箱の中身
「まったく……あの人は勝手に決めて……」
座卓を囲む女性陣の輪の中で、長男・浩一の妻、里美(さとみ)がため息をつきながら言った。その声には呆れと諦めが入り混じっている。
「すみませんね、うちの夫が変なことを言い出して……」
「変なこと」とは、箱を開けた者が中身を総取りするという、浩一の提案を指していた。里美は申し訳なさそうにしながらも、内心では別の考えを巡らせている。
彼女は、かつて浩一が掛け軸の代金をごまかしたことを知っている。洗濯中にポケットから古物商の領収書が出てきて気づいたが、あえて何も言わずに見過ごした。その時は腹を立てたが、今回は違う。もし浩一がこの箱の中身を手に入れたら、そのことを持ち出してアクセサリーの一つでも買わせようと決めていた。夫婦間の駆け引きというやつだ。
「いいのよ、いいのよ。男なんていつまで経っても子供なんだから」
次男・健二の妻、真紀(まき)は、赤くなった顔をほころばせながら言った。目の前には既に空になった缶ビールが五本並んでいる。だがその赤い顔は本当の酔いではない。真紀にとって、これは棚からぼた餅のような話だった。もし健二が箱を開ければ、その中身を売り払って、美味しい酒でも買おうと考えている。その計画を思い浮かべるだけで、ますます酒が進む。
「本当に気にしてませんから。うちの人、こういう勝負事に弱いんで」
三男・光男の妻である百合(ゆり)が、のほほんと微笑みながら言った。その控えめな態度に反して、彼女の内心には激しい野心が渦巻いている。最近、百合はホストクラブに通う楽しみを見出していた。光男には「深夜勤」と偽って通い詰め、推しのホストと朝まで過ごす生活。彼女にとって、この箱の中身はさらなる軍資金となる可能性を秘めているのだ。
女性陣の会話が交錯する中、上座に座る善治は、ぽかんと口を開けていた。表情は茫洋としており、頭の中で「なんじゃったかなあ……」という言葉が巡り続けている。善治の認知症はここ数年で進行し、自分の記憶すら曖昧になりつつあった。いずれは施設への入所も考えなければならない。
そんな未来を知らず、善治は次第に集中力を失い、睡魔に包まれつつあった。
しかし、再び肩を揺さぶられ、彼の意識が引き戻される。
「お義父さん、あの箱には一体何が入っているんですか?」
里美の声が、優しげだがどこか焦りを帯びている。善治はかすれた声で「うーん」と答えかけたが、答えは出ない。彼の頭の中には、記憶の断片だけが霧のように漂っている。
一方、庭では男性陣が箱を前に膝を突き、試行錯誤を繰り返していた。浩一と健二は箱の端をそれぞれ握り、力任せに引っ張るという原始的な方法を試みたが、当然のように結果は出なかった。
「ダメだ。何をどうやっても開かない」
健二が肩で息をしながら言うと、浩一は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「バカ言うなっ! 貴重なものが入ってるんだぞ!」
浩一の怒りに満ちた声が庭に響く。手に負えない苛立ちが、その巨体を震わせている。健二は反論する気力もなく、ただ小さく肩をすぼめた。冷静なのは光男だった。
「浩一兄さん、落ち着いて。健二兄さんが言いたいのは、俺たちだけじゃ解けない仕掛けなんだろうってことだよ」
光男が箱を抱え、浩一をなだめるように言う。その口調は穏やかだが、確かな説得力がある。健二が息を整えながら付け加えた。
「そうだよ、兄貴。ここは方法を変えた方がいい。もっと確実なやり方で」
「確実なやり方って?」
浩一が険しい顔で問い返すと、光男は静かに微笑んで言った。
「箱を壊そう」
その一言に浩一の表情が変わった。顔に広がった笑みは、単純明快な解決策に飛びつく子供のようだった。
「なるほど、それだ! 壊して中身を取り出せばいいだけじゃないか!」
浩一はそう言うと、頭をかきながら自分が思いつかなかったことを恥じるように軽く笑った。そしてすぐに思いついた。
「庭木を切るチェーンソーがどこかにあったはずだな」
言い終えるが早いか、浩一は庭木をかき分けて走り出し、物置からチェーンソーを抱えて戻ってきた。その姿に光男と健二が思わず苦笑する。
「おいおい、正月にチェーンソーなんて使ってる家、ここくらいだぞ」
「兄さん、本当にやる気だな……」
チェーンソーの金属音が庭に響き渡った。浩一は音を確かめるように一旦エンジンを切り、ニヤリと笑って提案する。
「こうなったら中身は仲良く三人で山分けだ。いいだろ?」
健二と光男は顔を見合わせ、渋々ながらも頷いた。分け前が減るのは不満だが、これ以上の膠着状態は避けたい。
兄弟たちは、自分たちなら箱を壊しても善治も許してくれるだろうと、都合の良い考えを共有していた。
「あなた、一体何をやってるんですか?」
チェーンソーの音を聞きつけた里美が駆けつけた。その後ろには、缶ビールを手にした真紀と、のほほんとした表情の百合もいる。
「兄弟の親睦を深めているんだよ」
浩一は軽口を叩きながらチェーンソーのエンジンを再び始動させる。
「よし、いくぞ!」
甲高い音と共に刃が木箱に触れ、木くずが庭に飛び散る。兄弟たちは期待に胸を膨らませ、箱が真っ二つになるのを待った。
その時だった。
上座に座る善治が、くわっと目を見開き、まるで魂を吸い込むかのように深く息を吸い込んだ。かすれた声でぽつりと呟く。
「思い出した……」
しかし、その声は小さすぎて、庭で盛り上がる息子夫婦たちには届かない。
「……箱の中には何も入っておらんよ。貴重なのは、その箱そのものなんじゃ……とても貴重なものだから、大切にするよう頼むのう……」
善治は再び口を開け、目を閉じた。
そして、魂が抜けたかのようなぼんやりとした表情に戻り、再び呟いた。
「うーん……なんじゃったかのう……」
この箱、なんじゃったかな? 戸井悠 @toi_magazine
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