救世主は元カレ ②

「業種は?」


「ITベンチャー。具体的には、依頼先クライアントのネット環境を調整したり、タブレットを導入してもらったりとか」


「へえ……」


 彼は確か、大学卒業後はどこかの企業に就職していたはずだけど。まさかこの若さで独立していたとは思わなかった。


「里桜は? 今も働いてんの?」


「あー、うん。一応、小さな印刷会社で事務のパートをね」


 あたしは結婚を機に会社を辞めさせられたこと、夫の正樹さんにパート勤めしか認めてもらえないことを打ち明けた。


「ふーん? もったいないなあ。つうか何サマだよ、お前のダンナ? 釣った魚にエサやらないどころか完全に飼い殺しじゃん」


 大智はあたしの話を聞いて、夫のことをボロカスに吐き捨てる。あたしの言いたいことをすべて代弁してくれているので、胸の中がスカッとした。


「家事さえキチンとこなせれば、何もパートにこだわる必要もないんだけどね」

 

 これはあくまで、あたしの勝手な解釈だ。正樹さんあの人は「パートで働く分には構わない」としか言わなかったし。

 でもあたしは、できることなら正社員としてバリバリ仕事がしたい。時間に縛られなければ……ということだけれど、そんな都合のいい話ってあるんだろうか?


「なあ、里桜。転職する気ない?」


「……え?」 


「お前に、オレの会社手伝ってほしいんだけど」


「それって正社員で、ってこと? でも」


 あたしはためらった。正社員待遇たいぐうということは、パートタイマーのように時間の融通ゆうずうはきかないのかもしれない。

 それに、正樹さんに相談したところで許してもらえるのか、という問題もある。――まあ、相談なしに決めたところで、あの人はどのみち怒るだろうけど。


「……ああ、勤務時間のこと心配してるんなら大丈夫だぜ。ウチはフレックスタイム採用してるから、里桜の都合で出社して、好きなタイミングで帰ってもらって構わない。それでも月給制だから、正社員並みの給料はしょうするよ」


「えっ、そうなの?」


 ……フレックスタイム。そんでもって月給制。大智の会社の待遇は、あたしにとって願ったりかなったりの好条件だった。


「里桜、オレはお前と一緒に働きたい。オレがお前を救いたいんだよ。こんなことしかできねえけど……。どうしてか分かるだろ?」


「…………うん」


 あたしがまだ大智を好きなように、大智もきっとあたしのことがまだ好きなんだ。人妻になったって分かってからも、ずっと。

 でも、これって世間的には許されることじゃないんじゃないの? あたし達は今、すごくあやうい橋を渡ろうとしてるんじゃ……。


「……ありがと、大智。でも、すぐには返事できないよ? あの人にも一応おうかがい立てないといけないし、パート先の退職手続きもあるから」


 大智の会社で働くこと自体には、あたしは乗り気だった。会社で社長と社員、もしくは仲間として一緒にいる分には、何の問題もないんだから。

 ただ〝元カレの会社〟だということが問題なのだ。何がキッカケで禁断のオフィスラブに発展するか分からないから。


「……分かった。返事は特に急がないから、里桜の都合がついた時点で連絡してくれたらいい。オレのケータイ変わってねえから」


「うん。でも、できるだけ早く返事するね」


 カゴの中の鳥だって、逃げ場所がほしい。それを、大智カレは用意してくれるというのだ。それなら早ければ早い方がいい。


「……あの、あたしそろそろ帰らないと」 


 もっと大智と話していたかったけれど、あたしにはそうさせてもらえない悲しい現実が待っていた。

 家に帰ったら夕食の支度や洗濯や、その他の家事をあの人が帰るまでに済ませておかなければならない。――あたしのあの家での扱いは、〝嫁〟とは名ばかりで〝家政婦〟とそう変わらない。

 そんなあたしの左手に、大智の大きくて温かな右手が重なった。瞬間、あたしの胸が高鳴る。


「ああ、引き留めてゴメン。……里桜、いい返事期待してるから」


 彼の会社に入ること、彼のそばにまた戻れること。……あたしには何の躊躇ちゅうちょもなくなっていた。


「うん」


「――支払いはオレがしとく」 


 大智がそう言うので、あたしは彼のこうに素直に甘えることにした。


 カフェを出ると、普段からよく買い物をしている高級スーパーで夕食の材料を買い込み、急いでマンションに帰った。

〝マンション〟とはいっても、あたしと正樹さんの夫婦が住んでいるのは三十五階建て・オートロック付きの超高層マンション。ちなみに賃貸ではなく、藤木グループの持ち物である。


 スーパーの店内で迷ったすえに、夕食メニューは豚肉のショウガ焼きときんぴらごぼうに決めた。あたしはこれでも料理が得意なのだ。

 でも、こうしてあたしが一生懸命けんめい考えてお料理しても、あの人は「美味しい」とも「まずい」とも、何も感想を言ってくれないから、料理をする側としては何とも作り甲斐がいがない。

 そもそもあの人は、他の家事についても感謝すらしてくれない。家政婦のやることには、いちいち感謝するのもバカらしいんだろうか。

 別にあたしにだって、好きでもないあの人に恩を売る気は毛頭もうとうないのだけれど。 

 

 一通りの家事をこなした後、いつもならあたしは自分のノートパソコンに向かって小説を執筆するのだけれど。今日はリビングのソファーに座り込み、大智からもらった名刺を見つめていた。


『オレのケータイ変わってねえから』


 大智はそう言っていたけれど、名刺の裏面にはご丁寧ていねいにケータイの番号まで書いてある。あたしが万が一メモリーを消していた場合のことを考えたんだろうか?


「大智……」


 彼はあたしのことをちゃんと覚えていてくれた。ずっと忘れないでいてくれたんだ。そしてまさに今、困っているあたしを救おうとしてくれている。


 あたしは今夜、正樹さんが帰って来たらこの転職話をしようと決めていた。あの人が何と言おうと、もう心は決まっていることも。

 ……だって、あたしはまだ大智に惹かれているから。もう名ばかりの夫の言いなりになるのもバカバカしく思えてきたのだ。

 これはあたしの人生なんだ。だったら、理不尽りふじんな要求に従順じゅうじゅんでいる必要なんてない。あたしにだって、物事を決める権利があるはずだから。



   * * * *


 

 ――夕方六時を少し過ぎた頃。正樹さん帰宅。


「ただいま」


「……おかえりなさい」


 いつものように愛想なく、あたしを一瞥いちべつしただけで、正樹さんは着替えをしに寝室横のウォークインクローゼットへ消えた。


「――なんだ。今日はあの下らない小説は書いてないのか?」 


 着替えを終えてリビングに戻って来た彼は、ローテーブルの上にパソコンがないことに気づいたらしく、イヤミったらしくあたしにそう訊いてきた。


「はい。今日は他に考えることがあったので。……ゴハンできてますけど」


 〝下らない〟というセリフにはカチンときたものの、もう腹を立てることもバカらしいので抗議するのはやめた。代わりに、思いっきり事務的な言い方で切り返す。


 どうせあたしは〝家政婦代わり〟くらいにしか思われていないんだから、それをさかに取ってやればいいのだ。いつもやられっぱなしでいるほど,あたしは弱くないから。


「……そうか。じゃあ、メシにしてくれ」


「はい」


 ぐうの音も出なくなった正樹さんに向かって、あたしは内心ガッツポーズをした。



 ――夕食後。キッチンで洗いものを終わらせたあたしは、リビングでタブレットをいじっていた正樹さんに転職話をぶつけてみた。


「正樹さん、大事なお話があるんですけど」


 彼は「何だ?」とも何とも言わず、リビングに戻って立ったままでいるあたしに視線だけで応える。あたしは構わずに話を続けた。


「あたし、転職しようと思ってるんです。知り合いが少し前に始めた会社があって、今日『手伝ってほしい』って誘われて。正社員待遇なんですけど」


 彼が次に何を言うのかはもう予想がついている。


『そんなの認めない』


『許さない』


 でも、あたしは引き下がるつもりはない。もう決めたから。


「正社員っていっても、月収制ってだけで。時間はフレックスだから早めに帰って来られるんです。家事をするにも差し支えありません」


 タブレットから顔を上げた正樹さんのまゆが、ピクリと動いた。


「あたし、やっぱりパートよりも会社勤めがしたいんです。『自分も社会の中の一員なんだ』って実感したいんです。福利厚生だって、正社員の方が絶対いいし。だから――」


「そんな勝手なこと、おれが許すと――」


「『許さない』なんて言ってもムダです。もう先方にはOKの返事しちゃいましたから」


 どうせ「許さない」と言われるだろうと思い、あたしは先手を打った。――でも、「返事をした」というのはハッタリだ。もちろん大智の誘いには乗るつもりでいるけど、まだ返事なんてしていない。


 ただ、この話だけは正樹さんに反対されたくなかった。そのためには、あたしがもう返事をしたんだと、もう決まっているんだとこの人に思わせたかったのだ。


「今の職場の退職の手続きもキチンとします。入社はそれからでもいいって言われてますから」


「里桜……、そんなことで、俺がお前の転職を認めると――」


「あなたに認めてもらう必要なんてないでしょう? あたしはあなたに雇われてるわけじゃないんですから。あたしが決めたことに、あなたが反対する権利はないと思います」


 あたしはこの際だから、言いたいことをズバズバ言ってのけた。あたしがちゃんと自己主張できる女だということを、この分らず屋の夫に知ってもらいたかったのだ。


「里桜」


「とにかく、あなたが反対してもムダです。この話はもう終わり」


「里桜!」


「お風呂のお湯、入れてきます」


 言いたいことをすべて言い切ったあたしは、正樹さんに背を向けてバスルームに向かった。


「…………分かった。お前の好きにしなさい」


 押し問答もんどう白旗しろはたげた彼は、悔しそうな口調であたしの背中に向かってそう呟く。 


「よしっ! 勝った!」


 バスタブにお湯を張る音に紛れるように、あたしは小声で言った。

 あたしは元々、言いたい放題言われっぱなしで泣くようなひ弱な女じゃないのだ。これまでの二ヶ月間は猫をかぶって大人しくしてきたけれど、今回だけは譲れない。

 大智との楽しいオフィスライフ、そして秘密の恋の続きだけは誰にもジャマされたくない。――たとえそれが、世間からは許されない恋だったとしても。

 だって本当は、家の事情さえなければ、あたしは大智と結婚できたかもしれないんだから――。


 とはいえ、「好きにしろ」と言われたんだから、あたしが好きにしていいことはこれで確定したのだ。

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