元カレとの新しい日常 ①

 ――それから一週間後。今日は大智が社長を務める〈株式会社オープランニング〉の入社日、あたしにとっては新しいスタートの日だ。


「よし。メイクも完了したし、社員証もちゃんと入ってるし、忘れ物もなし。じゃあ行くか」


 時刻は朝の九時半。細身もパンツスーツに身を包んだあたしは、バッグのポケットに出来立てホヤホヤの社員証が入っていることを確認して家を出る。

 正樹さんはとっくに出社した後で、マンションの部屋はもぬけの殻になるのでキチンと鍵をかけて、エレベーターで一階へ下りる。

 フレックスタイム制なので出社時刻は個人で決められる。あたしも家事を終えてから出社してもよかったのだけれど、初日くらいは朝から出社して他の社員の人たちにちゃんと挨拶したい。そう思って朝から出社することにしたのだ。……ただ、正樹さんと時間をずらしたのはせめてもの抵抗である。あの人にイヤミを言われながら一緒に下りるなんてまっぴらゴメンだった。


 オフィスはこうじまちにあるので、マンションのある赤坂あかさかから電車で通勤するつもりだった。会社から交通費も全額出してくれるらしいし。

 でも、マンションの前には一台のシルバーのハイブリット車が停まっていて、運転席から降りてきたのは大智だった。


「おはよう、里桜。会社まで乗っけてってやるよ」


「おはよ……。わざわざ迎えに来てくれたの?」


 これから出社するだけなのに、まるでデートみたいだ。でも、あたしは人妻なのにいいのかな。このマンションの住人の間では、藤木家の人間は有名人なのだ。


「うん、今日は初日だから特別な。明日からはお前の出勤時間に合わせて電車で来てもらうから」


「あははっ」


 いきなりのVIPビップ待遇は、ただ単に初日だったからなのか。


「でも、久しぶりに里桜と二人でドライブしたかったからっていうのもあるかな。まぁ、会社までの短距離ショートレンジだけど」


「……えっ? ああ、そうなんだ」


 やっぱり、大智の方にもそういう気持ちがあったんだ。彼は相変わらずあたしの期待を裏切らない人だった。


「とにかく乗って。助手席でいいか?」


「うん。ありがと、じゃあよろしく」


 あたしは自分でドアを開けようとしたけれど、大智がわざわざクルマを降りてドアを開けてくれた。


「どうぞ、里桜」


「……あ、ありがと」


 二人とも乗り込んでシートベルトをちゃんと締めたところで、クルマは走り出した。



「――それにしても、里桜。今日はえらく気合い入れてきたなぁ」


 ハンドル操作をしながら、大智は笑ってそうコメントした。


「だって、入社初日だし。キチンとした格好の方がいいかなって。一応正社員待遇みたいだし」


「そういや言ってなかったっけな。ウチの会社、基本的に服装自由なんだけど」


「えっ? じゃあパンツスーツなんて浮いちゃうかな……」


 ムダに気合いを入れすぎてきたことに、あたしはどっと落ち込む。服装とメイクだけでなく、髪型もキチッとしたハーフアップにしてきたのだ。


「まぁ大丈夫だろ。自由だから、逆にカジュアルじゃないとダメだってこともないしな」


「あ、そっか」


 さりげなくフォローしてくれた彼に、あたしはホッと胸を撫で下ろした。

 ふと、左手の薬指に指輪をしたままで来たことに気がつく。大智に気を遣わせないように、外して来るつもりだったのに……。

 あたしは指輪を抜き取り、コスメの入ったポーチに滑り込ませた。


「指輪……、外さなくていいんじゃねぇの? お前が既婚者だって、みんなには伝えてあるけど」


「いいの。この指輪は大事なものでも何でもないもん。あの人と別れる時に突っ返すんだから。大智からもらった指輪なら絶対に外さないけど」


「そっか。そりゃ嬉しいねぇ。――あ、一応お前のことはオレの大学時代の知り合いとだけ言ってあるけど。多分、元カノだって即効バレると思う」


「あたしは別に、それでもいいけど。あの人の耳に入らなければね」


 あたしが元カレと元サヤに戻ったと夫が知れば、離婚する時にものすごく不利になる。不貞行為があったのは妻の方ということになるからだ。こっちは結婚という名目で、一億円で買われたに過ぎないのだけれど。そんな個人的な事情は法律上何も構ってはくれない。


「あーあ、お父さんが一億なんて借金作らなければなぁ。あたし、あんな冷血人間のモラハラ男とじゃなくて大智と結婚できたのに」


「――里桜、その借金のことなんだけどさ。何かウラがあったんじゃねぇかってオレは思うんだけど」


「ウラって?」


 大智がいきなりそんなことを言いだしたので、あたしは目を丸くする。父が会社の経営難で作った借金にウラなんてあるんだろうか?


「もしかしたら藤木グループから手が回って、銀行に貸しはがしされたかもしれねぇじゃん? 銀行って大口の融資先の言いなりなところあるからさ」


「それって……、銀行もグルだったかもしれないってこと?」


「ああ。オレ、優秀な弁護士に知り合いいるからさ、そこのあたりちょっと調べてもらおうか? もし借金が仕組まれたものだったとしたら、お前の結婚すのものも無効にできるかもしんねぇぜ?」


「もしそうなったらすごく助かるけど。……えっ? 大智にそんなすごい知り合いいたっけ?」


 起業したこともそうだけど、三年会っていなかっただけで彼はすごく変わった。根っこの部分はあたしが好きな彼のままだけれど、人脈の広げ方とか、どう言っていいか分からないけどとにかくすごい。


「ほら、大学の二年先輩で飯島いいじまさんっていたろ? 法学部の。あの人さ、今めちゃめちゃやり手の若手弁護士なんだよ。オレから一度調査を頼んでみる」


 飯島公平こうへいさんは大智の高校時代からの先輩で、あたしもよく知っている。法学部の頃に現役で司法試験に合格し、卒業後は大手の法律事務所で企業法務を主に請け負っているらしい。


「あたしのために、わざわざそこまで……。ありがと、大智」


「オレも、お前のこと救いたいから。……こんなことになるって分かってたら、あの頃もっと大事にしてたのになって後悔してんだよ」


「大智……」


「オレならもっと、お前のこと幸せにしてやれる。その自信があるから。……だからお前が早く自由になれるように、できることはやってみるよ。とりあえず、今日からは同じ会社の仲間としてよろしく」


「うん。……あ、そうだ。会社では大智のこと何て呼んだらいい? やっぱり社長?」


 彼の会社で働けることになったのはいいけれど、会社のトップである彼のことを何て呼べばいいんだろう? 「大智」と名前で呼ぶのは公私混同な気がするし、会社では社長と社員という関係になるわけだし。


「いや、社長は……ちょっと堅苦しいかな。ウチは役職とか序列とか何もなくてみんな対等だからさ。この際、お前が元カノだってバレてもいいなら大智でいいけど」


「分かった。じゃあ会社でも大智って呼ぶよ」


「オッケー。――もうすぐ着くぞ」


「うん。どんな会社なんだろ……。楽しみだなぁ。あと、ちょっと緊張する」


「そんな緊張することねぇよ。会社の雰囲気は大学のサークルみたいな感じかな。みんな和気あいあいとしてて、賑やかで楽しいよ。男女半々くらいの割合だけど、セクハラするようなヤツは一人もいないし。つうか、いちばんセクハラしそうなのはオレだし」


「あははっ」


 あたしはまた笑った。でも、結婚前に勤めていた商社で実際にセクハラに遭っていたから、大智に何をされたってセクハラだとは思わない。

 むしろ、彼には付き合っていた頃みたいに色んなことをしてほしいとさえ望んでいる。



   * * * *



 ――大智の会社・〈Oプランニング〉が入っているビルは、麹町の一等地の一画に建っている。でも、さすがにまだ自社ビルを構えるほどではないか……。


「ウチの会社は、ここの五階ワンフロアー全体を借りてる。個人で経営してる会社にしてはけっこう広いだろ?」


「うん、スゴいねー。あたし、もっと小ぢんまりしてると思ってた」


「まぁな。頑張って広い物件借りたんだよ。最初は賃貸料払うだけで精一杯でさ、給料はオレの個人資産ポケットマネーから払ってたけど。今は収益も上がってきたからかなり余裕があるんだ」


 だからこそ、彼は今このタイミングであたしにここで働かないかと声をかけてくれたんだろう。


「勤怠の管理は社員証でやってるから。それがIDで、出勤した時と帰る時にこのリーダーにタッチすること。いいな? これを忘れたら、給料の計算が面倒になるから」


「オッケー」


 あたしはさっそく、彼に言われたとおりに社員証を読み取らせる。


「じゃあ、今来てるメンバーに里桜のこと紹介するから。後から来るメンバーには追い追いな」


「はいっ!」


 いよいよ、大智の大事な仲間たちとの顔合わせ。緊張するなと言われても、やっぱりドキドキする……。

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