忘れないで

 本気で救いたい人間がいた。そいつは勉強ができるのでも、運動ができるのでもなくて。また顔が飛び切りいいと言うわけでもなかった。話すことと言えば、流行りのゲームや漫画のことで、それ以外はからきしだった。みんなと会話していても、彼はいつも後ろの方で静かに笑っているだけで、決して口を挟んだり、意見を言ったりしてはこなかった。

 彼が学校に来なくなったのは、中間テスト明けの激しい雨の降る日で、ボクはひとりで彼の家に課題を届けにいった。家とは反対の電車に乗り、見知らぬ駅に降りて十分ほど歩いた。

 彼の家は立派な一軒家だった。広い庭にみかんの木が伸びていて、車の隣に犬小屋がポツンと建てられていた。

 家には中学二年生の妹がいた。目の大きい、頭の良さそうな子だった。リビングに案内されて出されたお茶を飲んでいると、二階から彼が降りてきた。思いの外元気そうで、ボクと目が合うと笑みをこぼした。

 彼の部屋は思ったよりシンプルだった。埃ひとつない、掃除の行き届いたカーペットにふかふかのベッド。机にはパソコン一式と観葉植物。戸棚に収められたマンガ類は、全て薄いカバーが被せられていた。

 ボクらは流行りのゲームをした。一時間くらいしたと思う。ゲームの苦手なボクは負けっぱなしだった。彼は手を抜くことなく真剣に、これでもかとボクを打ち負かした。笑い声が部屋に響いて、雨上がりの薄い西日が窓から差し込んでいた。

 ボクらは取り留めない会話を始めた。最近放送されたアニメの話から始まり、マンガ、ゲーム、声優、ユーチューバー、ツイッターでバスったポストのこと、政治の話も少ししたと思う。

 そして話題は学校の、クラスの出来事に移った。ボクは共通の友人のことについて話した。彼は笑ってボクの話を聞いていたが、しばらすると固まって、膝の間に顔をうずめた。

「学校が怖いんだ」

 ボクはびっくりした。そんなこと、考えたこともなかったから、彼の言っていることが初めはわからなかった。ただ、彼がクラスメイトに対してあまりいい印象を持っていないことに、ボクは少し傷ついた。

「ボクって、どんな人間だと思う?」

「どうって、ゲームが上手くて、アニメについてよく知っていて、あとよく笑う」

「そう、正解。それがボクだ」

 帰りに駅まで見送ってくれた時、彼は妹の話をボクに聞かせてくれた。好きな子がいるらしいのだが、別の人から告白されて迷っているらしいとのことだった。可愛らしい話だなと思った。ボクは帰宅ラッシュの過ぎた列車の中で、彼ともっと話してみようと心の中で誓った。

 それっきり、ボクは彼を見ていない。


 二日はベッドの上で過ごしたような気がする。負けた後の余韻は、ボクをしばらく沈めさせて生活を困難にした。悔しさよりも、全てが終わってしまったと言う燃え尽きた感じが付きまとって離れなかった。ボクは暗い天井を見上げて一日を過ごした。携帯のアルバムには、菜々美の撮ってくれたボクらの勇姿が大量に収められている。それらの一枚一枚を眺めていると、自分でも思ってもいない表情が写っていてぎょっとする。ボクってこんな顔だっけと、しばらくその必死な形相を眺めている。

 ふいに外に出てみたくなった。電気をつけて着替え、シューズのひもを強く結んで外に出る。十二月も下旬の冬空は、白く霞んで光が地上まで届いていないようだった。

 折角だから、いつもは行かないような場所を歩いてみようと思った。川とは反対の大通りに出て、下町の商店街を真っすぐ進む。クリスマスが終わり、すっかりお正月の装飾が成された軒先には、買い物客が寒そうに固まって談笑していた。

 アーケードを渡り切ったところで公園に差しかかる。Bとバレーボールをしたあの公園だ。木々は寒そうに遠くの景色を透かし、薄明かりが道をまだらに照らす。汗ばんだボクの頬に風が吹くと、その昔ここが川だった時の、豊かな水の流れがかすかに感じられて、ボクは立ち止まって耳を澄ませる。

 さえずりと冬の風、自動車の走行音しか聴こえなかった。ボクはイヤホンを耳に入れると、木村カエラの「happiness!!!」を流してポケットに手を入れた。

 下を向いて歩いていると、ここ一か月で溜まった感情が、じくじくと溢れ出てくる。悔しい。恥ずかしい。残念。もう少しできたはずなのに。意気地がない。やっぱり始めるのが遅かったのか。悲しい。辛い。侘しい。ひとりごとは足を出す度にこぼれ、そして消えていった。

 公園を抜けると住宅地に入る。子供の頃は人目も気にせずどこでも自由に出入りし、日が暮れるまで遊んだものだったが、今はその道も空疎でさびしく、探せばどこにでもあるような平凡な街角に変わってしまった。年末にも関わらず人の姿はなく、電柱の続いた白線を肩を縮ませて歩く。この辺りに住む同級生はどうしているのだろう。大学、浪人、専門学校、就職、進むべき未来に向かって、着実に歩を進めている彼らに、ボクは本気で祈りたくなった。

 住宅地は地名を変えてどこまでも続いていた。ボクは交差点を何本も渡り、細い路地を抜け、何台もの車とすれ違ったが、人の姿は全くと言っていいほど見当たらなかった。まるで真夜中に散歩しているみたい。ボクはうつむきながら歩き続けた。影が伸びているだけで、ほんの少し寂しさを紛らわすことができた。

 遠くに川が見えた。突き当りに大きな柳が見え、川岸が太陽に反射して光っていた。ボクは引き返そうかと迷ったが、そのまま進んで角を曲がった。

 両側に立派な杉がそびえ、中央に石造りの鳥居が構えられている。新しく取り換えられたしめ縄に、紙垂が小さくそよいでいる。ボクは足を止めてしばらく社殿を眺めた。緑色の屋根の先に小鳥が留まり、右側に大きく「吉田新田鎮守」と彫られた石碑が見えた。

 鳥居の隣に手水舎があって、ボクはお玉に掬って一杯飲んでみた。冬の水はよく冷えていて、口の中がじんじんと痛んだが、味はスッキリと柔らかかった。両手を洗い、ハンカチを持ってこなかったことを後悔して、濡れ手のまま石段を上がった。

 社殿に向かい、賽銭箱の前の立っても、頭に浮かんでくることはどれも叶いそうにないものばかりで、代わりに大きなため息がこぼれる。神様になんて頼るものでもないのに、そうすることしかできないのは、ボクの心が弱いせいだ。五円玉が転がる。二礼二拍手。これほど長く頭を下げたことは、今までになかったんじゃないだろうか。

 振り返っても、後ろには誰もいなかった。ボクは来た道をそのまま引き返して家に帰った。

 エレベータを待っていると、郵便受けに見慣れない封筒が入っていた。両面が真っ白で、住所どころか、宛名さえ書かれていない不思議なものだった。ボクは部屋に戻って中を開けてみた。一枚の便箋に、達筆な文字で文がしたためられていた。




 覚えていますか? 十年前のこと


 ホームルームの時間に、先生が大きく「夢」と書きました。


 今から将来の夢について話し合ってもらいます


 わたしは夢なんて、持っていなかった。持っただけムダだと思っていた。明日のこともよくわからないのに、未来のことなんてわかりっこない。そう思っていました。


 そうしたら、あなたは右手をぴょこんと上げて、席を立つと言いました。


 夢なんて持ちたくないです


 私はびっくりしました。夢のない子が私以外にいたなんて。


 夢を持って、もしそれ叶わなかったら、その人の人生は終わっちゃう、なんてことにはならないよね。ボクは漫画を読むことも、外でバスケをすることも好きだけど、それで生きていきたいかって言われたら、うーんって考えちゃう。好きなことをずっと続けていても、ある日それが嫌いになるかもしれないし、別のことに興味が湧くかもしれない。つまり、何が言いたいかって言うとね、とにかく色んなことに、前向きに、チャレンジしてみることが大事なんじゃないかって、そう思うんだ。ボクはまだ子どもだけど、目指したい夢は持ってない。だってその方が面白いでしょ?ある日突然やりたいことが見つかったら、すぐにはじめられるんだから。


 あなたは難しい本の言葉を引用して、なんとかみんなに伝えようと頑張っていました。


 わたしはその姿が、今でもとても印象的で、この頃ふっと、そんなあなたを思い出して、ひとりでほほ笑んだりします。



 あの頃は本当に楽しかった。わたし、運動は得意な方ではないけれど、あなたに手を引かれてどこまでも走った時は、ものすごく心が躍って、とてもワクワクした。空が青く、遠くに赤レンガが見えて、それから大きく広がった海が、太陽に白く光っていた。



 あなたは、あの時とまったく変わっていなかった。顔は少し大人びたけど、純粋な瞳の裏にしっかりと、物事を見据えた鋭い光があった。久しぶりに話すことができて、本当に嬉しかった。




 十二月の初めにアメリカに来て、もうすぐ一か月が経ちます。とても心細いです。北風は日本より冷たく、身体中が凍えそうで、毎日大変です。でも、ホストファミリーはみんな優しく、わたしに困ったことがあればすぐに助けてくれます。この間も、部屋に大きなクモが出て、わたしが驚いて悲鳴も上げられなかったところを、ホストファザーが素手で捕まえて、外に逃がしてくれました。この辺りじゃよく出るよといって、わたしの部屋を二階に移してくれました。


 バスの乗り方も教えてくれました。日本とは違って、運転手さんに行き先を告げ、先払いするのがこの地域のやり方なのだそうです。学校に行く時は、近くのバス停まで歩いて、バスが来た時に大きく手を挙げます。そうしないと停まってくれないのです。車内の後ろの方まで来ると、ブラジル人やインド人、中国人やフィリピンの留学生がわたしを迎えてくれます。みんな面白くて優しい人たちばかりです。


 授業はとても大変です。わたしは英語が得意な方なのですが、それでも聴きなじみのない単語やスラングが飛び出すと、それだけでもう頭の中が混乱して、張っていた糸がぷつんと切れたように、集中力が落ちてしまいます。このままじゃダメだと思って、授業の課題以外にも、リスニングの教材を使ったり、放課後に講習に行ったりと、勉強尽くしの毎日です。


 家に帰り、ホストファミリーと和やかに食事をして、シャワーを浴び、部屋に戻って課題を終わらせると、ようやく肩の力を抜くことができます。わたしは日本から持ってきた本を読んだり、手紙を書いたり、音楽を聴いたりして自由な時間を過ごします。


 寝る直前に、わたしは自分のプレイリストから、日本の川のせせらぎをピックアップして、眠くなるまで流します。たまに、聴きながら眠ってしまい、次の日の目覚ましが聞こえなくなる時があるけど、とにかくとても聴いていて気持ちがいいんです。

 山の奥から湧き出た水が、森を渡って平野に流れる時の、岩や葉に当たる音が、聴いていて心地が良いんです。どうして水が水を打つと、こうも耳当たりがいいんでしょう。わたしはうっとりとした気持ちで、小川のせせらぎを想像します。


 そうしていると、生まれ育った田舎の風景が、ありありと目に浮かんできます。涼しい空気、揺れる稲穂、風の音と混じって訪れる虫の音。全てが懐かしく、温かな想い出となってわたしを包みます。




 この手紙が届くころ、あなたは過去を忘れたがって、ひとり悶々としているでしょう。


失敗したこと、上手くいかなかったこと、諦めたことを思い返して、あれこれ頭を悩ませているでしょう。


 でも、それでいいと思う。何度も頭を抱えて苦しみ、悲しんで、悶えて、思い切りぶつかって、そうして気が晴れたら、また一から始めればいい。意地の悪い言葉に耳なんか貸さないで、あなたの選んだ道を、堂々と歩んでいけばいい。


 それが本来のあなたなのだから。


 ビーヨアセルフ またいつか




 中には一枚の写真が同封されていた。海岸のデッキに手をついて、乳白色のイヤリングを風になびかせている彼女の姿があった。その時ボクの目に、丘の上で純真な贈り物を渡す、ほほ笑ましい少年と少女の姿が、暮れかかった横浜の海にきらめいていた。初恋ほど心を引きずらせるものもないなと、封筒を引き出しの奥にそっと閉まって、シャワーを浴びに脱衣所へ向かった。

 ボクは水を浴びながら静かに泣いていた。


 三月の日差しは温かく、隙をつくと汗ばむ陽気さえ感じられることもあった。教習所の場内コースから臨むことのできる川面は、冬が過ぎて心なしか透き通って見え、対岸に植わった桜や梅が、いっせいに芽吹き始めたような気がした。

 仮免試験を来週に控えて、もうひと踏ん張りというところまで来ていた。講習はつづがなく規定の範囲を終え、残すところは実習と模擬試験。年始に通い始めた教習所生活もあとわずか、春から心機一転自動車を運転する自分の姿が、ようやく確かな形となって思い浮かべることができた。

 ボクは今年中にこの町から出ようと考えていた。どこか遠くの、見知らぬ町でひとりで生活してみたいと思った。そのためには中古車一台と新生活の費用、その他色んなものが必要になってくる。ボクの貯金で賄えない分は、後で返すよう両親と約束した。とにかく今は、教習所と掛け持ちのバイトでいっぱいいっぱい。机に向かう時間も、最近はめっきり減っていた。

 それでも暇な時間ができると、ボクはいつものように取り留めのない空想にふけった。すると、以前は見ることのなかった新しい景色が、くっきりと形を成して浮かんできて、未来に対する期待で胸がいっぱいになる。

 おもむろに、ボクは引き出しから便箋を取り出しペンを取る。何を書けばいいのかはわからないけど、浮かんだものはすらすら自然と流れ出す。川を下る清流のように、ボクは身を委ねて思うがままだ。好き勝手に書きなぐり、考えの尽きたところで手を止めて読みなおす。

 うん、悪くない。ボクはほくそ笑んでペンを置く。いつになく均整のとれた文章に満足し、穏やかな気持ちで引き出しに戻し、レモネードをひと口飲む。

 それでも何年か経った時に、掃除の最中にうっかりこれを見つけ出して、記憶もあいまいなまま読み進めていくうちに、あまりの若さに顔をしかめ、耳まで真っ赤にするだろう。なんだこの手紙は!と苛立ち、読み終える前に恥ずかしくなって、くしゃくしゃに丸めて鼻紙にでもするだろう。

 それでもほんの少しだけ、当時のボクのこの気持ちが、未来に役立つのなら。ありのままの告白が、将来のボクを勇気づけてくれるのなら、

 ボクはこれほど幸せなことはない。

 そうなる日を願って、今日も書き続けている。

〈終わり〉

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ブルースカイと赤レンガ なしごれん @Nashigoren66

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