夫のいない一日 ①   ※

 ――〈Oプランニング〉で働き始めてから二週間が過ぎた。

 新しい職場での仕事にも慣れ、仲間たちともすっかり打ち解けて、世間ではもうすぐ五月の大型連休前だ。


 あたしは仕事の帰り、久しぶりに父の会社である〈田澤フーズ〉を訪ねていった。――厳密にいえば、そこは半年以上前、あたしが藤木家に嫁いでから藤木グループの子会社に成り下がったのだけど。父が社長であることに変わりはないのだ。


「――お父さん、久しぶり!」


 社長でありながら雑用に追われる父に、あたしはできるだけ明るく声をかけた。


「里桜! ああ、久しぶりだな。元気そうで何よりだ。結婚生活は順調か?」


 嬉しそうにあたしに笑顔を見せてくれた父は、半年前よりやつれた気がする。やっぱり、会社を騙し討ちで乗っ取られて苦労しているんだろうか。


「あんな形で結婚させられて順調なワケないでしょ。あたしは今でも不満だらけだよ。でも、転職させてもらったし、ちょっとは充実してるんだ」


 充実している要因は大智の存在だ。彼とはあれからもよくランチデートをしているし、たまに仕事帰りにはクルマで送ってもらって、こっそりキスをしたりもしている。


 ただ、せっかく元サヤになったけれど、まだ体の関係はない。人目を忍んでの関係なので、会社の仲間の目が気になってオフィス内でエッチするわけにもいかないし。

 彼の肌が恋しい。彼に早く体ごと愛してもらいたいのに……、夫のいる身は不自由で仕方がない。


「そうか……。お前の自由まで奪ってしまってすまないな。奪われるのはこの会社だけでよかったのになぁ」


「まだ気を落とさないで、お父さん。……実はね、今弁護士さんに動いてもらってるの。お父さんが作った借金にウラがあるかもしれないから」


「あの借金にウラ……? というか里桜、お前に弁護士の知り合いなんていたのか」


「うん、まぁ。大学時代の二年先輩なんだけどね。ちょっと……知り合いの知り合いっていうか」


 うん、間違ってはいない。飯島弁護士は大智の知り合いだし、あたしとも一応は知り合いだから。

 でも、ここで大智の名前を出すわけにはいかない。父も、あたしが大学時代に彼と付き合っていたことを知っているので、彼との不倫関係を悟られるわけにはいかないのだ。


「もしそれで借金がなかったことになれば、この会社を取り戻せるし。あたしも正樹さんとスッパリ縁を切れるんだから。まだ希望はあるよ」


「ああ……、そうだな。ありがとな、里桜」


「やめてよ、お父さん! あたしは何もしてないよ。――ああでも、このこと、まだお母さんには言わないで? 正樹さんやお義父とうさま、お義母かあさまの耳に入ったらマズいからね」


「分かった。俺と里桜だけの秘密だな」


「うん。――じゃあ、あたし帰るね。今日もこの後、夕飯作ったりとか家のことやらなきゃいけないから。今の会社ね、フレックス制で出勤時間と退勤時間の自由が利くの」


 今日はカレーを作ろうと思っている。マンション近くのスーパーには、パウチされたカレー・シチュー用の加工済み具材が売られているので、それと牛肉、カレールウを買うだけで作れる。


「そうか。またお母さんに電話でもしてやってくれ。声を聴かせてやるだけでも喜ぶからな」


「分かった。……じゃあお父さん、また来るね」


 立ち話しかできなかったけれど、父に会えてよかった。これ以上父の仕事のジャマをするのは申し訳ないので、あたしはこの会社の最寄り駅であるメトロの新宿駅へ向かって歩き出した。



   * * * *



 ――その日の夕食の時、正樹さんから思いもよらない話をされた。


「里桜、俺は明日・明後日あさってと出張で静岡しずおかへ一泊で行くことになった」


「えっ、泊まりがけで出張ですか……」


 あたしは表面上驚いて見せたけれど、内心ではガッツポーズしていた。

 明日の夜はこの人がいない。ということは、大智と一夜を共にできるチャンス到来! ついに、彼と久しぶりのエッチができる!

 それに、この人がいない時にはあのうるさい姑もここには来ないので、あたしはこの家から一日解放されるのだ。


「……里桜、俺が一日いないのがそんなに嬉しいのか?」


 正樹さんが不機嫌そうに訊ねるので、ハッと現実に引き戻された。


「いいえ、別にっ!」


 慌てて否定したけれど、そりゃあ嬉しいに決まってるわさ!

 でも、大智をこの部屋に泊めたら不倫がすぐにバレてしまう。だったら、あたしが彼のところに泊まった方がいいかな。


「ま、そういうわけだから。里桜、一泊の準備をしておいてくれ」


「はい、分かりました。正樹さんがお風呂に入ってる間にしておきます」


 ついでに、あたしの分の準備もしておこう。……夫に返事をしながら、こっそりそう思った。

 ただ、明日の朝この人が家を出るまで、荷物が見つかってはいけない。うまく隠しておかなきゃ!


「カレーのお代わり、どうですか?」


「もらおうかな」


「はい」


 夫のお皿にお代わりを盛りながら、あたしはふと思う。正樹さんはあたしに何だかんだと文句を言いながら、あたしの作った料理を食べなかったことは一度もない。そして、こうしてお代わりもしてくれる。

 何とも思っていない女の料理を、こんなに美味しそうに食べるものだろうか?

 そして、下手くそだけれど抱きたがるものだろうか――?


 正樹さんは本当のところ、あたしのことをどう思っているんだろう……?


「いやいや。だからって別に、情が移ったとかじゃないし!」


 あたしはブンブンと首を横に振り、あり得ない考えを撤回した。

 正樹さんを愛するなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないのだ。あたしを一億円で買ったに等しいこの男を。



   * * * *



 ――正樹さんの入浴中に出張の準備を済ませたあたしは、続いて自分のボストンバッグも準備。洗面用具に基礎化粧品のミニセット、替えの下着にルームウェアにバスタオル……と、お泊まりに必要なものを詰め込んでいく。

 もちろん、今夜もあたしは先に入浴を済ませてあった。


 着替えの服も持っていこうかと思ったけれど、明後日は土曜日で出社の必要はないのでやめておいた。


「よし、荷物はこんなもんかな。大智にも伝えておこう」


 あたしはスマホでメッセージアプリを開き、彼に送信した。



〈大智、明日と明後日はダンナが出張でいないんだって。

 あたし、明日の夜はお泊まりできるけど……〉



〈じゃあ、オレの部屋に泊まってく?

 オレ、三ヶ月前に引っ越したんだよ。前のアパートよりずっといいマンションに。

 だから里桜もビックリすると思う。楽しみにしてろよ。〉



「……へぇ、大智って部屋引っ越したんだ」


 大学時代は1Kのアパートに住んでいたけど、会社の社長をやっているくらいなんだから、今はもっといい部屋に住んでいるだろうなとあたしも思っていた。



〈へぇ、どんな部屋かあたしも楽しみ♪

 じゃあ明日、よろしくお願いします。〉



 可愛いペンギンがペコリと頭を下げているスタンプを送り、既読がついたところでメッセージアプリを閉じた。

 そして、正樹さんのボストンバッグだけを見えるように置いておき、あたしのバッグはベッドの下に隠して、布団の中に潜り込む。



 それからしばらくして、正樹さんは髪も乾いた状態で寝室へ戻ってきた。実は、ドライヤーを洗面台のところへ移動させておいたのだ。


「里桜、……今日もダメみたいだな」


 あたしは寝たフリを決め込んでいたので、あたしのベッドを覗き込んだ夫の残念そうなため息が聞こえてきた。でも構うもんか。

 明日の夜、あたしはまた大智と……。膨らむ期待で体の中心が火照ほてってきて、秘部が潤んできた。明日には大智にここを満たしてもらえるけれど、せめてもの慰め程度に、下着のクロッチ部分の上から指先で割れ目をなぞる。


「……んんっ、あ……んっ」


 夫の寝息が聞こえてきたので、小さな声を漏らす。

 蜜で湿った布越しに、肉芽の先端を指の腹の部分でクニクニと潰す。今夜は、大智のあのしなやかな指でされているように妄想しながら――。


「ん……んっ、んぁっ♡ はっ……ぁっ♡」


 布地越しにそこを指で何度も愛撫するだけでも、あたしの快感に火がつく。大智の体温を思うだけで……。


「あ……っ、あ……っ、あぁ…………っ!」


 自分の指先だけで、あたしは達してしまった。



   * * * *



 ――翌朝、正樹さんは静岡への出張に立った。


「じゃあ里桜、行ってくる」


「はい。気をつけて行ってらっしゃい」


 玄関のドアが閉まったのを確認して、あたしもいそいそと出勤の支度をする。

 メイクをして髪型を整え、白のカットソーにブラウンのコットンパンツ、ネイビーのジャケットに着替えた。初日に気合を入れすぎたパンツスーツで浮いてしまったので、翌日から少しカジュアルダウンしたのだ。

 コットンパンツの下にはストッキングを穿いて、靴はヒール低めのパンプス。出勤用のバッグを肩にかけ、ベッドの下に隠しておいて、幸い夫には見つからなかったボストンバッグを持ち、キチンと玄関をロックして出かける。合鍵はマンションの管理人さんに預けた。


 今日は朝早くに、知り合いがやっている家事代行サービスを頼んでおいた。その人には、管理人さんから合鍵を受け取るように伝えてある。



「――大智、おはよう!」


 オフィスの入っているビルの前に着くと、ちょうどクルマを降りてくる彼をつかまえた。


「うっす、里桜。――お前、泊まる準備万端だな」


「うん♪ あ、ちょうどよかった。これ、会社に持って入るワケにいかないから、クルマに積んでてもらっていい?」


「オッケー。どっちみち、オレの部屋にはこのクルマで帰ることになるからな。そういや、今日家のことはいいのか?」


「代行サービス頼んどいたから大丈夫!」


 彼にVサインして見せると、大智は愉快そうに笑った。


「はははっ! 相変らず抜かりねぇのな、お前」


「でしょ? でも、大智の『悪知恵が働く』って言わないところ、好きだわー」


 大智は知り合ってからずっと、あたしのことは一度も悪く言ったことがない。雅樹さんのことはボロカスに言っていたけれど。


「――じゃ、オフィスまで一緒に行くか」


「うん!」


 ――こうして、あの人のいない特別な一日は始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る