ブルースカイと赤レンガ

なしごれん

第1話

 運転免許を取ると言ってからもうかれこれ三か月が経とうとしていた。押しつぶすような熱波は今年も全国で猛威を振るい、日中はもちろん、陽が落ちても一向に涼しくならない横浜の夜は、十月も半ばに差し掛かる頃にようやく冷たい風が吹きはじめるようになって、道行く人々の格好もじょじょに秋めいてきたかと思えば、週末は連日の夏日で、半そでに薄いスウェットをはいていないと、どうにも居心地が悪く、汗だくのまま帰宅してシャワーを浴び、冷たいレモネードを飲みながら夜風に涼むのが心地よいのだが、十時を超えたあたりから急に十二月級の寒さがよみがえって、慌てて冬用の毛布を一枚押し入れが取り出すのだった。

 暑いのも嫌だが寒いのはもっと嫌だった。ボクの周りには寒さに強い人が多くいて、凍てつくような冬の厳しさには重ね着で乗り越えることができるのだが、みんな暑さにはかなわないと言って嘆いている。薄着には限度があるし、肌に浮き出る汗の感触が気持ち悪くてしかたがない。それに比べれば冬の辛さなどさして苦にもならないことで、なんなら一年中寒くったっていいという雪国の過酷さを毛ほども知らない思い上がった意見さえ聞く。

 それでもボクは寒いのがきらいだ。

 十九になってはじめて、ボクは一年に四季などないことを知った。昔の人たちは、サクラやイチョウなどの植物の成長から季節を感じ、俳句や和歌にして趣を感じたみたいだけど、今を生きるボクらにとってそんなものは大昔の話で、さして面白くもないし不便でしょうがない。

 一年は「寒い」と「暑い」のふたつだけだ。

 八月の猛暑を潜り抜けてからボクはそんなことを考えるようになった。夏の暑さも彼岸までと昔の人は言ったが、なるほど、確かに九月に入った辺りからスッキリするような、心地の良い風が時おり汗を拭って、けれど決して秋になど入っていない、夏の延長のような毎日が続いていた。

「寒い」と「暑い」このふたつの言葉は決して夏と冬に限定して使うものではない。ある人が外に出て、まだ春なのにジリジリと日差しが出ていて暑いなぁとか、先週までは蒸し暑かったのに、今日は秋口らしく、朝から冷たい風が吹いて冷えるとか。では人々は、なにを基準に「暑い」とか「寒い」を決めているのだろうか。これは「感覚」という他ない。平熱が人によってバラバラであるのと同じように、「寒い」と「暑い」の感覚も人それぞれで、二十三度が寒い人もいれば、十度台でも暑いと感じる人だっているのだ。

 けれどボクたちが人類というひとつの括りである以上、基本的に温度の基準は統一されていて、四十度を超えれば誰だって暑いし、氷点下を下回れば薄着一枚で生活なんてできない。

 とすると、明らかに気温の高い日の多い七月や八月は「夏」で、雪の降る一月や二月は「冬」になる。そして残った三、四、五、六、九、十、十一、十二は「夏」でも「冬」でもない「よくわからない季節」になるのだ。


 十月下旬、「よくわからない季節」毎年この時期になると、ボクは近くの丘の上へ散歩に出かける。別に恒例行事というわけではない。去年から始めたことだ。日中家でじっとしているのも身体に悪いから、取りあえず早歩きで行けるところまで行ってみようと思い立って、米軍基地のゲートが見える坂の上まで来て、ぐるっと引き返してくるまでがちょうど一時間。以来こうして風が冷たくなると、履きなれたスポーツシューズに着古しの赤いウィンブレを被って、ネズミのように外へ出ていくのだった。

 家の前のマンション群を抜けて小さな橋を渡る。都会らしい汚い川が下を流れ、頭上には首都高が一直線に走っている。水面は光を差さないためうす暗く汚れ、両側のコンクリートが巨大なプールのように、首都高と同じ方向へずっと伸びていた。欄干には鳩のフンがびっしり。歩いていていい心地がしない。

 川に並ぶかたちでボクは目的地まで足早に進んだ。川がちょうど名前を変えて分岐する地点に坂道はあって、そこまでは歩いて二十分もかからない。ボクはポケットからスマホを取り出すと、プレイリストからNujabesの「Luv(sic)」を押して歩を速めた。心地よいビートが過ぎていく建物を次々と揺らし、流れるように繰り出す歌詞が、ボクの鼓動を速めていった。この辺りは横浜でも特に古い住居が多く残り、木造にトタン、モルタルづくりのアパートを改装したもの、コインランドリーに老舗の酒屋、古い看板を掲げたコーポなどが狭い区画にひしめき合っていた。


 二日前のことである。昼寝を終えてパソコンからWordを開き、浮かんできた短い言葉を書いたり消したりと繰り返していると、充電中のスマホがShe is summerの「WATER SLIDER」をけたたましく鳴らして点滅する。

「もしもし」

「元気してるか」

「ぼちぼち」

「ああ、そう」

 電話主は低く笑ってせき込んだ。

「なんだよ。急用か?」

「まあね。クリスマスカップに出てみないか」

 顔をしかめるが、相手には気づかれていない。

「いいよ、オレは……もうしばらくやってないし」

「人が足りないんだ。クラブから四チーム出すことになっているんだけど、俺のチームがあと三人足りないんだ」

「人がいないなら出なきゃいい」冷静にそう言い捨てて空あくびを洩らした。

「それがそうもいかないんだよ。なあ、いいだろう。ミドルなんて、オマエくらいしか頼める人がいないんだから」

「オレ以外の二人はどうする」

「BとCを誘おうと思ってる。Bはほぼ確で来るみたいだけど、Cは大学が忙しいから、まだわからないって」

「他のメンバーは?」

「俺とS先輩とその彼女。Eさんは秋田の名門校出身らしいから守備はバッチリだ」

 そこまで話を聞くと、ボクは耳からスマホをはなし、スピーカーに切り替えてルームチェアーに深くもたれ、真っ白な天井を見上げて目をつむる。暗闇の底からチームメイトの掛け声、体育館のひかり、汗の匂い、そして一球のバレーボールが太陽のように白く浮かび上がり、ポーンと床に跳ねて転がっていった。

「取りあえず、今週の木曜の練習に来てくれよ。出るか出ないかは置いといて。オマエだって久しぶりにS先輩に会いたいだろ」

「ああ」乗り気ではないが、かろうじて返事を引きずり出して電話を切った。


 ボクにはひとつ気に掛かっていることがあった。原稿の締め切り日である。公募の締め切り日は十二月十日で、クリスマスカップは例年十二月二十五日と決まっていた。もしもボクがクリスマスカップに出場することになって、練習の毎日を送るようになれば、それだけ原稿に向き合う時間も少なくなって、作品が疎かになってしまうのではないか。ボクはいい作品が出来上がるとは微塵も思っていないけど、それでも締め切りのギリギリまで校正したいし案だって練りたい。出来る限りを尽くしたいのだ。クリスマスカップに出ることは、それだけボクの時間を奪うことになる。ルームチェアーにもたれながら、ボクは白紙の原稿にため息を吹きかけた。


 人家の細い路地を抜けると分岐した川が見えてくる。こっちの川は頭上をさえぎるものがなく、西日を浴びた水面がキラキラと波打って美しい。ほとりには大きな柳が植えられ、隣の道路に自動車が過ぎていく。この川を見下ろすように、坂は丘の頂上まで続いていて、ちょうど道の尽きる辺りに米軍基地のゲートが威厳に満ちた態度で構えられていた。

 ボクは坂を上り始めた。さあここからだと軽く意気込んで、硬いアスファルトの敷き詰められた舗装道を一歩一歩上がっていった。坂は車道と歩道の境がなく、白線も途中でとぎれているため、前や後ろからやってくる車に気をつけて上がらなければならなかった。首を垂れた雑草が何本も伸びている植え込みの隅に身を寄せて、猛スピードで下りてくるオートバイのエンジン音に顔をしかめながら、前へ前へとゆっくり足を進めていった。

 半分ほど上ったところで後ろへ振り返ると、横浜の街並みがパノラマのように広がっていた。通行人やバスが米粒ほどの大きさで見える。スーパーやレストラン、そして自動車教習所、立ち並ぶアパートやマンションの窓が西日を受けて赤くきらめいている。まるで金魚のうろこみたいだ。さまざまな色や形をした屋根がくっきりと影を成して川沿いにどこまでも続いていた。

 あと一息。再び前へ向きなおしてアスファルトを踏んでいく。ミュージックリストからPizzicat Fiveの「マジック・カーペット・ライド」を選択して、軽く口ずさみながら風に乗る。首筋から湧き出た汗が車の横風に吹かれて冷たい。ウィンブレのファスナーを下げ切って、身体中に向かい風が通るように腕を大きく広げた。

 ゲートのフェンスが見えてきた。空一面が小麦色。浮かんだ一筋の雲が、何かの理由を含んでいるかのように、いつまでも夕暮れの海にさまよっている。ようやくだ。息の上がった身体を前に起こして振り返ると、沈みかけた太陽が鮮やかに雲を透かし、谷底のような横浜の町を黄金に覆っていた。

 この眺めだ、とボクは思った。この美しい景色を見るために苦労してこの坂を上ったのだ。横浜の景色はありきたりでつまらないなんてとんでもない。確かに、マンションやアパートがそこかしこに並ぶところを見ると、いかにも都心から離れたベッドタウンという印象は否めないが、それでも見慣れた建物が一様に集まると、こうも整然と美しく、見る人に温かな気持ちを起こさせるものだろうかと、一種の感動を覚える。ようするに、ボクはこの町が好きなのだ。

 米軍基地のゲートを横切って、緑色の斜面が道沿いに続く通りをしばらく歩くとコンビニが見えてくる。住宅地にポツンとたたずむ小さなコンビニだ。店内に客の姿は見えなく、ひっそりと静まっている感じ。店の前にはバス停と、雨風にさらされて変色した木造りのベンチがひとつ置かれているだけで、一帯はのどかな場所だった。

 ショーケースから麦茶を取ってレジに持っていくと、入る時には姿を見せなかった店員が、ちょうどスタッフルームから出てきてボクに目礼した。長い髪をした、耳の形が特徴的な女性だった。

「おう」

 彼女はボクの顔を見ると静かに笑った。小さなえくぼが上下に揺れていた。ボクは小銭を出すと逃げるように店を出た。足を出す度に鼓動が速まり、風は大きく旋回して落ち葉を道路へ押し流した。

 こうして町を歩いていると思わぬ人に遭遇することがままある。昔通っていたスイミングスクールの先生とか、町内会の役員さん、商店街のよく怒鳴る八百屋の大将。そして小学校のクラスメイトだ。

 六年という長い時間をともに歩んできたにもかかわらず、七年前の記憶を瞬時に思い返すことができないのは、ボクがそれだけ時間という概念に無頓着だったからなのだろう。ボクは歩きながら、ふと小学生の頃を思い返していた。あの頃は何もかも楽しかった。授業中に教室を走り回ったり、担任の先生に刃向かってみたり、給食のスプーンを何本も曲げて調理員のおばさんに叱られたり。とにかく悪いことは何でもしたような気がする。

 それでも本当に大切な思い出は、どこか頭の奥の方にロックをかけられて、なかなか思い出せないようになっているらしい。ボクの小学校の想い出は、まだまだこんなありきたりでつまらないものではなかったはずだ。日々の学校生活はもちろん、遠足、運動会、レクリエーション会、校外学習、修学旅行、浮かんでくる事柄はさまざまで尽きないが、それでも何か、胸を長針でチクチクと刺すような出来事は、どこか暗い箱の中にしまいこまれて、いつまでたっても見つからなかった。


 次の日の午後六時。ボクはAと喫茶店で合流し、そのまま母校の中学の体育館で、クラブの練習に参加した。久しぶりのバレーボールは想像していたよりも楽しかった。途中から会社終わりのBも合流して、十数人のクラブメンバーと練習試合を行った。高校では体育の時間に少し触った程度だったから、本格的にボールに触れるのは四年ぶりで、ブランクは三時間程度の練習では到底拭えなかった。ボクの腕は一面が赤らみ、親指と人差し指はじんじんと痛んで、終了間際にはとうとう右足を攣ってしまい、最後の試合は得点係りをするという情けないありさまだった。

 練習終わり、Aの行きつけのラーメン屋に入り、三人並んで特製ラーメンをすすっていると、ついさっき攣ったばかりの右足が再び攣りだして、ボクは顔をしかめながら向かいに座るAに「これじゃあ話しにならないよ」と言って足を強く揉んでもらった。

「キミたちみたいに、高校もバレー部に入っていた人たちと、オレみたいに中学の三年間しかプレイしてこなかったやつを一緒にするのが間違いなんだ。オレはブランクが三年もある。もうほとんど初心者も同然だからな」

「そんなことはない」と前髪をかき上げて汗を拭きながらBが言う。

「クリスマスカップまでまだ二か月もある。今日のプレイが良くなくても、これからしっかり練習に励めば感覚も戻るだろうし、現役に近いプレイだってできるようになるさ」

「いいや、そうは思わないね」顔を上げて睨むようにBを見た。

「まる一日大学や仕事で外に出ているオマエらと、ひきニートのオレを一緒にしないでくれ」

「そりゃあ運動しないからさ」

「それでもだ。基礎体力が違うんだよ。今日だって、たった三時間の練習でこのありさまだ。笑わせてくれ。オレみたいなのはピンチサーバーでちょこっと出て仕事するくらいが丁度いいんだ」

 ふたりは顔を合わせて失笑していた。ボクにはなにが面白いのかちっともわからなかった。

 その日は一時までカラオケにいた。大通りを逸れて、北に川を渡ったコンビニの二階にある汚いカラオケ店だった。歌の上手いAは十八番のエグザイルとコブクロを熱唱し、ファンクラブに入るほどYOASOBIに夢中なBは、先月行われたライブのセトリに沿って気持ちよくメドレーを歌っていた。足の痛みがまだ残るボクはというと、一発目にNUMBERGIRLの「透明少女」を歌ったきり、ソファに寝そべってミラーボールのきらきらを目で追っていた。ふわふわした感情が疲れた身体を襲い、ボクは目を開けたまま眠った。明日のことなど考える余裕もなかった。

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