夫の知らないあたし ①
お昼休みはまだ少しある。ということは、もう少し大智と二人きりでいられるということだ。
少し遠回りして会社に戻ろうか、と彼が言うので、あたしは喜び頷いた。
「ん? ん……っ」
振り向いたあたしの唇が強引に、でも優しく塞がれた。
……大智のキスも変わってない。あたしの胸がキュンと高鳴る。
「大智……」
今度はあたしから彼にキスを返した。
「……なんか、キスがラーメンの味になってる」
「ははっ、ムードねぇよな、オレたち」
大智の素直な感想に、二人揃って笑ってしまう。でも、こういう不倫関係の始まりも悪くないかな。
「うん……。でも、あたしたちらしくていいんじゃない? あたしはむしろ、こっちの方が好きだよ」
肩の凝りそうなロマンチックな始まりよりも、自然体で始まる関係の方があたしたちには似合っている。人目を
「……里桜、オレ、口紅ついてない?」
「大丈夫だよ。ラーメン食べてて、口紅取れちゃってたから。まだメイク直してなかったし」
口元の汚れを気にする彼を安心させるよう、あたしはそう言った。
彼とキスをしたことが会社のお仲間にバレるのは、あたしにとっても不本意だ。
「それにしても、大智って相変わらずキス上手いよね」
「いやいや、そんなことないって。オレはただ、里桜が喜びそうなことをしてるだけで」
大智は謙遜するけど、それはやっぱりキスの上手い人だから。下手な人は、そんなことを考える余裕もないはずだもの。
「それに比べてあの人はダメだわ。女の人とまともに付き合ったことないんじゃないかな」
「えっ? お前のダンナ、キス下手くそなのか?」
「うん。キスもだけどセックスも下手くそ。あたしより自分が気持ちよくなることしか頭にないんだもん」
元カレで不倫の相手である大智にグチっても仕方ないけれど、言わずにはいられないし、ついつい彼とあの忌まわしい夫とを比べてしまう。
初夜はもう最悪だった。あの人はあたしが気持ちよくなっていないうちに挿入し、遠慮なくあたしの中に精を放ったのだ。幸いにも、その日は排卵日ではなかったため、妊娠の兆候は今のところ出ていないけれど。
「あたし、あの人に抱かれた後は気持ち悪くなっちゃってさ。もう二度とゴメンだって思った。妻を性欲処理の道具としか思ってないんだよ、きっと」
「それって、ダンナとヤるのはもうゴメンだってことだよな? じゃあ……オレとだったら?」
「大智とだったらいいよ。だって、あたしたち体の相性もよかったもん」
「そりゃよかった」
あたしのグチも、彼はすべて受け止めてくれた。やっぱりあたしは大智が好きだ。
「飯島さんにも早めに連絡取ってみるから、里桜は何も気にせずに待ってな。オレが絶対に何とかしてやるから」
「うん。ありがと」
「だいたい、里桜と付き合ってたのはこっちが先だっつうの。それを後出しジャンケンみたいにしれっとかっ
あたしのグチが止まったと思ったら、今度は大智の番だ。でも、聞いてもらった分、今度はあたしが聞いてあげなくちゃ。
「大企業のボンボンだか何だか知らねぇけど、オレ、そんなヤツには絶対負けねぇ」
彼はまだ面識もない(もしかしたら、どこかで会っていたかもしれないけれど)正樹さんに闘志を燃やしていて、あたしは何だかおかしくなった。それって何の対抗意識なの?
でも、大智が言った「後出しジャンケン」というのはなかなかに言い得て妙だ。あの人さえ現れなければ、あたしと大智の関係は不倫なんかじゃなくちゃんと日の当たる関係だったはずだから。
「――さて、そろそろ会社に戻るか」
「うん」
あたしたちは恋人同士みたいに手を繋ぎながら、会社の入っているビルへ向って歩き出した。社に戻ったらこの手も解かなきゃいけないけど、せめて着くまでの間だけでも――。
* * * *
――オフィスへ戻ると、あたしは仲間たちの目を憚って大智と繋いでいた手を解き、二人で社長室に入った。
サポートデスクの椅子に座ると、まずはコスメのポーチを取り出し、大智のいる前でコンパクトを開いて口紅を直す。彼とのキスを隠すように。
午後からも午前と同じような仕事をこなしつつ、午後から出勤してきたメンバーを大智に紹介してもらった。
この会社のスタッフは正社員ばかりかと思っていたら、学生のアルバイトスタッフも何人かいるらしい。でも、みんなあたしよりパソコンやタブレットをバリバリ使いこなしていて、何だか置いてけぼりを食らったような気持ちになる。若いっていいなぁ……。二十代前半と後半じゃ、どうしてこうも違うんだろう?
……と、そうこうしているうちに時刻は三時半になっていた。
「……大智、あたし、そろそろ帰らないと」
少々
覚えたい仕事はまだまだいっぱいあるけど、あたしは一応主婦である。帰ってから家事もやらなきゃいけないし、夫の帰りに間に合わせて夕食の支度もしないといけない。
「そっか、もうそんな時間か……。分かった。里桜、初日お疲れさん。――今日一日どうだった?」
「うん。すごく楽しかったよ。あたし、ここで大智と一緒に働くって決めてよかった」
まさか、入社初日から大智とまた付き合い始められるとは思っていなかったけれど。それを除いても、今日はなかなか充実した一日だった。
藤木家に嫁いで半年間、社会からほとんど離れて虚しく過ごしてきたそのブランクが、少しでも埋まった気がしたから。あたしだってちゃんと、社会の役に立つんだという自信を取り戻せた、というか。
「そっかそっか。じゃあ、気をつけて帰れよ。また明日な。……明日は、何時ごろに出勤できる?」
「う~ん、今日よりはちょっと遅くなると思うけど。できるだけ早めに来るつもり」
「了解。じゃあ、明日も待ってるからな」
「うん! じゃあお疲れさま」
あたしは社長室を出ると、外していた指輪をはめてから他のメンバーたちに「お先に失礼します!」と声をかけて、退勤の打刻をした。
* * * *
――帰りは東京メトロを乗り継いで赤坂に戻り(あらかじめ通勤定期は買ってあった)、夕食の買い出しをすべく自宅マンション近くのスーパーに立ち寄った。
「んーと……、今日は魚にしようかな。確か、今日は生鮭が安かったはずだし……ムニエルとかいいかも。それに野菜たっぷりのあんかけソースをつけて……、副菜は小松菜のごまペースト和えとかかな」
あたしは大まかなメニューを決めて、食材を買い込む。
別に相手のことなんか何とも思っていないのだから、美味しいものを食べさせようとする必要もないのだけれど。これはあたし自身のプライドというか意地の問題なのだ。何より、あの鬼姑からのイヤミ攻撃がうざったいので、それを回避したいがためなのである。
家に帰って食材を冷蔵庫に入れた後、着替えてから洗濯やお風呂とトイレの掃除を済ませ、床にロボット掃除機の電源を入れてダイニングテーブルの上にノートパソコンを開く。
正樹さんが帰ってくるまで、ネット小説の更新分を執筆しておこう。……あれを、大智も楽しみにしてくれているらしいし。
『――そういや里桜、ネットの投稿サイトに小説アップしてるよな? 〝
仕事中、大智に言われた時は別の意味でちょっとドキッとした。でも、あたしが趣味で小説を書いていたことは、彼も付き合っていた頃から知っていた。あの頃はまだ、投稿サイトに載せてはいなかったけど。
『あ……うん。やっぱり、たくさんの人に読んでほしいなーと思って。ダンナはよく思ってないみたいだけどね。っていうか、「いい歳こいてまだやってるのか」って大智も思ってるよね?』
『いや、オレはあれ好きだけど。つうかファンだし、里桜が書いてるヤツならいいなって思ってたからさ。マジでそうだったんだって分かって感動した』
『え、そうだったの?』
『ああ。これからも更新、楽しみにしてるし応援してるから。頑張れよ』
『うん! ありがと、大智!』
大智が応援してくれていると分かって、あたしは感激したのだ。だから、正樹さんに何を言われたって関係ない。あたしは大智と、大切なファンのみなさんのために書き続けることに決めた。
* * * *
――今日は筆の進みがよく、夕方五時ごろから書き進めて一時間くらいで二千五百字も書けた。合間に夕食の下準備を挟んでも、だ。
「……はぁ~~っ、書いた書いた! 疲れたぁ」
思いっきり伸びをしていると、玄関チャイムが鳴って正樹さんが「ただいま」と言いながら入ってきた。
「あ、帰ってきた。おかえりなさい」
あたしも一応妻らしく、玄関まで出迎えにいく。さすがに三つ指ついて、まではしないけれど(そこまでしてやる筋合いもないし)。
「里桜、ただいま。……お前、今日から仕事じゃなかったのか?」
「家のことをやるために早めに帰って来たんです。言ったでしょう? ウチの職場はフレックスタイム制だって」
まるで「どうしているんだ」とでも言いたげな夫に、あたしは鬼の首でも取ったみたいに言い返した。
「夕飯、すぐできますから。今日は鮭のムニエル・野菜あんかけソースがけと小松菜とちくわのごまペースト和えです」
「うん、いいな」
ありがとうの一言もなく、彼は寝室へ着替えに引っ込んでいこうとする。けれど、ダイニングテーブルの上に閉じた状態で置かれているパソコンに気づき、眉をひそめた。
「……また、あの下らない小説を書いていたのか? やめろと言ってもやめる気はないんだな」
「やめませんよ、あたし。楽しみにしてくれてるファンがいるんで。あと仕事もね。――じゃあ、ゴハンの支度します」
高らかに宣言して、あたしはキッチンに立った。「仕事を辞めろとは言ってない!」と文句を言いながら、夫は寝室へ入っていく。
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