第24話 田近野葵宵の至福の時間

 § § §


しょうくん! モトくん、ケンカしちゃったかもしれませんの!」


 それはちょうど、葵宵きしょう新佳にいかから届いた調査結果をまとめて、室長の携帯端末宛にメッセージを送り終えたときだった。

 基惟もといの部屋をノートパソコンでモニタリングしていた伽羅きゃらが、興奮でぶわっと膨らんだ二本の尾を立てている。


「ケンカぁ?」

「ナナシさんがベッドの下に逃げてしまって……モトくん、しょんぼり気味に寝ちゃいました」


 葵宵は伽羅のいるデスクの端に手をついて、パソコン画面を確かめる。すでに向こうの照明は落ちているようで、映像は白黒だ。昼夜対応の高性能カメラとは本部も手抜かりがない。


 その映像の隅っこで、すっぽりと掛け布団に収まった基惟と思しき塊がいる。


「巣ごもりで寝るタイプなだけとちゃうの?」

「それは……わかりませんけれど。声は聞いていませんし」


 さぞ良い値段だろうカメラは音声まで拾えるらしいが、聞く気などさらさらない。いくらなんでもプライバシーの侵害が過ぎる。


「お隣、行ってみますか?」

「んー。荒事に発展してるわけでなし、いかにも監視してましたーって感じで入っていくのも微妙やし」

「……確かに、そうですけれど」


 すっきりしない様子の伽羅を抱え上げてパソコンを閉じ、葵宵は窓を開けてベランダに出た。


「ほら、晴れてるやん。とりあえず今晩はそっとしとこ」

「ええぇ……まさかひょうが降るまで頑張らせる気じゃ」

「そこまではない。けど、基惟が自分で抱えられるレベルまでは、見守ったるほうがええんちゃうかなーて。自分から助けてくれって言えるようにならんと、先々大変やろ……って、寒ッ!」


 三月終わりの夜風はまだ春より冬贔屓びいきで、寒がりの葵宵はひゅっと肩をすくめた。気づいた伽羅がすかさず首元にすり寄ってきたが、すぐに「あら」と何かに気づいたように背を伸ばす。


「どしたん?」

「下。ほら、ハルさん」


 伽羅にうながされてベランダの壁際に寄って下を見ると、寮の裏庭に船坂ふなさか晴友はるともが立っていた。


 心臓の加減がいっそう悪くなってから、夜の寝つきが悪いというのが晴友の口癖になった。そんな彼はこのぐらいの時間になるとときどき寮の外に出て、周辺を散歩してから帰ってくることがある。先に寝付いた相棒、深縹みはなだを起こしてしまわないようにという彼の気遣いだと皆わかっているから、夜風は身体にさわるのにと心配するものの誰も止めない。


 いつものように散歩に出ていたのかと思えば、今夜は違うらしい。携帯端末を耳に当て話しこむ姿が、ガーデンライトに照らされている。日本人特有の通話しながら頭を下げるスタイルは、困っているようにも見える。


「室長さんとお電話でしょうか。何かあったのかしら」

「かもしれん。今日は結局、船坂さんに業務任せっきりになってしもたから」


 この時期の可見依かみよりまちは、アヤカシたちの在住更新手続きを処理する繁忙期だ。今日の晴友は朝から夕方までパソコンを叩き続けていたことだろう。分室内で事務仕事といえば晴友だったから、来年度以降のことを考えると今から憂鬱になる。


「宵くんもこれからはデスクワーク頑張らないといけませんね」

「……基惟、タイピング速かったりせんかな」


 苦手の事務仕事を新人になすりつけようなんてずるいことを考えていたら、晴友が通話を終えて端末を下ろした。


「船坂さーん」


 ベランダから軽く呼びかけてみたら、晴友は驚いた様子で顔を上げる。


「あれ、いつからそこにいたんだい? うるさかったかな」

「や、全然。たまたまベランダ出たら見えてん。室長に報告でもあったんかなーと思って、ちょっと待ってみました。終日不在になってすいませんでした」


 晴友はいやいやと首を振って穏やかに笑った。


「業務のほうは問題なかったよ。電話は室長じゃなくて不動産屋。検討していた物件のことで少し確認が入ってね」

「あー……そうか。部屋見つかりそうですか?」

「選ばなければなんとか。気を使わせてすまなかったね。そろそろ戻るよ」


 と、晴友はこちらに軽く手を振ってから歩き出した。哀愁漂って見える大ベテランの背中を束の間見送ると、肩上の伽羅がふっと息をつく。


「さびしくなりますね」

「せやなぁ……深縹が基惟と契約せんのやったら、船坂さん、もっと近場で部屋探したらええのに」


 深縹が新しい相棒に早く馴染めるように、晴友は故郷の山形に戻るつもりだと話していた。その深縹が分室を離れるなら、遠慮する必要はなくなる。


 前の相棒を業務遂行中に失った晴友は、深縹を溺愛できあいと言っていいほど可愛がっている。健康面の不安さえなければ、退職後に深縹を引き取って一緒に暮らすことも考えていたかもしれない。


「……ハルさんはきっと、あの子が独り立ちできるようにいろいろと考えてくれているんです」

「まだ十歳そこらやろ? 親離れには早ないか?」

とおを超えるアヤカシにしては幼く見えます。ハルさん恋しさに子どもらしく留まろうとしているのではないかしら」


 アヤカシとは本来、けられるものだから、と。自虐のように小声で付け足す伽羅の額を、葵宵は指でこするように撫でた。


「そない落ち込まんで」

「だってぇ……誘拐犯にちっとも敵いませんでしたの。悔しいのです」


 前足で「もっと、こう! こうっ!」とパンチを繰り出す伽羅に笑って、彼女を肩から下ろして腕で抱える。


「今日、離れてごめんな」

「いいんですよ。モトくんのために、あえてやったことでしょう?」


 余部よのべ基惟のことを、大事な相棒とふたりきりにできるような相手だと思っているのだと。こちらは皆、職場の仲間として受け入れる覚悟ができていると示したかった。

 そんな葵宵の意図をわざわざ言葉にせずとも理解してくれる。ありがたい相棒の背をぽすぽすと軽く叩きながら、窓を開けて部屋に入る。


 机に放置していた携帯端末を手に取ったら、不在着信を知らせるランプが点滅していた。着信履歴を表示した瞬間、軽い頭痛を覚えてため息をつく。


「大事なお電話ですか? 私、ベランダに出ていましょうか?」

「……いや、迷惑電話」

「そう? そういえば、新佳ちゃんからのご報告は?」

「結界か攻撃術式かも判別不能、やて。本気で退妖術が絡んでるかもしれん。面倒やねぇ」


 世間話のように軽く返しつつ端末の画面をサッとオフにして、伽羅を腕に抱いたまま背中からベッドに沈んだ。柔らかな首元に顔をうずめてしばらく心を落ち着かせていたら、くすぐったそうに身をよじりながら伽羅が尋ねてくる。


「私、モトくんのほうについていなくて、本当に良かったんですか?」

「ええよ。カメラも動作良好やし、何かあったら伽羅の耳が拾ってくれるし」


 ナナシがおそらく女性に区分されるだろうということで、伽羅が自分も隣室で休もうかと提案してきたが、葵宵は迷わず却下した。

 自分たちにとって夜は大事な時間で、まして今日は伽羅が負傷したあとなのだ。


 葵宵は目を閉じて、自分の胸に乗っかる小さな身体に全神経を集中させる。五感のいずれでもない、脳の奥深くに浮かび上がるようなもうひとつの感覚で彼女の霊気を測る。


「……水気すいきが暴れとる。身体キツいやろ」

「平気です。ちょっと疲れただけ」


 還送師かんそうしの源流である退妖師たいようしによれば、霊気とは五つの要素からなるエネルギーである。


 木、火、土、金、水。

 五つの要素はそれぞれに影響を及ぼし合う。どれを欠くことも、どれを余すこともなく巡らせることで心身は安定した状態を維持できる。人間は呼吸と食事で、アヤカシは霊脈からの吸い上げで霊気を取り込み、實珠みたまは霊気を五要素に分けて巡りをコントロールしている。


 そんな霊気の吸い上げもコントロールも、伽羅の身体は充分にできない。

 だから葵宵が与える。一日の終わりに、じっくり二時間ほどをかけて。


 蓄えられる霊気の総量が少ない伽羅を壊してしまわないように、丁寧に、慎重に。契約で伽羅と繋いだ見えない糸のような霊気のパスを通して、足りない要素を送り、過剰な要素を吸い上げる。


 この日課が終わる頃には葵宵の全身をどっと倦怠感けんたいかんが襲う。逆に伽羅は温泉に浸かっているような心地よさを味わってくれているらしい。

 今夜も三十分ほどで伽羅がうとうとし始める。頑張って目を開けていようとする相棒の頭を手のひらで軽く押さえて「寝てや」と伝えると、彼女は耳をへしゃっと伏せてふふっと笑った。


「また……そうやって、あなたは私を甘やかして……ばかり」


――そら、甘やかしますよ。


 初日から散々だった新人も、何やら大変そうな客人も結界詰めにして放ったらかしで申し訳ないが。

 田近野葵宵にとって、この二時間の至福はどうあっても譲れないものなのだ。

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