第5話
何かが、まとまった。そして全てが上手く進んでいくと感じた。ベッドから飛び起き、顔を洗って歯を磨く。休日の午前中は戻って来ない。食パンを一切れ口に放り込み、ノートと筆記用具をバックに入れて家を飛び出した。
隣駅と言っても、歩いて二十分ほどなので、街並みはそれほど変わらずに続いていた。スクランブル交差点から緩い坂道を上った真ん中あたりに目的の図書館はあった。
小学校低学年の頃、ボクはこの図書館を頻繁に訪れていた。動物園の隣に建てられた横浜市の中央図書館。家の近所にあったこともそうだけれど、祖母がよくここへ本を借りに来ていたのだ。
受付で貸し出しカードを作ってもらったことも覚えている。司書さんに手渡されたカードを持って、一階の子どもコーナーへ歩いていく。小説の他に、辞典や紙芝居なんかも沢山置かれていて、平日は親子連れの利用者が多かった。
当時、ボクの好きだった水木しげるの『妖怪大辞典』は、広いフロアの隅っこにある「宗教・歴史」のコーナーにあって、そこは窓際で日当たりが良く、天気のいい日はブラインドカーテンの下に陽だまりができて暖かかった。
しかしいつ、どんなときにそこを訪れても、利用者どころか司書や職員と顔を合わせたことは一度もなかった。入口から一番遠い所にあり、小学生にしては幾分難しい話題を扱っていたから、子どもには取っ付きにくかったのかもしれない。ボクは書架に囲まれたテーブルにひとり座り、開いた本を飽きるまで眺めた。『妖怪大辞典』はページのほとんどが恐ろしい妖怪の絵で、説明は下の方に小さく書かれているのみの、読みやすいものだった。ボクは描かれた妖怪を頭の中で次々戦わせた。用事を済ませた祖母が声をかけて来るまで、時間を忘れて絵の中に自分を没頭させた。非日常が日常に食い込む様は、平凡な毎日を送るボクを驚かせ楽しませた。
内部は当時と何ひとつ変わっていなかった。カードは更新が切れていたため使えなかったが、そう頻繁に利用するわけでもないので貸し出しは止した。カウンターを過ぎて左側が「子どもの本」、右が「小説と暮らしの本」。感傷に浸りたくて来たわけでは決してない。ボクは隣のエレベーターへ入り、③のボタンを押した。
郷土資料の書架は、三階の向かって右側に立ち並んでいた。市内で一番大きい図書館なのだから、それだけ横浜に関係する資料も豊富で、「横浜出身の作家」というコーナーまで設けられていた。
平日の一時過ぎということもあって、四つ並んだカウンター席は全て空いていて、奥のボックス席も人の気配はなかった。所在票を片手に、目的の書架まで何度も往復して、ようやく二列目の棚から『川の町・横浜』を見つけ出すことができた。
ここから全てが始まるんだ、とその時妙に意気込んでいた。ボックス席に腰を下ろしてページを開くと、開港以前の横浜の地形図が大きく映し出されている。山の下に小さく広がる漁村は、現在の発展した港町とは程遠い、貧しくてちっぽけな感じがした。
ノートを取りながらページを進めていくと、江戸時代の横浜という項に、「吉田新田」という聞きなれた名称を見つけた。
小学校四年生の頃、社会科の授業でこの辺りの歴史について学んだことがあった。この辺りは昔大きな海で、吉田勘兵衛という大地主が苦心してその地を埋め立て新田開発を行った。だから今、アナタたちの住んでいる家も、この学校も、全部昔は海だったのだと、当時の担任の声がそのまま頭に流れる。
校外学習で吉田新田の周りを歩いたこともあった。新田といっても大昔の話で、今はその面影もほとんどなかったから、ただ近所を周って帰るだけの軽い散歩だったのだけれど、ひとつだけ立派な石碑の前で、担任が熱く説明していたことがあった。
それは駅前にある交差点の植え込みだったと思う。長方形の磨かれた石に「吉田橋関門跡」と彫られていて、広い道路には車がビュンビュン走っていたことを覚えてている。
安政六年六月二日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の取り締まりを行いました。
ページに書かれている言葉をボクはそのままノートに写した。具体的なことはまだ何もわからなかったけれど、何かに役立つと感じて言葉をつづった。横浜、開港、そして橋……
読み進めていくうちに、頭の中で散らばっていた事柄が次々と繋がり、ひとつの大きな形となって広がっていくのを感じた。それは鬱屈としてやりきれなかった近頃が、どうでもよく思えるほどスッキリとした爽快感をボクに与え、地図に夢中にさせた。
ノートに構想の概略を書きなぐり、満足そうにペンを置いて掛け時計を眺めると、まだ到着してから一時間も経っていなかった。このまま書き始めてもいいのだけれど、あまり調子に乗って出だしを失敗すると危ないから、今日はこの辺りで止しておこう。机に広げた二冊の本を書架に戻し、エレベータで一階へ降りると、「小説と暮らしの本」の掛け札がかすかに揺れているのが目に留まった。
木造りの細長い本棚に文庫本がきっしり収められ、それに向かい合うかたちで、テーブルが二台置かれていた。片方は老人がつめ合うようにして座ってい、もう片方は自習室に入れなかった学生がふたり、席を離して参考書を開いていた。
ボクは通路側に近い学生の向かいに腰を下ろし、荷物を置いて本棚を漁った。夏目漱石や森鴎外、谷崎潤一郎。近代文学の初めのほうは高校生の時に読んでいたから、戦前から戦後にかけて書かれた太宰治なんか良さそうだ。ボクは「走れメロス」くらいしか読んだことがなかったけれど、太宰治の『晩年』を手に取ると、席に戻って一ページ目から読み始めた。
読み始めて三十分ほど経った頃だろうか、ボクの隣に誰かが座った。図書館なのだから、そう珍しいことでもないと、ページに意識を集中させながら目を上げると、向かいに座っていた学生がいなくなっていた。再びページを目で追うが、一度途切れた集中はなかなか続かず、ボクは『晩年』を閉じて本棚に戻した。確か、『思い出』の真ん中あたりまで読み進めていたから、次に来る時まで覚えておこう。カバンを取りに席に戻ると、ボクの隣に髪の長い、見覚えのある女性が『パンドラの匣』を開いていた。
併設されたレストランは、簡素でスッキリした内装のものだった。売店の横に構えられた食券機を使う注文方法も、小学校の時から何ひとつ変わっていない。ボクはぐるっと室内を見渡し、天井に周るプロペラの動きをぼんやり目で追っていた。
「太宰、好きなの?」
カレーライスが到着した時、彼女はひとりごとのようにボソッと呟いた。
「うん、好きだよ」
嘘をついた。
「高校の時に全部読んだんだ。それで久しぶりに読み返してみようと思ってね」
「何が良かった?」
彼女は覗き込むようにボクの眼を見つめた。正面からだと昔の面影がやや薄れて、化粧の施された肌に光が射していた。
「やっぱり、『斜陽』かな。あの時代のことがよく書けていると思うよ」
「『富嶽百景』は?」
「あれはビミョーかな。ちょっとありきたりすぎる」
「『津軽』は?」
「なかなか良かったよ。描写が優れている」
「『新ハムレット』は?」
「読みやすくていいね」
「『二十世紀旗手』」
「読みにくい」
「じゃあ『人間失格』は?」
ボクはスパゲティを食べ終え、コーヒーをすすっていた。料理と一緒にコーヒーが付いてくるのも、昔と変わっていない。
「難しい、すごく難しい。ボクにはまだあれが読めないよ」
彼女は目を見開いていた。
それから少し近況を語り合った。何の中身もない、ただ時間が過ぎていくだけの空疎なものだったけれど、居心地の悪さはみじんも感じなかった。西日と同じ方角から風が舞い込んで、話している彼女の前髪をさらうと、ボクは視線を落ちた枯葉に注がせた。
近代文学館で太宰治展が催されていることを、帰り際に彼女の口から知った。坂を下る階段の中間辺りだったと思う。
「行く?」
丘の上にある近代文学館は元町から近いこともあって、休日はカップルや家族連れが多く集まっていた。
「行く」
彼女は夕日の下に広がる商業ビルのきらめきに視線を注がせていた。太宰なら、この風景をどんな言葉でつづるのだろうかと、黄昏に吹きすさぶ秋風に当たりながら晴れやかな、けれど決して興奮などしていない、達観した気持ちで学校帰りの小学生の一群を目で追った。
その週の木曜日、一番乗りで体育館にやってきたボクは、ネットを二面、綺麗に張り終えると、ボールを軽くバウンドさせながら、壁に向かって思い切りスパイクを打った。
中学時代、他よりも身長が高いことからブロッカーを命じられて、三年間ひたすらネットと向かい合って手を出し続けた経験が、手のひらに当たるボールの感覚を通してよみがえる。サーブ、レシーブ、トス、そしてスパイク。ブロッカーは目立たないポジションだけど、一試合に一度くらいは、全ての流れを変えるようなプレイ。何点と離れた点数差を覆すような、流れを呼び寄せるプレイ。そんな実力を持った選手になりたいと、ただひたすらに練習した日々が懐かしい。
七時過ぎにAとB、八時前に学校終わりのCが集まり、試合に出るメンバーが初めて揃った。練習試合は混合の、くじ引きでメンバーを決めるいつものやり方だったから、チームメイトとは離れて試合をしなければならなかった。
一試合目はCのチームだった。ボクは後衛のライトからスタート。サーブで積極的にCをCを狙うが、流石にサークルの代表ということもあって簡単に取られる。やっぱり、もっと手のひらでボールを押し出さないとダメか。身体の軸を意識して、まっすぐボールに力を加える。顧問に教わった六年前が、つい先日のことのように思える。
二試合目はBとS先輩のいるチーム。S先輩はボクたちのひとつ上の代で、高校ではキャプテンを務めていたエースだ。身長はあまり高くないけれど、ブロックの間からバンバン打ってくる。サーブで前後に揺さぶり、二段トスにしてコースに入るしかない。トスが上がる。前衛のふたりがレフトによる、ボクはクロス方向に構える。スパイク。上がる。上がった。
「カバー」
すぐにセッターがライトにトスを上げ、ボクのチームメイトが指の腹で押すようにして点を取ってくれた。「ナイスディグ!」チームメイトから笑顔でハイタッチされると、忘れかけていた試合の感覚。ミスを連発して顧問に怒鳴られ、それでも何とか一点を取った時の喜びと開放感がボクを包んだ。
最後のAとの試合は一番盛り上がった。Aは強豪校のセッターでありながら、どのポジションもこなせるオールラウンダー。体制を崩しながらバックトスをしたり、後衛からでも隙をついたロールショットを打ってきたり、とにかく予想ができない。常に集中して構えていなければならないのだ。
ボクにトスが上がった。相手のブロックにはAがいる。クロスコースは完全に塞がっているからストレート方向に打ち込むか。それともフェイントで防御に徹するか。いや、ここはAとの勝負。振り落とされても構わないからと、左手めがけて力いっぱい打ち込んだ。
「アウト」
ボクの放ったスパイクは、クロスコースの白線ギリギリに落ちた。デュースまでもつれた試合はボクのミスで終わった。打つ瞬間、Aはブロックの手を引っ込めて、スパイクアウトを誘ったのだ。
「いい勝負だった」
ネットを挟んで笑顔のAに、ボクは達成感と、疲労と、ほんの少しの希望に襲われて、しばらく誰とも会話を交わすことができなかった。
帰りしな、S先輩がボクらに焼き肉をごちそうしてくれた。先月オープンしたばかりで、先輩の高校のOBの方がオーナーをしているという。
「中学も俺たちと近いんだ。F中。オマエも知ってるだろう?」
「はい」
ボクはハラミを頬張りながら、紅い顔をしてビールを飲む先輩に頷いた。F中学は十年前までボクらの学区だった中学校で、公立に進む生徒が減ったことから、今の中学校と合併したのだ。
「昔は本当にひどかった。バイクで登校してくるやつなんてザラだったよ。今はでっかい駐車場になってるけど、あの隅の植え込みに鈍器なんか沢山埋めて、向こうの連中が来た時、すぐに取り出せるように構えていたんだ」
厨房から出てきたオーナーは、三十歳くらいの穏やかで感じのいい人だった。作業の手が空くと、ボクらの卓に座りこんで、S先輩の高校時代の話を長々と聞かせてくれた。
「F中学ってことは、家もここから近いんですか」
店に入ってから二時間もすると、みんな酒に酔って心地よくなっていた。店に入る前から一滴も口にするまいと断言していたボクも、烏龍ハイ、巨峰サワー、ハイボールと煽られ飲み進めていくうちに、練習の疲労も重なってウトウトと、目頭が重たくなってきていた。
「近いよ、ここから二十分くらい。お三の宮ってところだ」
「どの辺りですか?」
「オマエ、お三の宮も知らないのかよ」
横からS先輩の笑い声が聞こえる。
「おっきい神社があるところだ。吉田新田の」
ボクは目を見開いた。オーナーは続けて神社について語りだす。
「その昔、吉田勘兵衛ってやつがいてな、この辺り一帯を田んぼにするって言うんで、大工事を始めたんだよ」
「学校で習ったろ、吉田新田って」
ボクはS先輩に頷いて焼酎を飲んだ。さっきまで味がしなかったのに、今はしっかりと苦みが舌に届いて、とても飲んでいられなかった。
「工事は予定より長引いて難航を極めた。もともと海だった場所を田んぼにするんだから、そりゃあ大変だ。雨で増水したら堤防が崩れて全部パーになる。一旦は完成しても、豪雨の度に堰が崩れて、もうどうしようもなくなった。そんな時に、だ」
横の先輩をのぞくと、Aの肩に寄り掛かるようにして眠っていた。明日も朝早くからバイトがあるらしく、力の抜けて安らかな寝顔だった。
「お三という女が海に飛び込んだんだ。勘兵衛とは昔からの知り合いで、埋め立て工事が難渋していることも知っていた。彼女は海の荒れる雨の日、白装束に身を包んで自ら身を投げた。すると、難航だった工事は嘘のように進んで、あっという間に完成したんだ」
「身代わりになってくれたんだなあ」
ボクはオーナーの話に耳を傾けながら、いつの日かBと見つけた公園のパネル、今はない川と、そこに架かった橋の名前が描かれていたレリーフを思い出していた。
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