第6話

 日曜日はカラっと晴れて、空はどこまで突き抜けるように青かった。元町の入り口で合流したボクらは、文学館に入る前に坂の中途にある新しめの洋食店に入って遅い昼食を取った。木造りの店内には暖炉と燭台、天井には様々なヨーロッパの旗と、山あいの湖から飛び立つ一羽の水どりを捉えた写真が額縁に収められていた。

「いい店ね」と彼女は言った。

「あの写真、どこで撮ったんだろう」

「さあ、デンマークとか、北欧の方じゃない」

 山嶺に積もった雪が、湖に反射して光っているところを指さす。

 髭の濃いオーナの持ってきたピザとボンゴレビアンコを食べて店を出た。

 近代文学館は、丘の上に広がる公園内に置かれた西洋風の展示館で、入口に「太宰治展」と書かれた立て看板が目についた。中は常設展と特別展に分かれていて、常設展の方は谷崎や永井荷風、山本周五郎などの神奈川にゆかりのある作家の作品が並んでいた。

 特別展は入口から離れた奥のフロアにあった。日曜日にもかかわらず、中は人の姿が見当たらず、しんと静まり返っていた。入口近くに太宰の年表が書かれたプレートが置かれ、展示ケースがぐるっとフロアを囲むように照明に光っていた。ボクは右から順にケースの中を眺めた。太宰の幼少の頃の顔写真、学生時代のノート、アルバム、自殺未遂の後に病室で書いた原稿、インク壺、ヴィヨンの妻、ロマネスクの草稿。中にはボクの知らない作品の原稿まであった。

 彼女はボクの後方でゆっくりと、ひとつの絵画でも見るようにケースを眺めていた。あんまり瞬きをしないものだから、気を失っているのではないかと声をかけそうになったくらいだ。ひと通り見終えたボクは、隣の部屋にある太宰治の小説が収められている閲覧室に向かい、本棚から『晩年』を取って、『思い出』の続きを読み始めた。『思い出』には、太宰の幼少期から中学までの出来事が書かれれていた。本心を偽り、周りの目を気にして生活する太宰の生き方が、この頃から始まっていたのかと驚く。太宰はその後東京に出て、カフェで知り合った女中と心中を図る。

「おもしろい?」

 後ろから声がした。『思い出』を覗き込むように、彼女が前かがみにボクを見つめていた。

「退屈だったでしょ。付き合わせてごめんね」

「そんなことない」

 ボクは本を棚に戻し、何となく落ち着かない気持ちで足早に出口まで進んだ。


「四回」

 彼女は呟く。公園内の展望台には旅行客が集まり、海に架かったベイブリッジを背景に記念写真を撮っていた。

「信じられる?」

「そこまでくると、もはや自分が好きだったんじゃないかって思えてくるよ」

 彼女は小さく笑った。紅葉を迎えた木々は黄色く、しとやかに色づき、銀杏の植わった並木道は日本ではないような景色を映し出していた。

「小学校の時」

 横浜の青い海に視線を注ぎながら彼女は口を開いた。

「ここに来たこと、覚えてる?」

「覚えてるよ」

 小学四年生の十月ごろだったと思う。地元のお店について調べるという社会科の校外学習で、クラスがそれぞれ班に分かれてお店を尋ね、後日まとめて内容を発表すると言った、大がかりな授業があった。ボクらのクラスは丘の上のお店に限られ、他のクラスは元町や山下町などの中華街周辺のエリアだった。

 確かボクの班は、西洋会館を真っすぐ行った、通り沿いのケーキ屋さんだったと思う。班長のボクが先導して店に入り、若い女性の店員さんから人気メニューの作り方を教わり、最後にイギリス人のオーナーさんがタルトをご馳走してくれた。ボクの班が発表会で一番になったことも、鮮明に覚えている。

「あの時も、この席だったよね」

 座っている青いベンチを指しながら彼女は懐かしそうに笑う。ボクは曖昧に頷いて頭をめぐらす。彼女とは、小学校三年の一度しか同じクラスになっていないはずだった。

「何かと勘違いしてない」

「覚えてないの?」

 ベイブリッジは白く輝いていた。左の方に目を移すと、マリンタワーが黄色く染まった紅葉の間に覗いていた。奥の方には海に面した象の鼻パーク、赤レンガ倉庫、そしてランドマークタワーの角ばった上部が見え、停泊した客船の汽笛が、強風に煽られボクらのいる展望台まで届いた。

「この下に川が流れているんだ」

 ボクは気まずい雰囲気を払拭するべく吉田新田のことを語った。丘の下を流れる川は、元は田んぼに流すためにつくられた水路で、以前は町を流れる小さな川と幾つも繋がっていたのだが、水運の衰退や都市化の再整備に当たり、戦後から高度経済成長期にかけて全て埋め立てられ、残ったのがボクの近所を流れるこの川だけなのだった。

「真っすぐ横浜港に注ぐ川を眺めていると、なんだか奇妙な気持ちになる。それは眠れない夜に高速道路をずっと眺めたり、森の中で虫や鳥の鳴き声を聞いたりするのと少し違って、何ていうか、心の底の方に溜まっていたマイナスな感情が、ふっと思い出されて懐かしさに嬉しくなるような、そんな不思議な気持ちなんだ」

「郷愁と何が違うの」と彼女は言った。

「郷愁は一種の悲しさが残るけど、ボクのは違う。悲しみの後に温かな光が射すんだよ」

 彼女は難しい顔をしてうつむいた。ボクは自分でも何が言いたいのかよくわからなくなって、遠くに見える工業地帯の煙突を見つめていた。

 公園の隣に小さなフラワーガーデンがあって、秋バラの見ごろということもあり、多くの人で賑わっていた。アーチを潜って色とりどりのバラを見ていると、ひとつひとつが違った顔を持つ人間のように思えてくる。黄色の顔をした人。白い肌の人。蒼い眼を持った人。ボクは目の合った人たちに丁寧にお辞儀をして心を開く。そうすると、相手から自分の過去を語りだしてきそうな気がして、ボクは屈みこんで花弁の一枚一枚を覗き込んだ。

 坂を下り、元町通りを一周して彼女と別れた。彼女は展望台から口数が減り、最後の方はほとんどボクが喋っていた。家に帰ってシャワーを浴び、何が悪かったのだろうとベットに仰向けになって考えていると、そのままウトウトと眠ってしまった。


 中学の頃まではひとりぼっちが嫌だった。周りと違ったことをするのが恥ずかしかったのもそうだけど、それ以上に自分と向き合っていることが、堪らなく苦痛で、惨めなことのように思えた。高校入試のために新しく塾に通い始めた中三の冬、最後の講義を終えて外へ出た時、久しぶりにひとりになったと感じた。その塾はボクの中学から何十人と在籍していたから、帰り道はいつも誰かと一緒になるのだった。

 ボクは駅を過ぎ、橋を渡って繁華街とは逆の方向へ歩いた。夜の八時を過ぎると、飲食店以外の店は一斉にシャッターを下げ、電柱に灯された光だけが足元を照らしていた。住宅は進めば進むほど密度を増していき、気がつけば人や車の姿は一切見当たらなくなっていた。

 何本も橋を渡り、階段を上がっては降りたと思う。気がつくと、ボクはまったく知らない町に入っていた。古めかしい住居、工事中の空き家、見慣れない薬局。全てが初めて見るようで、見覚えのある要素を含んだ普通の住宅地だった。

 当時ボクは携帯を持っていなかったから、道を調べることも、探すことも出来なかった。来た道を戻ろうにも、何本も小路の交差した住宅地は秘境のようで、間違った道を進めば戻れなくなることはわかり切っていた。

 小さな公園のベンチに腰を下ろした。足の裏が甲羅のように固く張っていた。このまま歩き続ける気力も体力も、もう持ち合わせていなかった。

 ボクはカバンからノートを取り出し、何となくパラパラとめくってみた。授業ノートは日によって文字の形が違い、寝ぼけながら受けていたものと、集中していたところが明確にわかった。ページの隅の方には、当時放送していたアニメのキャラクターが、下手なタッチで描かれていた。下の方に見慣れない筆跡で、当時気になっていた女子生徒の名前が書かれていた。

 その日は綺麗な上弦の月で、雲のない空には月明かりがだけが燦然と藍の中に浮かんでいた。よく目を凝らすと、月から離れた下の方に星が輝いている。一等星の、青い光を放つ星だ。その隣には、一等星に負けない輝きで、真っ白く輝いている星が見える。ボクは立ち上がって空を見上げる。色、形、大きさの異なる星々が一面に無限に散らばっていた。

 ボクは星を見つめながら歩き出した。足の感覚は既になくしていたけど、何万光年と先で輝いている星を見ていると、勝手に身体が動いていた。

 歩きながらボクは近い将来のことを考えた。二月に控えた高校受験。ボクの志願していたところは、内申点が五つほど足りていなかった。当日のテストと内申点の合計で合否を決める入試方式は、ボクにプレッシャーをかけさせた。中学二年の後期の内申は、もうどうすることもできない。今できることは、本番のテストに向けて勉強する、ただそれだけなのだ。

 星を見上げながら、ボクは中学生活を繋げていった。三年間続けてきたバレーボールから始まり、クラスでの出来事、惜しくも準優勝だった合唱祭。三年間負け続けた体育祭、そしてボクが監督を務めた文化祭のクラス劇。それぞれの出来事に多くの人間が関わり、営みがまた新たな出来事を生んだ。

 繋がっているんだなと思った。ボクの悲しみも、嬉しさも、喜びも、そして不安も、いずれまた繰り返す運命なのだと感じた。星はいつまでも同じ位置に留まり、どこまで行っても届きそうになかった。ボクは取り留めのない空想を続けながら夜空に沿って歩いた。家に着いた時にはリビングが真っ暗で、真っ先に机に向かって単語帳を開いたことを覚えている。

 今は逆にひとりぼっちだ。高校受験に失敗してから、それが自然であるかのようにボクは部屋に閉じ籠った。わびしかった。高校を辞めた。そして大きな旅に出ようと計画立てて挫折した。人は自分と向き合う時間が増えるほど、他人と距離を取ってしまう生き物らしい。


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