第3話

 朝五時四十分、アラームが鳴る。松田聖子のスウィートメモリーは、まだ薄暗い外の様子と溶け合うようにして、冷たい室内に流れ落ちる。電気を点けるまでもなく、ボクは部屋を右往左往して、やっと床の隅からソックスの片方を見つけると、ぼやけた視界と闘いながら足を入れていく。目の前の椅子にかかったジャンパーに袖を通し、机に散らばった筆記用具、財布、ノート、イヤホン、それからベッド上の携帯をウエストポーチに入れて外へ出る。

 朝の通りはいつにもまして閑散としている。今日が土曜日ということもあるのだろうけど、裏通りもゴミ収集車やトラックの類がほとんどで、いつも見かけるオレンジ色のハスラーも今日は見かけない。穏やかな休日だ。ガソスタの隣にある自販機は他よりも二十円くらい値段が安いから、今日のような心地の良い静かな一日には必ず寄るようにしている。

 コーヒーを持って事務所へ。弁当屋だけど、二階が法律事務所だからみんな事務所と読んでいる。鍵を差しシャッターを上げて中へ入ると、油の溜まった不思議な匂いと、温かい空気が外へ飛び出していく。カウンターを抜けて控室。電気のスイッチを入れると部屋中が一気に活気づく。店にはボクしかいないのに、カウンターからオーナーのハキハキとした挨拶が聞こえてきそうだ。

 着替えを済ませたらすぐ掃除にかかる。店内はあまり広くないけど、汚れの溜まりやすい隅の方を重点的にホウキで掃いていく。揚げカスの他に、プラゴミや輪ゴム、一円玉が落ちていることもよくある。一箇所にまとめてちり取りへ。新しいゴミ袋をセットして古いのを店の外へ持ち出す。

 地下鉄の駅がすぐそばにあるから、事務所の前は休日でも人通りが多い。みんな吸い込まれるように改札へ消えていく。ボクは通行人の邪魔にならないように、道に落ちた吸い殻やペットボトルを袋に入れていく。本当に都会はゴミが多い。植え込みに落ちたプラカップを取っていると、後ろから出勤してきたオーナーとパートのおばさんが声をかけてくる。―お早う ―おはようございます ―朝から頑張ってるねぇ ―ええ、まあ ―毎日早く起きて偉いねえ ―一応、仕事なんで ―それじゃ、がんばってね 手を振りながら事務所へ消えていく。

 六時半になると軽バンがやってくる。米と野菜をどっさり積んで店の前に停まると、運転手のおっちゃんと一緒に事務所へ運び込む。オーナーもパートも女性だから、力仕事はどうしても男手が必要になる。二十キロの米袋八つ。荷台で運んでも、終える頃には冬でも首筋に汗が浮かぶ。今日中に使う分と保存しておく分とでわけることも、ボクに任せられた重要な仕事だった。

 その間に、パートの女性たちは調理場で唐揚げをつくる。生姜とニンニクの入った醤油ベースのタレに、鶏肉をたっぷりと浸して片栗粉で揚げていく。カラカラと油の跳ねる音が調理場いっぱいに響き、食糧庫で作業するボクの鼻に揚げ物のこうばしい香りが流れてくる。

 七時に店頭に弁当を並べる。平台を設置して、揚げたての唐揚げ、とんかつ、ハンバーグ弁当を見栄えよく隅に積んでいく。平日は出勤ラッシュと被るこの時間が勝負なのだけれど、今日は休日だからいつもよりゆっくり並べられる。ボクはオーナーから受け取ったコロッケとアジフライをショーケースへ入れていく。カリカリと、揚げたての衣が湯気を立ててしまわれていく。

 お客さんの多い平日は、ボクもカウンターに立って接客をするのだけれど、今日は休日なので別の仕事。調理場に行ってプラ容器を並べたり、付け合わせのポテサラを詰めたりする。それが済むと待機。控室へ戻り、椅子に座ってヤフーニュースのコメントを見るともなしに眺める。野党党首の不倫、芸人の提訴取り下げ、闇バイトに走る若者、大谷翔平のホームラン……

 八時半ごろ、オーナーが緑茶と弁当を持ってきて控室にやってくる。―今日はもう上がっていいよ 三角巾を畳んで優しくほほ笑みかけてくる。―ありがとうございます、お先に失礼します 弁当をビニール袋に包んで退勤。帰りはどこへも寄らず、一直線に家へ向かう。早朝には見られなかった陽の光が、オフィスビルの上からまぶしく振り注ぐ。


 家に着くと、まず真っ先に脱衣所に向かってシャワーを浴びる。着ていたTシャツと、二三日前の衣服を入れた洗濯機を回して、入念にヒゲを剃る。ドライヤーで髪を乾かしながら眉毛を整え、鼻毛を抜き、伸びた爪を切っていく。

 それらが済むと部屋に戻って朝刊を読む。一面には、大抵ろくなことが書かれていないから、連載小説と文化欄、そして新刊広告を順番に読んでいく。たまに政治欄や、経済なんかに目を通すこともあるけど、難しいから途中でよしてしまう。冷蔵庫から飲みかけの麦茶を持ってきて、ごくごくと三分の二ほど喉に流し込む。

 十時くらいに早めの昼食にする。朝を抜いて仕事に行くから、お腹が大分減っている。賄いの唐揚げ弁当とおにぎり、そして父親の置いていった菓子パンを食べる。飲み物はミルクティー。食事に合う合わない関係なく、好きだから飲む。子供の頃からの習慣だ。

 昼食を食べながらTVerで昨晩のバラエティを見る。別に、バラエティじゃなくてもいい。アニメでもドラマでもニュースでも何でもいい。とにかく食べていることを考えないようにできるならそれでいい。意識すると、すぐに満腹になってしまうから。ネトフリ、アベマ、ユーネクスト、アマプラ、ユーチューブ、どれも人並み以上に見ているが、これといって感動したり、声を上げて笑ったりすることはない。黙食。まあ、ひとりだから当たり前か。この前見たデカプリオの映画、撮影スケールは大きかったかけど、内容はあんまり面白くなかったな。

 食べ終えると昼寝をする。アラームはかけない。ベッドに横になってゴロゴロしていると、十分くらいで睡魔が襲ってきて気がつくと眠っている。別に、この後予定があるわけではないから、明日の朝まで寝続けても構わないのだけど、流石にそれは一日を無駄にしていると感じられてなのか、決まって一時ごろに目を覚ます。


 眠りの中でボクはいつも夢を見た。人間は一度の睡眠で三回夢を見ると言われているけど、ボクはその最初と最後だけをいつも鮮明に覚えている。どうしてなのか自分でもよくわからない。とにかく物心ついた時から①と③だけは手に取るようにわかるのだった。

 今日見た夢は①が学校で、③が米軍基地の夢だった。学校でAとBが喋っている。ボクは近づいて彼らの話に加わろうとする。すると誰かが(男の声だったと思う)ボクの腕を勢いよく引っ張る。ボクは誰かに引っ張られながら風に飲まれたように猛スピードで駆けていく。その間、移り変わる景色を眺めている。見慣れた近所の風景が、通っていた中学校に変わり、路地を抜け商店街へ。店主のうるさい鮮魚店、青臭い八百屋、よく遊んだ友だちのマンション、一度だけ行ったことのある汚いカフェ、桜並木の向こうにある銭湯。

 そして②がはじまる。ここでいつも忘れてしまう。何かが起きたということは、空気の流れみたいなモヤモヤでわかるのだけれど、その具体的な映像は、頭の中に突然穴が開いたように、目覚める頃にはすっかり抜け落ちてしまっているのだ。

 そして唐突に③がはじまる。ボクは広い野原の真ん中に立っている。伸びきった雑草はボクの腰を隠し、右側に緩やかに曲がった丘の斜面も真みどり。西に沈みつつある太陽が、水色の空を紫色に照らして、冷たい風が波のように葉の群れを震わせる。

 遠くの丘の上に米軍基地のゲートがかすかに見える。銀色の金網が西日に輝いているのだ。ボクは走り出そうとして、隣の存在に気がつく。それは女性の影なのだけれど、形も姿もハッキリしない。色もない。声もない。けれど、ただそこに女性がいるということだけは確かなのだ。

 ボクはその女性を見つめてたまらなく悲しくなる。いや、悲しいというより懐かしいのほうが正確か。ノスタルジーという言葉には、日本語にはない胸の詰まるような雰囲気が漂っているけど、その感覚に近いかもしれない。例えるなら昔履いていた上履きが、大人になってから靴箱の中からひょいと滑り落ちて、表面の汚れや縫い目のほつれ、今と半分も違うその大きさに、しばらく気が抜けてしまったようにその場にうずくまって眺めてしまうような、そんな気持ち。

 目を覚ますと、大抵脇がぐっしょりと濡れている。怖い夢を見たわけではないのに、首すじから薄く汗が滲み出ていて、ひどい時にはシャワーを浴びることもある。今日はそこまででもないから、ピントを合わせるように、天井のシミを見つめながら二三度ゆっくり瞬きをして時刻を確認する。一時十三分。いつもと変わらない。音楽アプリを開いてLucky Kilimanjaroの「初恋」をまるまる一曲流す。イヤホンを差していないから、振動が部屋いっぱいに響いて変な気分。そのまま目を閉じても、再び夢の中に潜り込むことはない。

 ベッドから出て机に向かうと、もう何もする気になれなかった。やることを全て終えてしまったかのような、けれど決して、一日のノルマは達成していないから、渋々Wordを開いて言葉が絞り出てくるのを待つ。何十分でも、何時間でも、待つ。冷蔵庫からストックのレモネードを取り出して、喉も乾いていないのに飲み干してしまう。もちろん、味なんてしないから、喉を通ったレモネードは胃の中でぐるぐる回りだす。

 カーテンから西日が差し込む頃になると、身体がソワソワする。散歩に出かける合図だ。作業はほとんど進んでいないけれど、身体を思い切り動かしてみたいという衝動が、身震いのようにボクを襲う。散歩の時間は待ってはくれない。ハンガーからウィンブレを取って袖を通し、洗濯物の中から靴下を探していると携帯が鳴る。が、取る気になれなかった。

 きっとオーナーからの電話だ。明日のパートが急遽休むことになったから、代わりに出てくれないかという頼みに違いない。以前もこういうことがあった。ボクが久しぶりにノルマの枚数を書き終えて、柄にもなくハーゲンダッツのストロベリーを食べようと専用のスプーンを差しこんだ時、その電話が掛かってきたのだ。ボクは着信音が鳴り止むまでうつむき、八度目の呼び出しでようやく着信が終わると、ホッと安心して靴下を右から履いていった。

 が、再び携帯が鳴るのである。鬱陶しくてたまらない。左足の先に靴下を引っ掛けたまま仕方なくスワイプすると、耳元でBの声が響いた。


 いったい、こんな時間から何をしようと言うのだろう。夜の八時を過ぎた横浜の住宅街は、商店の密集する大通り沿いを除いてほとんどが暗く静まり返っていた。首都高の走る高架下に砂利を敷いた公園がひっそりと広がり、電灯に照らされたBの姿が遠くからでもわかった。

「寒くないのかよ」

「うん」

 Bは半そでだった。自転車のカゴからバレーボールを取り出して、軽いタッチでボクに投げる。オーバーハンドパス。すかさず額に三角形を作り、オーバーでBに返す。

「懐かしいな。高校の時はね、よくひとりでこうしてたんだよ。チームメイトがみんな遠いから、ひとりでボールを触るだけだけど、それでも結構練習になるんだ」

「ポジションは?」

「三年の時はレフトでエース。みんな高校から始めたから、消去法みたいな感じでオレに決まったんだ」

 Bはボクのボールを正確に返してくる。しかも軽やかなタッチで。手首でボールの威力を吸収させ、押し出すように素早くボールを放つ。見ていて清々しい。当たり前だ。彼は中学の三年間スパイクを打たせてもらえなかったのだ。元々身長が低く、コーチの助言で後衛の守備しかやらせてもらえなかった。ボクやAがスパイク練習をしている時も、彼はずっと送られてきたボールをセッターに返すだけで、決して助走に入ることはなかった。

「引退試合は進学校にストレート負け。最後はオレのスパイクミス。悔しかったなあ。点数的には全然惜しくなかったけど、あと少しで相手のブロックを攻略できるって、そう感じたラストだったな」

 照明と被って返球が横にそれた。Bは身体を斜めに傾けながら、ボクの雑なトスにスパイクで応じた。「クリスマスカップには出るの?」率直な疑問がBの口からこぼれた。

「わからない。予定が空いていれば」

「予定なんてないでしょ」

「できるかもしれないだろう。だから空けとくのさ」

「彼女なんて一生つくらないって、あんなに言ってたのに?」

「あ」

 Bのスパイクがボクの右手首に当たり、はじかれたボールは大きく上がって十メートル先の植え込みに落ちた。「ごめん」低木の集まった隅の方へ駆けより、腰を屈めてボールを探す。が、周りに照明がないため中々見つからない。チクチクする枝の中に腕を入れて、手探りで確かめるが、どの箇所に腕を入れてもボールは出てこなかった。

「あった」

 後方を探していたBが生け垣の中からボールを見つけ出していた。金木犀の並んだ道路沿いの柵の影に、雑草に紛れて転がっていたのだそうだ。

「危なかったよ。道路に落ちてたらどうなるかわからなかった」

「あんなもの、昔からあったか?」

 ホッとして植え込みから離れるBの背後に、大きなプレートが建てられていることに気がついて、指を差しながらその看板に近づいていった。

「随分大きいね」

 それは巨大なプレートだった。硬い金属の板の上に、昔の地図がレリーフのように浮き上がって刻み込まれていた。右上に太い銀文字で「橋の詩」と記されていた。


 ほうらい橋

 -

 やまぶき橋

 -

 よこはま橋

 -

 ばんどう橋


「ばんどう橋って、ここのことじゃないか」

 Bはレリーフに刻まれた文字を指さす。ボクらの立つ公園の名は「ばんどう橋公園」だ。

「となりのよこはま橋って言うのは商店街のことだろ?」

「そうみたいだね」

 小学校の通学路だった「よこはま橋商店街」は、下町の情緒あふれる古いアーケード通りで、最近はアジア系の店が多い。その隣の「やまぶき橋」も「ほうらい橋」も、橋の存在こそ知らないが、どれも一度は聞いたことのある地元の名前に違いなかった。


 ―橋の詩


 この公園は昔、一本の運河でした。昔をしのぶ多くの人たちから、かつての運河にかかっていた橋の名板を保存し、公園内への設置を望む声がありました。

 そこで、これらの名板を含む記念レリーフとして設置することにいたしました。

 こうした歴史的、文化的遺産を身近なものとして残し、人間性あふれる街づくりのシンボルとしたいと思います。

 十月 三十一日 横浜市長


「なるほど、そういうことか」

 ボクは隣のBを見た。彼は首を傾げてきょとんとしていた。まるで意味がわからないといった風に。

「この公園は昔は川だった。ちょうど今オレらの立っているところが川で、道路を隔てた向こうの地域が陸地、そしてこの公園と陸地を結ぶ交差点が橋だったんだよ」

「じゃあ、ばんどう橋とかよこはま橋って地名は、昔そこに橋があったからそう呼ばれるようになったってこと?」

「そうだ。そうだよ。ここは昔川が流れていたんだ。ここから駅まで真っすぐ地下鉄が走っているけど、それは川の道だったんだよ」

 レリーフをじっくり眺めるボクの背後で、Bはボールをいじりだした。こういうものにあまり興味が湧かないようだ。ボクはスマホのライトを片手に持ち、プレートに書かれた地図を照らしながら読んだ。塗装が剥がれていたり、文字が消えてなくなっているところも多くあったけれど、レリーフには現在の町の名前が正確に記され、町を区切る境には必ず川の絵と、橋の絵が描かれていた。

 ボクは家の裏を流れる一本の川のことを思い出していた。散歩の時に並走するあの川だ。上を首都高が走り、水面が真っ黒の不気味な川……

「繋がっていたんだ」

 地図の下の方にもう一つ川があって、それはあの川に違いなかった。何本も橋のかかった中央の川が、左端で二手に分かれ、ボクの近所を流れるあの川に繋がっていたのだ。

「川の町だ」

 振り返ってBを見ると、彼は下を走る地下鉄の音に、静かに耳をすましていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る