1時限目

 「告白」9時間前……。


 ぼくは「カンカン」というけたたましい音に身を竦ませた。

 一昨日、押し入れから出したばかりの羽毛布団に深く潜り込む。


 夏が過ぎ、秋が深まりつつある朝。 

 分厚い皮下脂肪をもってしても、すでに肌寒い。

 身を起こすのがとても億劫なのだけれど、それ以上に憂鬱にさせるのは、部屋の入り口から聞こえてくる金属音だった。


「お兄ちゃん、起きて! 御飯できたよ」


 布団を巻き、蓑虫の構えをとったぼくは、ひょこりと顔を出す。

 廊下の方を見ると、 理采りなが左手にフライパン、右手におたまを装備し、仁王立ちしていた。


 大久野おおくの理采りな

 言動からわかるとおり、ぼくの実妹リアルいもうとだ。


 兄のぼくがいうのもなんだけど、なかなか可愛い妹だと思う。

 短めの髪を無理矢理ポニーテールに結んだ髪型に、くりっとした大きな瞳。

 小顔で、首もほっそりとしており、時々うなじを見ると、ドキッとしてしまうほど隠れた色香があった。


 肌は健康的に焼け、腕も足も程よくしまり、見るからに超優良健康児。

 兄のぼくとは正反対だ。


 悩みは少し、いやまだまだ胸の方がちょっと……。

 あと、おでこが広いことを気にしているらしい。

「理采って将来ハゲるのかな」と鏡を見ながら悲観する小学5年生を、ぼくは2度ほど目撃している。


 そんな理采の姿を見たぼくは、布団を被って完全防御形態を取った。


「あと5分……」


 定型文を、寝起きの頭からひねり出した。

 理采は「カンカン」と鳴らすのをやめると、部屋に踏み込む。

 布団の向こうで足跡が近づいてくるのがわかった。

 やがてベッドが軋む。


「ふーん。そういうこというんだ」


 小学5年生とは思えない甘ったるい声。

 思わず、ごくりとぼくは喉を鳴らしてしまった。

 理采はそっと丸くなっお布団に寄り添う。


 やがて囁いた。


「じゃあ、理采がその5分を至福の5分にしてあげるね」


 全身が火だるまになったのではないかと思うほど、カッと熱くなる。

 反射的に布団を吹き飛ばした。


「りりりりり、理采! ぼぼぼぼぼぼ、ぼくたちは仮にも兄と妹で――」

「きゃはははは! お兄ちゃん、顔真っ赤だ」


 ケラケラとぼくを指さし、笑う。


「早くその真っ赤な顔を冷水で洗っておいでよ」


 理采は何事もなかったかのようにぼくの部屋から出て行った。




 とまあ、大久野家の朝はいつもこんな感じだ。


 女の子に免疫がないぼく。

 そしてそんな兄をからかうのが好きな理采。

 一応本人のために弁護しておくと、妹は男に慣れているとか、ビッチとかそんなんじゃない。

 どっちかというと、外ではシャイな女の子だ。

 ようは内弁慶。

 家の中だけ、あんな感じで大胆になる。


 妹の言うとおり、ぼくは顔を洗い、あらかじめ妹が取り替えていたであろう真新しいタオルで水気を吸い取る。

 ダイニングに出ると、真っ先に入り口近くのサイドテーブルの方を向いた。


「父さん、母さん、おはよう」


 写真に映った家族の集合写真に朝の挨拶をする。

 父さんと母さんは、笑っていた。


 ちなみに両親は生きている。

 考古学者をしていて、今は海外で遺跡の発掘中だ。

 毎月、結構な額の仕送りが送られ、ぼくたちの生活費になっていた。


 つまり、ぼくは妹と2人暮らしだ。

 だからといって、妹との禁断的なことが起こることはない。

 さっきの朝の光景も、大久野家のありきたりなワンシーンでしかない。


 あくまで、ぼくと姫崎詩子さんとの“普通”の学園ラブコメディだからね。


「はい。お兄ちゃん」


 ドン、という爆弾でも爆発したかのような音にぼくは思わず背筋を伸ばした。

 振り返ると、4人掛けのダイニングテーブルに何故か煮えたぎった土鍋が置かれている。


「り、理采? そ、それは……」


「え? ちゃんこ鍋だよ?」


「朝から!!」


 ぼくは鍋をのぞき込む。

 だし汁と醤油、塩で味付けしたシンプルなスープに、野菜を押しのけるように豚バラと、ゴルフボールぐらいの肉団子がプカプカと浮いていた。


 てか、ほぼ肉じゃん!!


「り、理采! 朝からこれはちょっと……」


 さすがに胃がもたれそう……。


「理采の料理が食べれないの?」


 いつの間にか妹の目に涙が浮かんでいた。


「いや、そういうわけじゃないんだよ。でも、さすがに多すぎるというか」


 正直、ぼくもこのままではいけないと思うんだ。

 痩せないと、将来糖尿病とかになるかもしれないし。


「ダメだよ! お兄ちゃんが健康とか考えたらダメなの!!」


「え、えええぇぇぇえ???」


「お兄ちゃんは丸くなかったらお兄ちゃんじゃないよ。痩せててスレンダーなお兄ちゃんなんて、お兄ちゃんじゃない! 丸くて太くて、ぽっちゃりしてるお兄ちゃんへの背信行為だよ!! 泥棒猫だよぉ」


 背信行為て!

 ぼくが痩せることが背信行為なの?

 身体のためにも、太っていることが背信行為じゃないの?

 というか、泥棒猫ってなに?

 どこで覚えてきたんだよ。


「昼ドラ」


 ぼくの心の声モノローグを真顔で答えないでくれないかなあ。


「落ち着いて、理采」


「むしろお兄ちゃんが落ち着いた方がいいと思う」


 あ、うん。そうかもね。


「わかったよ。食べるから。お兄ちゃん、朝からちゃんこ食べるから」


「よかった。今から、御飯をよそうね」


 御飯は余計なような……。

 まあ、いいか。

 これ以上、理采にたてつくと何を言われるかわからない。

 兄として、寛大な心で妹を許して上げようじゃないか。


「はい、お兄ちゃん。カツ丼大盛り」


 ぼくを殺す気か!!





 大久野家の朝の日常は楽しんでもらえただろうか。


 残念ながらぼくは楽しめない。

 理采の愛が苦しくて、今にもリバースしそうだ。

 さらに通学路を歩くぼくの手には、3段重ねのお重が握られていた。

 理采が持たせてくれた特製弁当。

 ぼくの鞄よりも重たい(これでも説得の末に、4段から3段にしてもらった)。


 家を出て、通学路をとぼとぼと歩いていると、背後から声を掛けられた。


「よお、帝斗みかど。相変わらず丸いな」


 ぼくの肩に手を置いたのは、同級生の村仁園市むらざとそのいちだった。

 小学校からの腐れ縁というか、悪友。

 漫画、アニメ、声優、ゲーム、ライトノベル――なんでもござれの重度のオタクだ。


 ひょろりとした身体の友人は、厚縁の眼鏡をくいっと上げた。


「ふむ。相変わらず理采ちゃんの愛は偉大だな」


「どっちかといえば、大だけどね。食べる?」


「遠慮しておこう。この年で糖尿病と診断されたくないからな」


「ぼくもだよ!!」


 すると、ぼくたちの横を黒いロールスロイスが走って行く。

 そのまま坂を駆け上がり、ぼくが通う光乃城こうのじょう学園の正門前に止まった。


「お。【姫騎士】様のご登校だ!」


 園市は嬉々として喜ぶ。

 独特のフォームで走り始めた。


「ちょっと! 園市!」


「お前も早く来い。【姫騎士】様のご尊顔を朝から拝謁できるまたとない機会だぞ」


 もはや【姫騎士】じゃなくて、言い方が王様っぽいんだけど。


 ぼくは渋々付き従った。

 正門前は人だかりが出来ていて、有名なスクランブル交差点みたいになっていた。

 押しも押されるという状況で、時折怒号が飛び交っている。

 その中で腕に『告白管理委員会』という腕章を付けた女の子たちがいて、群衆を収めようと必死にもがいていた。

 1人が拡声器を持ち、呼びかけた。


『あー。あー。道を開けなさい。姫崎様がご登校されます! ちょっと! そこ! 道を開けなさい!』


 これが日本の高校の登校風景とは思えないほど、カオスな絵面だ。

 園市はすっかり群衆に混じってしまったが、ぼくは遠巻きに見ることにした。


 すると、ロールスロイスから人が出てくる。

 運転をしていた白髪の好々爺が外から後部座席に回り、ドアを開けた。


 綺麗な足が現れた瞬間、ボルテージは最高潮に達する。


 現れたのは少女だった。

 黒真珠のように艶やかな長い髪を、白い指先で掻き上げる。

 やがて、瑪瑙のように瞳を光らせ、前を向いた。


 姫崎詩子。

 通称【姫騎士】。


 神の奇跡。

 55億年に1人の美少女。

 クレオパトラと楊貴妃と小野小町を足しても無理!


 そう呼ばれる少女は、学園一――いや、宇宙一といっていいほど、美しい少女だ。


 さらに自動車、航空、造船などを手がける財閥系の企業の社長令嬢。

 ぼくたち庶民からみれば、高嶺どころかまさに宇宙空間に咲く花だった。


 姫崎さんが彼女ならどんなにいいだろうか。

 いや、考えまい。

 ぼくと彼女が全然釣り合わないしね。


 そのまま姫崎詩子は空港に降り立ったハリウッド女優のように、人垣を中を歩いて行く。

 出迎えてくれた人たちに全く反応しない。

 むしろ、嫌がっているように見えた。


 姫崎さんは毎日ああして人の注目を受けながら、登校している。

 最近まだ良い方だ。

 入学当時はもっとひどくて、ここに国内国外問わず、マスコミが詰めかけ、その一挙手一投足を公共の電波を使って伝えていた。


 姫崎さんって心が安まる時があるのだろうか。

 ぼくなら、1日で不登校になっちゃうよ。


 その頃のぼくは、まだ他人事のように考えていた。


 つと姫崎さんの足が止まる。

 理由はすぐにわかった。

 『告白管理委員会』という腕章を持った女の子の制止を振り切り、1人の男子学生が彼女の前に立ちはだかったのだ。


 男子学生は簡単にいえば、イケメンだった。

 整髪剤をたっぷり塗りたくった髪に櫛を入れ、ニヒルな笑みを浮かべている。

 細い足を伸ばし、短い胴をこれでもかとそびやかす。


 くそ! 見ていて、なんか腹が立ってきたぞ。


「演劇部の部長の鎌瀬かませ狗介こうすけだ」

「あれか! 告白審査試験で1度、最終まで残ったっていう」

「おい。これってもしかして――」


 野良告白だ!!


 誰かが叫んだ。

 周囲はさらに異様な盛り上がりを見せる。


「やれ! 鎌瀬!」

「一発かまして玉砕しろ!!」

「鎌瀬! 鎌瀬! 鎌瀬!!」


 鎌瀬コールが包む。

 そんな中、告白管理委員会の腕章を付けた女の子が、鎌瀬に近づいてきた。


「待ちなさい! 我々の了解なしに、姫崎詩子さんに告白することは禁止されています」

「シャラァアアプ! 委員会の犬どもが! 今から愛を語るんだ。ちょっとだけ待ってろよ」


 ウィンクする。

 腕章を付けた女の子は「うぇ」という顔をしていた。

 ぼくもしていた。

 気持ち悪!


 雑音と喧騒の中で、鎌瀬はゆっくりと近づいていく。

 姫崎さんの前に傅いた。

 まるで戴冠式に望む騎士のようにだ。


 鎌瀬はそっと手を出す。

 手品のように1本の赤い薔薇を差し出した。


「美しい……。こうして比べてみると、1本の可憐な薔薇よりも、あなたの方が何倍も美しい。しかし、姫崎さん。私はそれ以上に美しいものを知っている」


「なんでしょうか?」


「あなたの心……。そしてあなたを愛する私の心もまた美しい。どうか、この心を受け取っていただけないでしょうか?」


 姫崎さんは一旦停止した画像のように固まる。

 やがて差し出された1本の薔薇をつまみ、よく通った鼻筋に近づけた。


「良い香りですね」


「は? え、ええ……。今日、1番のものを用意させました」


 周りは静まり返っていた。

 予想外の展開に、群衆達は黙る。

 誰も鎌瀬の告白が受けいられるとは思っていなかったのだ。


 だが、【姫騎士】の本領発揮はこれからだった。


 薔薇をくるくると回しながらもてあそんだ後、姫崎さんはいった。


「薔薇の香りは素晴らしいけど、あなたの臭いは最悪です」


「は?」


「犬の臭いがします。犬の歯ブラシでも使ってるのかしら」


 鎌瀬は慌てて口を塞ぐ。

 その横をあざ笑うかのように姫崎さんは通り過ぎていった。


「重大な環境汚染です。地球のために、人類の未来のために2度と息をしないで下さいね、いぬ介くん」


 赤い煉瓦道を校舎の方へと歩いていく。

 真っ白に燃え尽きた風の鎌瀬は、がっくりと腰を落とした。

 あんぐりと開けた口からは、白い魂魄が見える。


 ご愁傷様。

 ぼくは密かに合掌する。


 だが、事はこれで終わりじゃなかった。


「くそ! 俺も告白するぞ」

「僕も!」

「いや、私が先よ」


 さっきまで大人しかった群衆が、堰を切ったかのように姫崎さんに群がっていく。

 次々と彼女の前に立ちはだかると、愛の告白を始めた。


「ずっと好きでした。付き合って下さい」

「ごめんなさい。カメムシと付き合う方がまだマシです」

「あなたのことをずっと見てました。お願いです。付き合って下さい」

「わかりました。今から警察署までお付き合いしましょう」

「先輩、もうあなたなしでは生きていけません」

「じゃあ、今から食う寝る息をするをすべて禁止して、1ヶ月過ごしてください」


 対して、姫崎さんは凄い勢いで無双していく。

 すべてにおいて遠慮はなく、配慮もなく、ただただ辛辣な言葉が、光刃のように繰り出された。


 これが光乃城学園の朝の名物――姫崎無双。


 群衆の中を1騎駆けする凜々しい姿は、まさに【姫騎士】という名にふさわしかった。

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