第2話

 家から十秒もかからない場所に老夫婦がやっている個人医院があった。レンガ造りの一軒家で、ドアの立て付けが悪く開くとキイキイ音が鳴った。幼い頃のボクは祖母に連れられてよくそこを訪れた。家の周りに病院は数多くあったけど、小児科専門のところはここしかなかったから、ボクは予防接種の時期になると必ずこの個人宅のような医院にお世話になるのだった。

 あれは確か小学校二年の冬のことだったと思う。インフルエンザの予防接種のために訪れて、待合室で順番を待っている時、ソファの隣に座っていた祖母が、カバンからチョコレートの包みを取り出してボクの手に載せてくれた。ハーシーのキスチョコだったと思う。

 ボクはそれを、窓を見つめながら食べた。クリスマスの時期ということもあって、窓にはサンタクロースのジェルシールが斜めに貼り付けられていた。隣の机には大きな水槽が置かれ、その中で真っ赤な出目金がのろのろとヒレを動かしていた。

 待合室にはボクと祖母しかいなかった。静まり返った室内には水槽のポンプが絶え間なく動き続けていて、パラパラと窓を打つ雨音が次第に勢いを増していった。

 ボクの名前が呼ばれた。祖母と一緒に部屋へ通されると、八十代くらいのしわくちゃな顔をした医院長が注射器を取り出して、ぷすっと二の腕に針を入れた。痛みはあまり感じなかったと思う。針を抜いた直後に噴き出す血を布で抑え、放心したままのボクの口の中に、突然甘い砂糖の味が広がる。驚いて隣を見ると、チョコレートの包み紙をカバンにしまう祖母の顔が目の前にあった。その瞬間、ボクの目から涙がこぼれた。

 今は病院も、祖母もいない。病院の敷地には大きなマンションが建てられている。ガレージにおしゃれな間接照明のある、ひとり暮らしのサラリーマンが住むような平凡な住居になってしまった。ボクはそこを通るたびに、ある言葉にできない悲しみを覚える。それはコツコツと蓄えていたものが、突然つぎつぎと消えて無くなってしまうような、そんなはかなく脆い感情に似ていた。

 あの時、なぜボクは涙を流したのか。なぜ強い不安に襲われ祖母の顔を見たのか。今でもそのところはよくわからないのだけれど、その鮮やかな一場面はボクの幼少期の大切な想い出として、今も心の中に大事にしまってある。


 目を覚ますと、すでに明るかった。携帯を見ると十一時四十三分。首がとても痛い。昨夜の練習が身体に響いているのだろう。テーブルに散らばったクリームパンとバナナを部屋へ持っていき、Cymbalsの「MyBraveFace」を聴きながら早めの昼食にした。クリームパンは甘すぎて、反対にバナナはまだ食べるには早かった。

 シャワーを浴びて部屋へ戻ると執筆の時間だった。あまり気が進まないが途中の原稿を二三枚、走り書きのようなかたちで最後の行まで埋めると、冷蔵庫からレモネードを出してコップの半分くらいまで飲んだ。

 穏やかな金曜の午後だった。今頃、Cは大学の講義に出席しているはずだろうし、Bは自動車整備工場で汗を流しているだろう。繁華街のBARに勤めているAはもうそろそろ起きてくる時間だ。一日は短く時間は速い。その中でボクだけがのろのろと過去に取り残されていて、一向にみんなに追いつかない。

 明るい日差しがベランダをオレンジ色に染めあげる頃、ボクはジャンパーをはおって普段通り散歩へ出かけた。橋を渡って川沿いを教習所まで進み、坂の頂上で沈んでいく太陽をしばらく眺めていた。高い場所はどうしてこうも風が強いのだろう。車が通り過ぎるたびにフードがパタパタとあおられて、筋肉痛の残る首筋はじんじんと痛んだ。

 泣きたくなった。なぜだかわからないけど、真っ赤に染まった横浜の町を前にして、声を挙げて哀願したくなった。なにを哀しみ、願うのかはわからなかったけど、一度叫んでしまえば後はするすると言葉があふれ、息を吸う頃には心が晴れやかになっているような気がした。懺悔、悔恨、同情。いや、そういうもので決してない。何かとてつもない苦しみから逃れさせてくれる。そんな方法をしばらく考えていた。

 そして考えるのをやめた。ボクは声が出なかったのだ。全て時間の無駄だった。米軍基地のゲートを横切って、ぐんぐん宅地の方へ進んでいく。

 二日前のように、何気なくコンビニへ立ち寄ると、また彼女がレジに立っていた。ショーケースから水を取って持っていくと、彼女は笑ってシールを貼り

「いつもここへ来るの?」

「まあね」

「大学は」

「行ってない」

「そっか」

 ボクは店を出た。外は陽が落ちて、葉のなくなった街路樹が虚しく空へ伸びていた。まっすぐ中学校のほうまで歩いて、急な階段を下って家へ帰った。


 彼女は転校生だった。たしか北陸の、海沿いの田舎からやってきた子だった。小学生のボクにはそんなことよりも、三年から転入してくることの方が珍しくて、初めて会う見知らぬ顔の少女に、当時はとても驚いたような気がする。

 それから一か月後に席替えがあって、ボクは彼女の隣の席になった。黒板から見て一番後ろの窓側の席だったと思う。晴れた日は丘の上が見えて、木々の生い茂った公園が山のように空へ伸びていた。

 ボクは忘れものの常習犯だったから、しょっちゅう彼女と席をくっ付けて教科書を見せてもらっていた。当時のボクは忘れることにみじんも恥ずかしさを感じず、担任もボクが当たり前のように忘れ物をすることに呆れ、授業を中断して叱りつけてくることもなかった。そして彼女も、頻繁に忘れ物をするボクに迷惑そうな素振りひとつ見せることはなく、いつも黙って机を寄せ、先生の読む文をペンで優しくなぞってくれた。

 彼女は勉強がとてもよくできた。テストもほとんど満点だった。当時のボクもそれなりに勉強ができたから、月に一度のテストには自信があって、いつもクラスメイトと満点の数で競い合っていた。

 それでも一度だけ、算数の図形のテストでミスをしたことがあった。それは正答率の低い、いわゆる応用問題というやつで、授業で習っていなかったから、わからなくて仕方のないものだった。けれど隣の彼女を覗くと、答案にはしっかり100の文字が赤く記されていて、ボクはとても恥ずかしく、その日はまともに彼女を見ることができなかった。女子に負けたというよりも、彼女に負けたことがたまらなく悔しかった。日ごろ教科書を忘れ、消しゴムを貸してもらい、宿題も見せてもらっていた。加えて勉強もボクよりできる。ボクは彼女に合わす顔がなかった。あの頃のボクは、一丁前にプライドだけは人一倍高かったような気がする。


 家に帰って昼寝をしていると、父親が弁当を買って帰ってきた。ボクはリビングに出て、父親と生姜焼き弁当を食べながら軽く会話した。朝ドラ女優の演技について話したと思う。テレビをつけるとちょうど日本シリーズの最中で、ベイスターズがホークスに三点リードしていた。

 夕食を終えて部屋へ戻ると、もう何もする気になれなかった。パソコンを開いて、浮かんでくる言葉を適当に打ち込むだけの作業は、一時間もすると飽きてしまい、ボクはユーチューブに上がった芸人のゴシップ動画を見、Xに表示される他人の陰口を読み、インスタでアイドルがダンスするだけのストーリーをひと通り流して、表示された時刻を眺めた。

 九時二十三分だった。ボクはジャンパーを引っ掛け、スウェットのポケットにイヤホンを入れて外へ出た。外は夜の冷気に包まれて冬のように空気が新鮮だった。

 なぜ外へでたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、こうして日の落ちた時間に外へ出るのも、なかなか悪くないと思った。皮膚に当たる風の感覚が、昼間よりずいぶん直接的に感じられて、ボクの思考をクリアにさせた。いつも渡る橋も、どこか神秘的にさえ思えて、ボクは街灯にうっすら照らされた川の流れを眺めながら、遠くの繁華街の喧騒に耳を傾けていた。夜の町を滑っていく水の勢いは、流れがわずかに感じられるほど穏やかなもので、きらめく水面が秋刀魚のウロコのように、瞬きのたびに光の具合が違って見えた。

 雨の降ってきそうな土の香りが絶えず鼻の周りに浮遊していた。ボクは横断歩道を渡って坂の方角へ真っ直ぐ進んでいった。目的があったわけではないけれど、足はずんずんと先へ進み、KIRINJIの「SweetSoul」がCメロに入る頃には丘の頂上、風格ある米軍基地のゲートの目の前まで来ていた。

 ゲートを左へ曲がると、ボクは吸い込まれるようにコンビニへ入っていた。相変わらず店内に人の姿はなく、陳列した品物が、一斉にボクを睨むように見つめてくるような気がした。週刊誌にひと通り目を通し、喉も乾いていないのにショーケースからミネラルウォーターを取って持っていくと、夕方と同じように彼女が、またレジに立ってボクを見つめていた。

「もうすぐ」

「え?」

「もうすぐ上がるから。待ってて」

 それは決して、聞き間違えなんかではなかった。ボクは彼女が店から出てくる間、灰皿の前に突っ立って夜の静けさに耐えていた。辺りは静まり返っているのに、内の方からざわざわと喧騒のような胸騒ぎが起こって、その度にボクは不自然な視線を入口へ向けた。彼女の意味深いひと言は、ボクの思考を通常とは別の場所へと追いやっていた。

 十五分ほどして彼女が出てきた。少女っぽい黄色いのニットシャツを着て、白いスカートはひと際目立っていた。

「戻ってくるの、なんとなくわかってた」

「そうか」

 彼女は坂を下らず、住宅の密集する路地の方へと進んでいった。


 彼女について、想い出したことがもうひとつある。正確な時期は忘れてしまったか、ボクが学習塾に通っていた小学校四年生の時だったと思う。

 当時ボクの通っていた学習塾は、横浜駅東口から少し歩いたところにある四階建てのビルディングで、全てのフロアに教室がある大きな塾だった。長期講習をのぞいて、月曜と木曜の六時から九時までが授業時間だったから、ボクは学校が終わるとすぐ家へ帰り、あらかじめ教材を入れてい置いたバックをランドセルと取り換えると、すぐに駅へと走った。家から塾までの距離は、電車と徒歩を合わせてだいたい四十分ほどで、いつもビルに着く頃は始業時間ギリギリだった。

 そ の日はたしか振替休日の月曜日だった。町に出る人の数がいつもより多く、駅前の公園が賑やかだったような気がする。ボクは改札に入らず、正面に見える繁華街の方へと歩いていった。繁華街の外れには、オープンしたばかりのUFOキャッチャー専門店があって、ボクは吸い込まれるように店の中へ入っていった。

 中には真新しいショーケースに入れられたさまざまな景品―放送中のアニメのフィギュア、ふかふかのクマのぬいぐるみ、大きなお菓子の袋、店の隅には幾種ものアーケードゲーム機が並べられ、音を鳴らしながら七色に光っていた。休日ということもあって、店内は若者や子連れでいっぱいだった。

 ボクはポケットから電車賃の硬貨を取り出すと、一番近くの台に一枚入れた。鋭い作動音が鳴り、ボタンが黄色く光る。ボクはアームが景品の真下に来るように見定めて、そっとボタンを放した。アームはするすると間抜けた音を奏でながら降りていき、ウサギの耳の部分に爪を当てただけで元の位置へ帰っていった。

 そ れからボクは、ショーケースの前で操作する利用者を飽きるまで眺めた。ある人は二三回で別の台に移動していき、またある人は、取れるまで何度もあきらめずに挑戦していた。ボクは台に寄り掛かりながら、言葉にできない苦しさ、ある種の焦燥感みたいなものを必死に耐えていた。店内を流れるバックミュージック、明滅する電飾、家族の笑い声。全てがボクを責め立て、追いやるように感じられた。

 六時はとっくに過ぎていた。ボクは店を出て、当てもなく人の流れに沿って歩いた。硬貨を全て使い切ってしまったから、もう電車に乗ることはできなかった。ボクは横浜駅を目指すべきか、それともこのまま家へ引き返すべきか迷っていた。お金を道に落としてしまったと言ったら、祖母はボクに何と言うのだろう。

 しばらく通りを歩いていると店は次第に減っていき、代わりにマンションやアパートが小路沿いに並ぶようになってきた。枝を広げた柳が、道路を隠すようにして植わった先に小さな公園があって、ボクはそこを横切ると時ハッキリと、見覚えのある人影を認めた。

 そこには隣のクラスになった彼女がいた。砂利の敷かれた空地に自転車をひいて、必死にペダルを漕ごうとしていた。砂利道には何度も往復したと思われる線が太く刻まれ、夕暮れの街灯が、懸命な彼女の姿を白く輝かせていた。

 ボクは足早にその場を離れた。公園にいたのは確かに同じ学校の彼女だった。長い髪を後ろに束ね、懸命にペダルを漕ぐ寂しげな姿が目に焼き付いて離れなかった。

 その後、ボクが塾へ行ったかは、今となってはもうどうでもいいことだけど、ボクはあの時の彼女の姿を現在も鮮明に想い出すことができた。なぜなら彼女は、あの時とまったく同じ凛々しさをたたえて、今ボクの隣を悠々と歩いているのだから。


 丘の上は新築の住居が多かった。車が二台、ぎりぎり通れるほどの道路を挟んで、街灯のない細い路地を突き当りまでいくと、手入れのよく届いた花壇が幾つも並ぶ公園に着いた。彼女は車止めの間をするすると進んでいき、太い根を張ったケヤキの下のベンチに、スカートをふわりと持ち上げて座った。

「去年まではね、こんなことになるなんて思いもしなかった」

 コオロギのような甲高い虫の鳴き声が背後の植え込みから響いていた。寝静まった住居に囲まれた公園の異様な冷たさが、ジャンパーの内から次第に身体へとしみ込んできて、ボクはチャックを上まで押し上げた。


 地元の小学校を卒業した後、彼女は東京の中高一貫の女子校に進んだ。都内の一等地に校舎を構えるその学校は、毎年何人もの生徒を難関大学へ進学させ、伝統ある校則を備えながら、今風の少人数教育にも力を入れている、先進的なお嬢様学校だった。

 そこでの六年間はどれも彼女にとってかけがえのない、大切な想い出に違いなかった。彼女は持ち前のリーダーシップを存分に発揮し、中学一年の頃から毎年クラスの学級委員に名乗り出て仕事に励んだ。中三からは生徒会の役員にも立候補した。

 高等部に上がると、彼女はコーラス部の部長に選ばれた。コーラス部は全国大会に何度も出場経験のある強豪で、一年が部長に選ばれることは異例の出来事だった。彼女が生徒間だけでなく教員からも慕われていたのだ。

 高校三年の、文化祭の終わった翌週のこと。彼女は教室で指定校推薦の志望理由書を書き直していた。

 突然、扉が開いて生徒が入ってきた。それは同じコーラス部のM子だった。

「どう、はかどってる?」

 M子も彼女と同じ指定校推薦の志願者だった。コーラス部の副部長で、毎年成績優秀者として表彰される、校内一の優等生だった。

「全然ダメ。何度書き直しても、思った通りのことが書けないの」

 M子がK大学の工学部を志願していることを、彼女は以前から知っていた。K大は国内最高峰の私立大学で、そこの工学部と言ったら間違いなく優秀な学生しかいなかった。そのため毎年学年で一番の者には、K大学の枠がひとつ、特等席のように割り当てられているのだった。

「あまり考えすぎない方がいいわよ。なんだか思いつめた表情しているじゃない」

「ありがとう。来週にはもう治ってるから」

 M子は心配そうにうなずいて教室から出ていくと、彼女は深いため息をもらし、再び志願書に取りかかった。

 彼女は高校一年の頃から、K大学より一つランクの下のR大学を志望していた。それはオープンスクールに行った際に、穏やかな校風が自分に合っていたからだった。都内の外れにあるR大学は、国際学部と教育学部が全国的に有名で、留学生を積極的に受け入れているグローバルなところも、留学経験のある彼女にとっては好ましかった。推薦枠に文学部の一枠が設けられていたことは、彼女にとってR大学に入る絶好のチャンスだったというわけだ。

 その週の終わりに最後の校内選考が行われた。R大の評定には充分足りていたし、出席日数、素行ともに悪くなかったから、彼女は当日でも特段ソワソワせず、普段通り落ち着いて過ごした。授業終わりに進路担当の教員に呼ばれ、空き教室へと促された彼女は、R大学への推薦に漏れたことを知らされて驚愕した。自分の成績なら、まず間違いなく通るだろうと、そう自負していたのに。彼女は他にR大を志願した生徒がいたのか教員に問いただしたが、停年間近の白髪の教員はうつむいて言葉を濁した。M子だ、とその時彼女は悟った。

 なぜM子がR大を志願したのか、彼女にはその理由がわからなかった。M子は一年の時から理系を選択していたし、貴重なK大の枠を譲ることも考えられなかった。そしてなにより、M子は彼女がR大を志願していることを以前から知っていたはずなのに。それなのにどうして……

 評定の足りていた彼女は、R大学への道は絶たれたものの、同レベルのA大学への推薦が決まった。けれど彼女は、最後までM子に真相を聞くことはできなかった。なぜならM子は合格が決まってから、急に彼女に対してよそよそしくなり、廊下ですれ違っても挨拶ひとつ返そうとしなかった。後に後輩から聞いたのだが、M子は中等部の頃から彼女を嫌っていて、陰で悪い噂を流していたのだそうだ。

 また、この不運な出来事に重なるようにして、彼女の家庭に大きなアクシデントが起こった。両親が別居したのだ。詳細はあまり語らなかったけれど、どうやら母親が愛想を尽かして家を出て行ってしまったらしい。

「悪いことは重なるって言うけど、あれって本当ね。わたし、今度のことでつくづくそう感じた。自分が弱っている時は周りが見れなくなる。別に、教訓ってほどのものでもないんだけどね」

 彼女は目を細めて笑っていた。悲しみを無理に押し殺したようなやつれた笑みだった。

「それで、大学は一か月で辞めちゃった。大学って、あんまり楽しいところじゃないのね。わたしがっかりしちゃった。みんなその辺の子たちと変わらないんだもん。無理に笑って、相手の顔色うかがって、ただ学校に来ているだけって感じ」

「大学に行くことに目的なんてないだろう。しいて言うなら就職か」

「うん、そうかもね。でもわたし、そんな子たちを見ているとね、なんだか疲れちゃって。張り合いがなくなったって言うのかな、全てがどうでもよくなっちゃったの。それで、人に会うのが嫌になった」

 それから彼女は家に引きこもり、友人知人からの連絡を絶って日々を過ごした。母親のいなくなった家には、彼女と父、そして父方の祖母がいて、彼女は一日のほどんどを自室か祖母のいるリビングで過ごした。立ち直るきっかけとして始めたコンビニバイトは、先月の頭からシフトを入れたばかりだという。

「今はやりたいことがないから、こうやって一日中アルバイトしているけど、いざ目的を持ったらすぐに始めたい。わたし、行動力だけが取り柄だって、前に中等部の先生に言われたことがあるの」

「女優なんていいんじゃないか。その持ち前のガッツなら、講師や大御所なんかにも物怖じしないだろうし。どの養成所も歓迎してくれるはずだ」

「嫌よ、演技なんか。わたし、嘘なんかつけないもの」

「オレだって苦手だ」

「小説書いてるのに?」

「うん」

 彼女は初めて声をあげて笑った。深夜の公園に響く息づかいは、ふたりを隔てていた過去を取り払うかのように、懐かしい空気を次第に押し広げていった。ボクは隣の彼女を覗く。彼女は静かにほほ笑みながら、終始優しい目を向けていた。


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