この箱、なんじゃったかな?

戸井悠

謎の箱

「う~ん、なんじゃったかのう……」


 吉崎家の当主、善治(よしはる)は眉間に深いしわを刻みながら、薄くなった頭皮を掻き毟った。何かを必死に思い出そうとしているが、それが何なのか、肝心の答えには辿り着けない。齢80を超えた彼の体は頼りなく痩せ細り、認知症の影響で記憶はまるで穴の開いたダムのように次々と抜け落ちていく。


 家族の前でうめき声をあげるこの姿は、老いと共に訪れる“普通の晩年”に過ぎないはずだった。だが、この正月は少し様子が違う。


「お義父さん、何か少しでも思い出しませんか?」


 そう言って痩せた肩に手を置いたのは、長男の妻、里美(さとみ)だった。彼女の指先が善治の肩にぐっと食い込む。隣には次男の妻、紀子(のりこ)、三男の妻、真紀(まき)も座卓に手を突き、善治の次の一言を待っている。その周囲では孫たちが「おじいちゃんどうしたの?」とでも言いたげに走り回り、正月らしい賑やかさを織り成している。


 今年も吉崎家には親戚一同が集まった。大晦日の朝から大掃除に励み、家中をピカピカに磨き上げた後、善治を囲んでのんびり過ごす予定だった。しかし、ある発見をきっかけに、その和やかな計画は一変する。


 蔵から『箱』が見つかったのだ。


「それはのう……とても貴重なものじゃ……」


 善治がつぶやいたその一言が、この騒動の幕開けとなった。


「え? 親父、貴重なものって、どういうことだ?」


 長男の浩一(こういち)が興味津々にその箱を持ち上げた。30センチ四方の正方形で、材質はおそらくヒノキ。上面には赤・青・黄のモザイク模様が施されている。ずっしりとした重みがあり、軽く振ると中で何かが転がるような音がした。しかし、分厚い木の壁のせいで中身は全くわからない。


「……中身? ええと……それはの……」


 善治が答えようとするが、親戚一同の注目が彼に集中すると、途端にしおれたように背中を丸める。その姿は、まるで重圧に押しつぶされそうな小動物のようだ。


「親父、なんだよこれ? 言えないようなものでも入ってるのか?」


 浩一が冗談めかして手を触れようとしたその瞬間、善治がピクリと顔を上げた。家中が静まり返る。


「……忘れた」


 ただそれだけを言い、再び頭を垂れた善治。首をかしげる仕草はまるで壊れたおもちゃのようで、それ以上何を聞いても「う~ん」と唸るばかりだった。

 

 「……で、この箱、どうしましょうか?」


 座卓に鎮座した『箱』を前に、一族全員が途方に暮れる。見た目はただの木箱だが、よく見るとどこか違和感がある。次男の健二(けんじ)が箱を覗き込むと、つぶやいた。


「これ、何か仕掛けがあるんじゃないか?」


「おそらくカラクリ箱だよ」


 三男の光男(みつお)が興味を示すと、浩一がニヤリと笑った。


「よし、俺たちで開けてやろうじゃないか」


 長男の浩一(こういち)は、次男の健二(けんじ)、三男の光男(みつお)を呼び寄せると、箱を抱えて庭へ出た。手入れが行き届いていない庭には、雑草が寝癖のように絡まり、ところどころに枯れた落ち葉が散らばっている。その景色を気にする者はいない。三人の視線は、ただ一つの木箱に集中していた。


 浩一が縁側に腰を下ろし、手元の箱をポンと叩く。硬く響く音は、簡単には壊れそうにない分厚さを物語っている。


「この箱を開けた奴が、中身を全部いただくってのはどうだ?」


 浩一が不敵な笑みを浮かべながら提案する。その表情は、兄弟にとって見慣れたものだった。子供の頃、浩一が悪戯を企てるときに浮かべていた笑みそのものだ。


「いいよ、兄貴。その話、乗った」

「兄さんがそういうなら、やりましょうか」


 健二と光男が即座に頷く。その目が一瞬だけ鋭く光るのを互いに見逃していた。三人の間に、穏やかな家族の団らんとは程遠い、妙な緊張感が漂い始める。


「よし、決まりだ。じゃあ、まずは俺からだな」


 浩一は箱を力強く持ち上げた。筋骨隆々の体格を誇る浩一は、分厚い木目を捻り、継ぎ目を押し、思いつく限りの方法で箱を攻略しようとする。真剣な眼差しが、その背後にある欲望を隠しきれない。


 浩一には確信があった。


「貴重なもの」――父の善治がそう口にするものは、何かしらの価値を秘めている。 

 以前、善治の認知症が発覚した直後、浩一は数日間実家に泊まったことがある。時間を持て余して蔵を漁ると、一本の掛け軸を発見した。それを「貴重なもの」と言われ、こっそり古物商へ持ち込むと十万円の値がついた。浩一は、そのうち九万円を懐に入れ、「一万にしかならなかった」と嘘をついて返したことがある。


 今回も同じだ。貴重なものに違いない。浩一の手は力を込め、木箱を操作するが、びくともしない。


「兄貴、それ以上やると頭の血管が切れるぜ。代わってくれ」


 健二が庭石に腰を下ろしながら、真っ赤な顔で息を荒げる浩一を横目に、箱を取り上げた。


「ふん、お前みたいなひょろひょろの腕で、何ができる」


 浩一が嘲笑するが、健二はそれを無視して冷静に箱を見つめる。健二は浩一と違い、腕っぷしではなく頭を使うタイプだ。箱の上面の格子模様を指でなぞり、いくつかの部分が押せることに気づいた。


「力任せにやるからダメなんだよ。こういうのは仕掛けを見抜くもんだ」


 健二は黙々と作業を続けた。彼には別の動機があった。善治から借りた金の借金が膨れ上がり、さらに新たな借金を申し込めない今、手元の箱が最後の希望のように思えたのだ。

 もし中身が価値あるものであれば……。健二の指先が震える。


 しかし、押したり引いたりしても、格子がわずかに動くのみで解決には至らない。


「兄さん、もういいだろう。それ以上は無理だよ」


 三男の光男(みつお)は、健二の手から箱をひょいと取り上げた。苛立った健二が「おい、まだ俺の番だぞ」と抗議するが、光男は耳を貸さない。


「兄さんたちのやり方じゃいつまで経っても開かないよ、悪いけど、僕が開ける」


 光男は箱をくるりと裏返し、格子状の面を下にした。これがどうやら正しい向きのようだ。


「知ってたのか、光男」

「卑怯者め……!」


 浩一と健二が息を飲むが、光男は涼しい顔を崩さない。彼にとって、兄たちの動揺など取るに足らない些細なことだ。


「聞いてくれたら教えたよ」


 軽く肩をすくめて笑う光男。その姿には余裕すら漂っていた。兄たちにとって、光男はつかみどころのない存在だった。浩一とは10歳、健二とは5歳も年が離れており、育った環境も価値観も異なる。さらに、その整った顔立ちと身のこなしは、二人とは別次元のように見えた。


 光男は、結婚している身ながら、妻以外に2人のガールフレンドがいる。その関係を維持するためには、それなりの金が必要だ。派手な生活ではないものの、綱渡りのような日常を支えるには、この「貴重なもの」の中身が何であれ、手に入れる価値がある。


「さて、と……」


 光男の手が箱を丹念に操作し始めた。彼は兄たちが試した動きを注意深く観察していた。浩一の力任せの試みも、健二の手探りのアプローチも、すべて光男にとってヒントだった。


「おおっ……これ、動くぞ!」


 光男がついに手応えを感じた。格子模様がかすかに浮き上がり、上面の板が少しだけ緩む。それを見て、浩一と健二が前のめりになる。


「大口叩いた割にはそこまでか?」

「何だよ、俺が力づくで開けたところまでと同じじゃないか!」


 浩一と健二が文句を言うが、光男は無視した。板がわずかに揺れるたびに、彼の目が輝きを増す。


「あと少しだと思うんだけどな……」


 だが、光男の手がいくら試行錯誤しても、それ以上はどうしても動かなかった。上面の板が緩んでいるとはいえ、最後の仕掛けが何かを阻んでいるようだ。


「やっぱり、そんなに簡単にはいかないか」


 光男はため息をつき、箱を一度置いた。その姿に、浩一が悔しそうに顔をしかめる。


「何やってんだ、まだ終わってねえだろ! 俺に戻せ、力技でいけるかもしれない!」


「待てよ、兄貴。力づくでやって、壊れたらどうするんだ」

「バカか、箱が壊れたらそれでいいじゃないか」

「繊細にやらないと中身まで壊れるよ」


 三兄弟の間に緊張感が漂う中、箱はその謎めいた輝きを放ち続けていた。

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