第8話
締め切りが着実に近づいていた。十二月に入るとクリスマスやお正月、行事ごとが多くて町中が慌ただしい。ボクの勤める事務所も、弁当のポップをクリスマス風にしたり、フライドチキンの味付けをいつもより濃くしたりと、冬仕様に変えて客を迎えていた。締め切り日の一週間前は、バイトを休んで執筆に励むことになっているボクも、今年の目をみはる忙しさには、哀れみを感じずにはいられなかった。仕事を休むわけにはいかないと、普段より周囲に気を配り、テキパキと動いて汗を流した。
そのせいもあって、ボクは執筆が思うように進んでいなかった。帰宅する時間は昼前に変わり、シャワーを浴びて賄いを食べ、ベッドに横になって目を覚ますと、外はもうすっかり暮れがかって、ぼんやりした意識のまま深夜まで机に向かうのだった。
良い作品ができるのだろうかという重圧より、締め切り日に間に合うのかという不安の方が大きかった。ボクはノートに何度も線を引き、プロットを見直し、構造に欠点がないか調べた。本棚から中村真一郎の『文章読本』を取り出して、どの文体が世界に馴染むか研究した。
それでも執筆は進まなかった。机の前に座り、パソコンを重い手で開くと、もうそれだけで大仕事終えたような気がした。ボクは借りてきた太宰治の『晩年』を読み、レモネードを飲んで、音楽を聴いた。それ以外にやりようがなかった。迫りくる全ての不安も、それらが忘れさせてくれた。
時間が空くと昔のことを考えた。中学時代の出来事が多かった。中三の梅雨明け、図書室の前で後輩の女の子に告白された。誰もいない放課後の廊下。音楽室からフルート音色がわずかに響いていた。
あまり面識のない子だった。中二の時、放送委員会で同じになったくらいだった。長い髪を三つ編みにして、首の後ろにリボンで上品に束ねていた。部活に入ってなく、ひとりで校門を後にする姿を見かけたことがあって、あまりクラスに馴染めていないのだなと思った。
その子はボクに手紙を渡してくれた。言葉にするのが恥ずかしかったのか、それとも文章の方が想いが伝わるだろうと思ったのか、薄ピンク色の封筒に、丁寧に折りたたまれた便箋が入っていた。渡すと逃げるように廊下を走っていき、残されたボクは人に見られないようにそっとカバンの中に閉まった。
当時、ラブレターを使ったいたずらが流行っていたから、ボクもその一種に引っかかったのだろうと思っていた。けれど、家に帰って中を覗くと、小さな文字が下の行までずらりと並び、ボクはその熱量に圧倒された。詳しいことは覚えていないけど、とにかく委員会で一緒になった時から好きだったという文章が、わかりやすい言葉で書かれていた。
付き合う気などなかった。夏の大会が近づいていたし、当時好きな子が別にいたからだ。週明けに図書室に呼び出してハッキリと断った。文字にした方が傷つかないと思ったけど、返事を書ける自信がなかったし、それを理由にネチネチと文通なんか続けられたらたまったものじゃない。直接会って言った方が潔くて治まりもいいと思った。
あれから四年経って、ボクはラブレターをどこに閉まったのかすっかり忘れてしまっていた。大事なものは机の引き出しに閉まっておいたはずだけれど、いくら探しても封筒は見つからなかった。掃除の時に捨ててしまったのだろう。
ボクは猛烈にそのラブレターを読み返してみたくなる時がある。あの頃は気づかなかったけど、相手を思って文を書くということは並の力では絶対にできない。純粋な心を持っていなければ、書ききることなど到底できないのだ。ボクはラブレターを書いてくれた後輩の、そのひたむきな情熱を改めて思い返し、もう少し大事な場所に閉まっておけばよかったと、ちょっぴり後悔している。
八時過ぎにようやく指が進んで、十時前に気休めに自販機でレモネードを買った。そのままいつもの散歩ルートに入り、Ginger Rootの「No Problems」を聴きながら川沿いを歩いた。
寝静まった住宅街は森のように静かで、辻にも道にも人の姿は見えない。ボクだけが町を徘徊しているような気がした。
川の分岐するところまで行って立ち止まる。目の前に長く続く坂道は、ボクを妙に不安な気持ちにさせた。適当な理由を考えて、ボクは坂を上らずにそのまま道を引き返した。
次の日に熱を出して寝込んだ。事務所のオーナーに休むことを伝え、二時過ぎまで寝ていた。夢も見なかった。起きた時には少し下がっていて、病院に行くまでもないなと、冷蔵庫から水とヨーグルトを取って食べた。外は秋晴れの清々しい空気が充満しているようで、青空の真ん中あたりに鳥の群れが見えた。朝刊を半分ほど読み、旅番組を見るともなしに眺めて、寒さが背中を優しく撫で始めた頃、部屋に戻って布団を被った。
締め切りまで一週間を切った木曜日、ボクは練習で怪我をした。と言っても、右手の親指と人差し指を打っただけの、さして大きなものでもなかったから、大会には間に合うだろうとホッとしてテーピングをぐるぐる巻いた。行きつけの整形外科から出た時、Bから連絡が入っていた。「大丈夫?」心配性なやつだなと思った。
部屋に籠ることに限界を感じていたボクは、PCと充電器、それからノートと筆記用具をカバンに詰めてマンガ喫茶で作業をした。繁華街から横にそれた通り沿いのビルの二階に、あまり有名ではないチェーン店が入っていて、オープンしたばかりだから清潔で人も少なかった。
作業効率は何倍にも上がった。場所が違うということもそうだけど、誰かに見られているという強迫がボクを刺激した。アイスティーを何杯もお替りして、昼には出来立てのカレーライスを食べて少し眠った。二時過ぎに店を出ても、料金は二千円もしなかった。
店を出て図書館へ向かっている最中に橋を渡った。何の変哲もない、普通の石橋だったが、ボクはその真ん中あたりの欄干に腕を乗せて川を眺めた。夕日に染まった水面が、川岸に植わった灌木の間から滲んで美しかった。
ついこの間、この景色を見たような気がした。胸を締め付けられるような悲しみと、言いようのない絶望を感じて、いつまでも揺らめく茜色の日差しに目を落としていたと思う。
この川を真っすぐ歩けば、いったいどこに辿り着くのだろうかと、漠然と思った。周りはビルに囲まれた繁華街だから、進むごとに街並みは田舎めいて、最後は山奥の源泉に辿り着くのだろうか。それとも、いくつかの川が合流する地点まで来て、どの流れが本流なのだろうかと、川岸に寝転びながらしばらく考えたりするのだろうか。雨が降り、地中に水が溜まって溢れる時、その流れは川になる。上から下へ滑り落ちるように、また、緩やかに。最後は大きな海に注がれて、また上へ帰ってくる。ボクは町を流れる川の気持ちが、その時少しだけわかったような気がした。
図書館で一時間ほど作業をして、手が止まると別の場所に移動した。カフェ、ファミレス、カラオケ、マクドナルド。どこも人でいっぱいだった。駅の改札に入って、ホームの椅子で作業したこともあった。ドアから吐き出される人の群れが、階段に押し流されて静まった時の、あの風だけが耳元をくすぐる感覚が心地よかった。
そうして行く場所が思いつかなくなった時、ボクはただひたすら道を歩いた。見慣れた町が、季節の変わり目に若干変化するように、ボクには目に映る全てが新しく、新鮮に思えた。空き地に新しく店が建ち、古いコンビニはリニューアルされていた。角を曲がった先にあるボクの行きつけの古書店は、今はスムージーを売る小さな店舗に変わっていた。
横浜で変わっていないのはボクだけだった。ボクだけが三年前から一向に変わっていないのだ。いや、変わろうとしないのだ。逃げているのだ、全てから。周りが助けてくれるのを秘かに待っているのだ。
いっそこのまま柵を飛び越えて、全て流れに身を任せてみるのも得策だと思った。けれど再び橋の真ん中で立ち止まると、さっきまでの威勢も勇気も既に尽き果てていて、ボクは吹きすさぶ夕暮れの木枯らしに身を縮めて、魂を失くしたように横断歩道を渡った。
毎年十二月に入ると、「クリスマスカップのお知らせ」という紙を担任から貰う。その昔、バレーボール部の顧問をしていた男性教諭が、地域交流もかねて大会を開こうと申し出、以来十数年と、一年も欠かすことなく続けられてきた伝統ある行事だった。
生徒はメンバーを集めれば誰でも参加することができた。体育の授業でしかバレーボールに触れたことのない初心者も、帰宅部も、学校にあまり来れていない子も。そしてバレー部に所属する男女部員はもちろん、先生も、家族も、卒業生も参加することができた。
「三十五チームは、歴代最多だってさ」
入口に貼られたトーナメント表を指さしてBが言った。
「やっぱり、現役のバレー部のいるチームは怖いよなあ。反対のブロックでよかったよ」
「オレらの初戦の相手は?」
「教員チーム。次の次の試合」
体育館前には試合を控えた生徒が大勢いた。皆それぞれチームで集まって、作戦を練ったり、準備運動をしたりしていた。
「上に菜々美がいるぞ」とAが言った。
「誰が呼んだんだよ」
「酉の市の時、Cが誘ったんだって」
菜々美は入口側のギャラリーにひとりでいた。ボクが下から手を振ると、菜々美は首から提げたカメラをカシャリと鳴らした。
「頑張ってね」
ボクはギャラリーを見渡した。中学生が大半で、私服姿の観覧者は数えるほどしかいなかった。反対側のギャラリーも人でいっぱいで、入りきらなかった生徒がステージに座っていた。
試合前にS先輩を真ん中にみんなで円陣を組んだ。練習ではみんな別々のチームだったから、本番でコンビが合わないのは当然だ、調子は徐々に上げていこうと喝を入れて、最後に中学時代の掛け声をみんなで合わせた
コートに入るとギャラリーの視線が一斉にボクらに集まる。中学生に混じったOBチームは傍から見ると目立ち、中でも髪を染めていたAとCは、スパイクを打つだけで悲鳴に似た喚声が上がっていた。
笛が鳴り、ボクが前衛の真ん中から試合は始まった。
サーブは相手から。山なりの、コートに入れることを目的としたチャンスサーブだ。レフトのCが取って、ボクの速攻にトスが上がる。始まったばかりだから、相手のブロックはボクに気づかない。ノーマークだ。腕を振り下ろしてボールを叩くと、下に落としすぎたのか、ボールはネットに当たってボクの足に落ちた。
「ドンマイ」
相手に一点が入った。セッターのAがすぐに声をかけてくれる。ボクは「ごめん」と小さく呟いて元の位置に戻る。折角のチャンスだったのに、点を取れなかった悔しさが後に残って、ボクは早々に焦っていた。
二十一点先取の試合。ボクたちは教員チームに十点も取らせないで快勝した。初めの方はみんな緊張して、普段ではあり得ないミスも多かったけど、後半はCのスパイクと、それからAのジャンプサーブ―が決まって簡単に終わった。二試合目までの待ち時間、ボクらは近くのコンビニに集まって、ささやかな反省会を行った。S先輩はタバコを吸って眠そうだった。
コンビニから菜々美とCが出てきた。Cはボクらをチラと見ると、なんとなく気まずそうに笑って菜々美と公園の方に去って行った。「二時半だからなあ」とその背にAが声をかける。
「クリスマスか」Bが小さく呟く。
「何か予定でもあるのかよ」
「別に、ないけど」
「そんならなんてことない、ただの一日さ」
「そっか」
遠くで菜々美の笑い声が聞こえたような気がした。振り返りると、人のいない道の中央に、枯葉が寄り添うようにして渦巻いていた。
二試合目も三試合目もさほど苦戦しなかった。Aのトス回しは均一で、レフトと同じ本数をボクやBにも上げた。特にBのライトに伸びるトスはピカイチで、ブロックがほとんど付いてこれていなかった。
「これだけ手の内明かして、平気なのかよ」ボクは試合中にAに話しかけた。点差は既に十点はついていた。
「こういうのは点が離れた時になるたけ見せておくもんなんだ。それに、オレはまだ本気を出してない」
試合中のAは本当に楽しそうだった。普段見せない笑みも、掛け声も、全てチームを引っ張る作戦だとするならば、彼は本当に策士だなとボクは思った。試合が終わり、トイレへ行こうと体育館を出た時、準決勝の相手が発表されるボードの前で、S先輩は難しい顔をして腕を組んでいた。
「次に当たるチームが、ちょっと規格外なんだ」
「たしか、高校生のチームですよね」
ボクはそのチームを知っていた。ボクらと同じ時期に、クリスマスカップに出ると言って練習に参加した子たちだった。六人のうちの三人が初心者で、二人が中学のバレー部。ひとりが高校からバレーを始めたまだ年の浅いチームだった。
「ひとり急遽来れなくなって、代わりに連れてきた助っ人がヤバいんだ」
「どんな人なんですか?」
「ほら、アイツだよ」
振り返ると、後ろでどよめきが起きていた。すらりと細い足が、ボクの腰の辺りまで伸びている。広い胸、がっしりとした肩とは対照的な小さな顔は、まだ垢抜け切れていない素朴な感じだった。
「大きいなあ」
「百九十、いやそれ以上は確実にある」
彼はポッケに両手を突っ込みながら、軽い足取りでボクらの前を過ぎると、腰を屈めて対戦表を覗き込み、表情ひとつ変えずに体育館に入っていった。
「つかみどころのない感じですね」
「ああいうのが豹変するんだよ」
普段は穏やかなのだが、試合の時だけ人が変わったように闘志をむき出しにするスポーツ選手は珍しくない。狩猟本能とで言うのか、勝ちのために、ただひたすら自分の力を出し尽くす。その様は、傍から見れば確かに恐ろしいものに違いなかった。
試合はこれまで通り、自然に始まった。サーブは相手チームから。この辺りまで来ると、どの選手もフローターサーブになってくる。Bのレシーブが少し乱れる。速攻のボクは入れない。Aは素早くボールの下に潜り込み、速いトスをレフトに送る。Cは助走が短くなって、空中で身体を捻りながらインナー方向に腕を振り下ろす。
大きな打撃音が跳ね返って地に落ちた。ボールは勢いよくバウンドしてコートの端に転がる。審判の笛。相手にポイントが入る。
「高いなあ」
Aは苦笑していた。当然だ。相手のエースはトスが上がるまで真ん中にいて、Aの速いトスにしっかり付いてきていたのだ。その上ネットが低いから、ジャンプしなくとも、手が半分近く出る。大きく開いた手にボールが吸い込まれ、呆気なくブロックに捕まってしまったのだ。
「切り替え、切り替え」
S先輩が励ましの声を出す。相手のサーブから試合再開。今度は後衛のリベロがしっかりとパスを返す。ボクの速攻が使える。チラと相手のコートを見ると、長い足のスパイクを警戒しているのか、守備が後ろに固まって前がガラ空きだ。ボクは押し込むように指先でボールを軽くついた。ブロックの上を通過したボールは、そのまま誰もいない真ん中に落ちていく……
が、落ちない。ブロックについていたエースが素早く上体を反らせてボールを上げる。高く上がったボールを後衛の選手がアンダーでトスにする。再びエースのいる真ん中にボールが来た。
ブロックだ。ボクはレフトのCとタイミングを合わせて手を出す。中央を塞いでいるから、スパイクはクロス方向に限られる。何とか上に上げてくれと願いながら指先に力を入れる。
バチーンというもの凄い衝撃音が体育館に響いた。空気が震えたような気がする。振り返ると、呆然と立ち尽くすチームメイトの姿があった。
「上だ、上」
ギャラリーの喚声がやかましすぎて、Aが何を言っているのか初めわからなかった。ブロックの上を通過したスパイクは、そのままコートの真ん中に叩きつけられ、跳ねたボールがギャラリーに上がったのだ。
「タイム、タイム」
S先輩が審判にジェスチャーをする。本当はタイム何て使えないのだけど、流れを変えるために無理やりでも間を作り出すしかなかった。
「アイツ、T高の一年だってさ」
水を飲んでいたAがボクに言う。T高のバレー部と言えば、去年の春高に出場した県内屈指の強豪校だった。
「そんなやつがどうしてここにいるんだよ」
「詳しくはわからないけど、辞めちゃったらしい」
ボクは反対コートにいるエースを見た。彼は仲間たちから一歩離れた場所で静かに水を飲んでいた。
タイムが明け、選手がコートに戻ると、ボクはネットの反対にいるエースと向かい合わせになった。彼は笑っても怒ってもない無心の表情で、じっとボクらのコートに視線を注いでいた。
相手のサーブが失敗し、ようやくボクらのターンに変わった。点差は三点あるが、サーブの得意なBのことだから、ここで点を入れてくれるだろう。一発目に放ったサーブは、相手の選手を吹き飛ばす。二発目は緩急をつけたサーブで、セッターの前にポトリと落ちた。これで点差は一点。Bはポジションを変えて、今度は対角線上に長く伸びるサーブを打つ。直前で軌道が変わるから、相手はインアウト判定で迷ってしまう。ボールは線の上に落ちて同点。これで逆転ができる。
ボクは相手コートを眺めた。守備位置にいる選手はみんな、笑い合って不安を掻き消そうと努めている。高校生らしい無邪気な一面が見れてボクはホッとした。けれど真ん中にいるエースは、口を一文字に結び、コートから視線を外さない。勝負に対して真剣な姿勢だと感じるが、その目はいかにも退屈な、時間つぶしの感が否めない、眠た気なものだった。ボクは引っかかるものを感じて視線を逸らす。Bのサーブを相手のリベロが何とか上に上げた。トスがエースの真上に来る。今度はネットから離れているから、真下に打たれることはない。三人合わせてブロックに飛ぶ。Aはフェイントに備えてコートの前に飛び出す。
ボクの右手に火傷のような熱い痛みが走った。と同時に、回転のかかったボールが、相手コートの奥、得点板の方へ勢いよく曲がっていった。
もはや絶望。展開も一歩的に思われたが、S先輩やCの守備が固く、また相手の半分は初心者ということもあって、序盤は点を放されたが、中盤には盛り返し、十五点からは一進一退の攻防が続いていた。
ボクは終始相手コートを眺めていた。そろそろ相手の集中力が切れてきて、ボールが落ちやすくなる頃合いだった。エースに上げ続けてきたセッターも、執拗なサーブ攻撃に疲弊したのか、まともに足が動いていない。勝負を仕掛けるなら今だった。
顔を上げると、エースと初めて目が合った。彼はボクを睨むのでも、見つめるのでもなく、ただそこに人がいたからと言った視線で、いつまでも目を放さない。この勝つか負けるかの局面で、顔色一つ変えずに飄々としている。
なぜエースはバレーを辞めたのだろうかと、その時思った。規格外な身長もそうだけど、ブロックアウトを取ったり、足の長いスパイク打ったりと、周りを見れる器用なところは、とても長年の練習だけで培えるものではない、この選手の才能なのだ。この手数の多さならば、将来の日本を背負う選手になる可能性も十二分にある。それなのにどうして……
エースは変わらず鋭いスパイクを打ってくる。ボクもブロックを飛ぶ。攻撃は入れ替わり、立ち代わりながら、それでもじょじょにボクらのチームが押されてくる。試合はデュースに差しかかり、二点差をつけなければ終了にならない延長戦に突入した。
相手チームのほとんどの選手は気が抜けてへらへらと笑みを浮かべていた。作り立てのチームでここまで善戦できるのなら上出来だ、これなら負けたって良い思い出になる。ギャラリーに集まった観客も、OBのボクらが苦戦している様子を察して、相手チームを応援しだした。
それでもエースは変わらずコートを睨んでいた。何が起きても動じないといった威厳さえ漂っていた。そこまでくると、ボクは何だか全てがバカらしくなって、試合などどうでもよく感じてきた。たかが地域の小さなバレー大会、そんなものに本気になって何になる。第一、キミたちにはまだ、輝かしい未来が待っているじゃないか。どんなものにも負けない、強い自信があるじゃないか。それなのに、こんな何にもならない小さな勝ちにこだわって、自分の可能性を潰しているとは思わないのか。ボクはネット越しにエースに向かってそう言ってやりたかった。
Cのスパイクがネットにかかる。ブレイク失敗。ギャラリーから大歓声が起こる。相手のマッチポイント、ここは意地でも点を取らなければならない。サーブは緩やかな、入れに行くサーブ。ライトのBが取る。ボールは綺麗にセッターに返る。ボクは速攻の助走に入る。
トスがボクに上がる。この重要な局面でミドルに上げるAの度胸には感心する。右手で捻るようにクロスに打ち込むと、コートの中は空いているのに、ボールがポーンと上に上がった。
偶然にも、そのスパイクはエースの足、シューズに当たって高く跳ね上がったのだ。物凄い喚声。鳴る鼓動。打つのはエースしかいない。思い切り飛んで腕を前に出す。ここでアウトを取られるわけにはいかない。指先に力を入れて空気を押しつぶす。エースもさすがに疲れているのか、助走が充分に取れず高さが出ない。クロス方向に逃げるパターンだ。ボクは目をつぶる。どうかボールよ上がってくれ。
ボールが宙に浮いていた。あっ、と後ろから声が上がる。エースの指先に当たったボールは、そのままボクのブロックを通過してコートにポトリと落ちた。空気が静まる。立ち尽くすボクら。エースは初めから勝負し続けていたのに、最後は緩いフェイントですぐに試合を終わらせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます