めた。

 永久凍土かと思われた表情筋の、唐突すぎる活性化である。


――え……可愛……。


 ナナシの現し世歴およそ十四年で、初めて抱く感情だった。なるほど、神に拾われ育てられるというのも納得だ。これはナナシでも頭なんかをよしよしとしたくなる。


 だが、その可愛い十八歳男子の唇が春の息吹みたいにこぼしたのは、とんでもないワードだった。


「じゃあ添い寝しましょう」

「そい……え?」


 彼の表情筋は休眠に戻り、けれど言葉は前のめりに加速しながら続く。


「田近野さんたちはベッドを共有しているそうですし。せっかくだし僕らもやりましょう」

「……え? え!?」


 困惑するナナシをよそに基惟はベッドに上がって布団に入り、掛け布団を持ち上げて自身の隣のスペースをぽふぽふと叩く。


「こちら、どうぞ」

「え、あ、あの……あの!」


 どうしてそんな発想になったのだ。

 ナナシはしゅぽんと影に溶けて、そのまま勢いよくベッド下に滑り込んだ。


「ここ。ここで、ねます!」


 するとベッドの軋む音がして、基惟が下を覗き込んでくる。


「遠慮せずに。僕、寝相は良いほうだと思いますし」

「いら、ないっ!」

「枕も譲ります。隣にいて気になるなら壁のほうを向いてますし、何ならいっそ僕が床に――」

「よのべ、さん、とは! むりっ!」


 動揺のあまり言葉選びを完全に間違えた。


 ナナシがそう気付いたときには、基惟のほうが雷撃に撃ち抜かれたような顔をしていた。

 しばらく硬直した彼は消え入りそうな「おやすみなさい」を残し、ベッドに引き上げていく。


「待っ、て……よのべ、さ――」


 慌ててベッド下から這い出そうとしたものの、部屋の照明がパチンと落ちてしまう。それが基惟の拒絶のように思えて、ナナシはもう何も言えなくなってしまった。

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