第4話

 木曜日の練習にCが来た。ボクとBがコートの隅でパスをしていると、ひょっこり現れたCが不安そうな顔つきで近づいてくる。

「シューズ、二足持ってない?」

「はあ?」

 話を聞いてみると、大学から直行で体育館にやってきたCは、家にバレーシューズを忘れてきたというのだ。今から家に帰るとなると、戻ってくる頃には練習が終わってしまう。そのため、どうにかして代わりになるシューズが欲しいのだと、焦りと不安の混じった表情でそう説明していた。

「体育倉庫に予備のシューズ、入ってないかなあ」

「探せばあるんじゃない?ほら、むかしAがシューズを忘れて、体育倉庫にあった女子の運動靴履いて試合に出たことがあっただろう?」

「女バスのバッシュか。確かにそんなこともあったっけ」

「紐がピンク色のね」

 こういう昔の出来事を、Bはよく覚えていた。彼の写真フォルダには、中学時代のボクらの想い出が残さず収められている。几帳面というか、過去を大事にしているのだ。

 中学以来の体育倉庫はいつも通り荒れ果てていた。授業で使う用具類が壁に寄せられ、皮の剥がれたバスケットボールが冷蔵庫の下に転がっていた。

「この辺りにあったはずだけど」

 戸棚を探っていたBは、トロフィーや賞状の飾ってある上段の方まで手を伸ばし、何とかシューズを見つけ出そうと奮闘している。バスケ部のロッカーをひとつひとつ開けて、ユニフォームや消臭剤に紛れてバッシュがないか確認していたボクは、最後のロッカーを見終えると大きく息をついた。

「捨てられたんだよ。きっと」

「こんなに汚いのに掃除なんてするかなあ」

「あとは、誰かがパクったとか」

 職員室に行ったCは、今ごろ顔見知りの体育教師に事情を話し、サイズの合うシューズを貸してもらっているのだろうか。

「あそこはまだ探してないだろう?」

 Bが指さしたのは、戸棚とボールカゴに挟まれて死角になっている壁の隅だった。足場がないためマットに上らないと底の方が見えない。ボクはマットにうつ伏せになり、目を凝らして闇の中を探した。

「なにもない」

「やっぱり」

 頭を上げかけたその時、戸棚と壁のわずかな隙間に、カードのような一枚の紙が引っかかていることに気がつく。腕を床につくギリギリまで伸ばし、何とか指の先に挟んで持ち上げると、くしゃくしゃになった便箋が埃を被って畳まれていた。

「拾ったの?」

「ああ」

 便箋を開くと、そこには青いボールペンで書かれた丸っこい文字が並ばれていた。


 将来はフルート奏者になりたい

 ピアノの先生が夢だったけど、もういい

 授業が終わるといつも音楽室へ走ります

 空は真っ赤な終末期、宇宙人が襲来してきそうな黄昏時

 サッカー部の掛け声が遠くに聞こえる

 音楽室はいつも閉まっていて、部長が来るまでその場で待ちます

 被服室の前にグランドピアノ

 わたしは座ってピアノを弾く

 名前はわからないと思うので書きません

 わたしはいつもここでピアノを弾いています

 多分ずっと


「なんじゃあこりゃ」

 Bは笑って紙を投げた。思春期のポエムをあまり好まないようだ。ボクは丸まった便箋を拾い上げて散り散りに破いた。ぎょっとして目をみはるB。

「なにも、そこまでしなくても」

「見られたくないだろう。過去のものなんて」

 その日の練習はいつにも増してハードだった。人数が少なかったこともあるけれど、Cが来たことによってクラブの雰囲気が一変したというか、いつもの和やかな感じが一切なく、試合中も怒号のような掛け声が多くてひやひやした。Cはボクらの代で一番レシーブが上手く、大学のサークルでも代表を務めるほど、その腕に自信を持っていた。相手がスパイクを打つ瞬間の、腕の動きを見てからポジショニングするまでのスピードが段違いなのだ。


 九時前に練習が終わり、Bが車を出せるというので行きつけのスーパー銭湯に行くことになった。Bは高校卒業と同時に免許を取っていたけれど、ボクもCも未だに免許を取っていなかったから、立ち寄ったガソスタでBにガソリン代を払った。

「取った方がいいのに」

「そんなこと、はなからわかってるよ」

「じゃあ、どうして取らないの?」

 ボクはミラー越しに助手席のCを見た。彼は首をもたげて安らかに眠っている。練習の疲れが乱れた前髪に現れていた。

「面倒くさい。それだけだ」

 車は大通り抜けて坂道へ入っていた。細い路地をくねくねと曲がるBのハンドルさばきは、傍から見ても上手いと感心できるものだった。

「遠くへ行ってみたいと思わない?」

「思うさ。思うけど我慢する」

 Bは可笑しそうに笑った。

「移動手段はなにも、車だけじゃない。電車だって、バスだって、飛行機だってある。歩きでもいい。子どもの頃からそうして来たじゃないか」

「でもさ」

 信号が青に変わると、車内に充満していた空気が押し流される。

「夜中に突然目が覚めて、その後なかなか寝付けない時とか、あったりしない?」

 ボクはあえて答えなかった。若干の間が夜風に吹かれる。

「そういう時は、大抵お腹が空いている。だから眠れないんだ。近くのラーメン屋はもう閉まっているし、空いているのは駅前のチェーン店と、二号線沿いの有名店。いつも行列ができているところね。さあ、どっちに行く?」

「もちろんチェーン店だ」

 角を曲がると、スーパー銭湯の建物が見えてくる。Cを起こし、駐車券を切って中へ進んだ。


 平日ということもあって、人は少なかった。身体を洗い、浴槽の大きい内湯に入ってから屋外へ出た。外の方が好評なようで、畳式の寝湯は全て埋まっていた。

「なんだか、すごく久しぶりな感じがするな」

 ボクはCを見ながらそう言った。

「合宿の時、三人で入らなかった?」

「あれはAだったよ。CとAとオレの三人」

「オレは北海道に帰ってたんだ」

 照れくさそうに笑うBは、へそから下が真っ赤になっている。

「小学校の修学旅行でさ」

 ボクは岩に両手をついてのけぞる。開いた屋根から真っ白な月と、まばらな星々が広がっていた。

「クラスの男子で女子風呂を覗こうってことになったんだよ。繋がりは忘れたけど、とにかく旅館が露天だったから、仕切りの向こう側が女湯なんだ」

「バカなことするね」

「部屋に集まって作戦を立てたんだ。土台役、見張り役をどうするかとか、誰が先陣を切るのかとか、結構綿密に話し合って、ついに風呂の時間になった」

「あの時はみんな興奮して、柄にもなくテキパキ動いていたなあ」

 同じクラスだったCがたまらず苦笑をもらす。

「三つのグループに分かれていて、最初に入るグループがオレのところだったんだ。神妙な顔つきで浴場に入って、みんなして黙って身体を洗って、さあいよいよって時に、隣が静かなことに気がついた」

「女湯に誰もいなかったってことね」

「そうだ。男子の風呂は順番が一番最後だったってわけさ。オレたちは静かに風呂から出て、女子部屋のある二階にこそこそ上がった」

「どうして?」

「風呂上がりの女子を見るためさ。覗きはできなかったけど、どんな服着て寝るかぐらいは見ても悪くないだろうと思ってね」

「尊敬するよ。いろいろとね」

 呆れた表情で笑うBの背後で、小さく虫の鳴く声がした。

 近くの食事処で夕食を済ませ、カラオケに行くか悩んだ末に帰ろうと結論づいた頃には、もう日付が変わっていた。眠気覚ましにガムを買いたいとコンビニに寄り、Bを待つ間に昔話に花が咲いたボクとCは、小学校の同級生にどんな人がいたか、ひとしきり語り合っていた。

「あの子、覚えている?」

 それはCの口から突然出てきた。

「そんな子もいたな」

「オレは同じクラスになったことないけど、転校生だからちょっと話題になったよね」

「どんな?」

「いやだから、県外から来た子だって」

「ああ、そう」

 Bが戻ってきた。自分用の板ガムとボクらのためにスナック菓子を買ってきてくれた。

「誰の話してるの?」

「アイツだよ、三組にいた」

「ああ、あの頭のいい子ね」

 同じクラスだったBはすぐに想い出したのか、フルネームをすらりと述べた。

「大人しい子だったよね。人と喋っているところなんか、ほとんど見たことない」

「ピリッとした感じの子だよね。声もあんまり思い出せないもん」

 車が動き出すと、話題は別の生徒に移っていった。東京の中学に進学した、サッカーの上手な子。ボクはBとCが繰り出す懐かしい思い出に口を挟まず、ただ流れるような深夜の街並みに放心したように目を置いていた。

 深夜二時に家の前まで送ってもらった後、コンタクトを外さすに床に就いた。


 一枚の絵がある。平塚美術館に行った時に見たやつだ。大きな額縁に三角や四角、大小様々な形をした物体が散らばり重なって、大きなキャンバスに意味ありげに映し出されていた。

 右側の上に見えるのは大きな球体だ。灰色の内側に黒い縦線が入っている。太陽フレアのようなモヤモヤが黄色く周りを囲って、みたらし団子のようにも見える。

その下に太い線が一本、垂直に引かれていた。黒い線の下には藍色のカーテンが、刷毛で塗られたようにムラなく下まで伸びている。くねくねと波打った布の、ネイビーな色合いが激しい雨の日を思わせる。

 左側の大部分を占めるのは三角と丸を組み合わせた大きな図形。上が球体で下が三角形。人形のようにも見える。ピンク色の頭部と、腰の広い赤色が可愛らしく映っている。

 背景はスカイブルー。澄んだ空の色。柔らかな色彩をバックに、力強く濃い色の図形が方々に散らばっていた。

 抽象画というのは元来こういうものだ。何が描かれているかは作った人にしかわからない。鑑賞者は目の前に置かれた作品をただ、見るだけ。小さく隅に書かれた題名も、作者の名前も、作品の説明も、まるで目にとめない。一心にそこに描かれているものと、自分を照らし合わせて夢中になる。空想にふける。キャンバスの中へ吸い込まれていく。

ハッと我に返り、隣の作品に目を移しかける直前に、鑑賞者は思わずこうこぼす。

「やっぱり抽象画はいいな」

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