第7話

 三日間曇りが続いていた。季節の変わり目に、このような微妙な天候になることはままあって、昨年を除けば二年前から毎年続いていた。今にも雨の降りだしそう四日目の午後、昼寝を終えたボクはパソコンに向かい、締め切りの近づいた原稿に取りかかっていた。

 一時間もすると、指が思うように進まなくなる。モニターを見る目はかすみ、頭がボウッと運動をした後のようにほてってきて、ボクはシート倒して天井を見上げた。

 ボクは最近散歩をしなくなっていた。天気が悪いこともそうだけど、長く急な坂道を上ることに面白みを感じなくなっていた。運動は週に一度の練習で間に合っているのだから、余計に身体を動かさなくても十分健康だった。

 ボクは携帯からアプリを開いてFreeTempoの「Beautiful World」を聴いた。冷蔵庫からレモネードを持ってきてもう一度、今度はリズムではなくリリックに注意して聴いた。聞こえてくる歌声は全て英語で、どんなことを言っているかがまるでわからなかったけど、なんとなく失恋ソングのような気がした。

 姿勢を正して再び机に向かう。が、今度はめまいのような、軽い気持ちの悪さに襲われてシートにもたれる。やはり何時間も画面を見続けているのは身体に悪いことだ。ボクは右手で目を抑えながら小さく舌打ちした。

 小説家を目指す前は、どのようにして時間をやり過ごしていたのだろうかとふと思った。部屋を見渡すと、祖母の書棚に小説がぎっしりと詰まっていた。ざっと見ただけでも、時代小説に恋愛小説、海外ミステリーに純文学、詩集や花の本、料理雑誌、小学生の頃から始めても、到底読みつくすことのできない量の本が、綺麗に収められていた。

 下段にはボクの買った本が並んでいた。新潮と講談社が多かった。ボクは適当に一冊取って中を覗く。一度読んだことのある短編集だったから、目次を見ただけで大体の内容を思い出すことができた。

 一時間ほどして読み終えた時、心が晴れ晴れとしていることに驚いた。初めて読んだ時には抱くことのなかった感情が、一気に溢れ出てきていた。ボクは宮本輝の『星々の悲しみ』をもう一度、今度はノートを取りながら、何かを解読するように読み進めた。

 外はすっかり暗くなっていた。父親も今日は泊まりだったから、ボクはキッチンであまりものの豚肉を焼いて食べた。机のカゴに三日前に買ったバナナが房から放れていて、ボクはオレンジの照明に照らされたちっぽけな果物を孤独だと思った。

 部屋に戻って本棚を漁り、村上春樹の『1973年のピンボール』と庄野潤三の『静物』を読み始めた。二冊とも前に読んだことがあって、感動はしなかったが感心した覚えがあった。

 二時前にシャワーを浴びに洗面所へ行った。洗濯物をカゴに取り込んで、着ていた服を中へ入れた。シャワーは熱めに調節したはずなのに、頭から湯を被っても快感は訪れなかった。

 吉田美奈子の「時よ」を聴きながら入念に歯を磨き、獣のように手を汚して、眠った。


 木曜日に酉の市があった。練習が終わってからみんなで通り沿いに続く露店を周った。Cは高校の友達と周るからと言って、申し訳なさそうに駆けだしていった。

「デカい祭りだから、知り合いに会えるんじゃないか」とAが言った。

「地元だから、会えても小中の同級生くらいだろう」

「オレのバ先の先輩も来るって言ってから、オマエらちゃんと挨拶しろよ」

 大通りにテントが張られていて、一面にぎっしりと熊手が飾られている。鯛に小判に招き猫。上部にいくほど豪華で重そうな装飾が、賑わった通路を静かに見下ろしていた。

 小学生の頃は飽きもせず、ただ通りを歩いているだけで楽しかった。一年の、この時期にしかないお祭りだから、柄にもなくワクワクして、宝釣りのヒモをいつまでも吟味したり、買いもしないのに綿あめのできるところを眺めたりした。

 遊ぶところも沢山あった。射的に輪投げ、金魚すくいにスマートボール。当時はエアガンが流行っていて、くじ引きで取った瞬間から、みんなして路上を走り回っては、道端にBB弾を撒き散らした。次の日にはすっかり掃除されていて、残念だったことも覚えている。

 Bが焼きそばを食べたいと言ったから、公園通りに出て人混みを真っすぐ進んだ。平日にもかかわらず、夜の露店は人でいっぱいで、学生やカップルの姿も珍しくなかった。ボクは辺りを見回し、通り過ぎる女性の顔を次々に眺める。見覚えのありそうで、皆すっかり垢抜けて、堂々とした人たちばかりだった。

 歩きながら買ったものを食べていると、同級生の一群と出会った。女子三人の、別の中学に行った子たちだった。

「公園にみんな集まっているんだけど、Aたちも来なよ」

 ボクはその三人組のひとりを知っていた。六年生の時に同じクラスになって、委員会の代表を一緒に務めた背の高い子だった。

「久しぶり」

「あんまり変わんないね」

 名前は林菜々美。高校を卒業してからは、東京の看護学校に通っていると言う。ボクがバイトを続けながら小説を書いていると言うと、菜々美は驚いた顔をして「でもあたし、本は読まないから」と笑っていた。

 公園には小学校の同級生が十数名集まっていた。同じ中学の者や家が近所で頻繁に会う者、中には卒業式ぶりに会う、懐かしい顔もいた。

 集まって記念写真を撮り、それぞれが思い思いに近況を語り合っている中、ボクと菜々美はブランコに座り、静かに学生時代の話を続けていた。菜々美は顔が広く、ボクより地元について詳しかったから、半分はボクが質問するかたちで話しは進んでいた。

「小学四年生の時に、町のプロフェッショナルって授業があったの、覚えてる?」

 菜々美を腕を組み、考え込むように首を曲げていたが、しばらくすると「ああ、たしかにあったね」と思い出してくれた。

「店主にインタビューして、みんなで発表したやつでしょ?」

「そう、それ」ボクはホッとして笑みをこぼした。

「それがどうかしたの?」

「その時、菜々美の班に誰がいたか、覚えてない?」

「確か、あたしが班長で、C子とN子と……」

 指を折りながら、数えるように菜々美は名前を述べた。最後から二番目に彼女の名前が上がる。

「あたしたちは海沿いのレストランに行って、みんなで職業体験みたいなことをしたの。お皿の運び方だったり、テーブルマナーだったり。それで、トイレ休憩を挟んで、あたしが点呼した時、あの子がいなくなっていた」

 ボクは自分の指先が冷たくなっていることに気づいていた。それは導けなかったパズルの解き方が、何かをきっかけに自然と頭に降ってくるような、そんな唐突で自然なものだった。

「みんなで周辺を探し回ったの。引率の先生も、レストランのスタッフの人たちも協力して、道路の向こう側だったり、公園の敷地内を回ってくれた。でも、あの子は見つからなかった」

「それで、どうなったんだ」

 菜々美は睨むようにボクを見つめた。

「夕方に見つかったの。警察に保護されたあの子と、そしてアンタを担任が連れてきて、みんなの前で謝らせた」

 露店の賑わいは、少し離れた公園の敷地にも大きく響いていた。開運招福、商売繁盛、あちこちで人々の願う声が、十一月の夜空に大きく上がっていた。


 森の中を走っていた。木々はどこまでも続き、空は水彩絵の具のよう。

「はやく。こっち」

 引いているのか、引っ張られているのかわからない。握られた手は温かくて柔らかい。血の通っていることが直に伝わってくる。

「どこにいくの」

「わかんない」

「この場所は知ってるの」

「ううん」

 互いに目指す場所が違うのか、腕は伸びたり、縮んだり。息遣いだけが次第に増していく。

「角を曲がろう。そうしたらバレない」

「でも、迷ったらどうするの」

 黙ったまま強く手を握った。

「どうにでもなるさ」

「どうにでもなる」

「どこに行きたい?」

「どこでもいい」

「ほんどにどこでも?」

「うん」

「戻るのは」

「いや」

「じゃあ進もう」

「進む」

「どこまでも」

「どこまでも」

「返さなくてもいいんだよ」

「どうして?」

「見ればわかるもん」

「見ればわかる」

「ほら」

「ほら」

「ふざけないでよ」

「ふざけてない」

「真剣なんだから」

「真剣だもん」

「何が言いたいのさ」

「何も」

「じゃあ黙ってよ」

「いや」

「どうして」

「どうしても」

「からかってるんでしょ」

「ううん」

「うそ」

「うそじゃない」

「笑ってるじゃん」

「笑ってない」

「怖いんでしょ」

「怖くない」

「寂しいんでしょ」

「寂しくない」

「じゃあなんなのさ」

「うんとね」

「うん」

「もどかしいの」

 前が開けて、一面に海が広がっていた。

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