四 魔導の結果

「貴様に必要なのは〝神〟のもう半分──つまりは俗世の欲望、それによこしまな悪の道についてだ。〝神〟に近づきたいのならば、その半分の面に関しても学ばなけりゃいけねえ……どうだ? もしも望むんなら俺が伴侶、召使、あるいは奴隷の如く貴様に仕え、享楽の限りを尽くして欲望と悪徳の道を指南してやる。今の貴様に足りねえその半分を補えば、叡智への道が開けるって寸法だ」


 そして、いよいよ彼らの側が召喚魔術に求める目的──〝悪魔との契約・・〟の話をメフィストは持ち出した。


「ただし、その対価として死後に貴様の魂をもらい受ける。なあに、対価の支払いは死んだ後の話。死んだ後なら別にかまわねえだろ? それでこの現世において、ありとあらゆる享楽を堪能できるばかりか〝神〟へと至る叡智まで手に入るんだからな」


「神へ至る叡智……い、いや、騙されんぞ! そうやってうまいこと言って人間をたぶらかし、姑息に魂を奪うのが悪魔の常套手段であろう!?」


 不覚にも、その甘くて蠱惑的な話にうっかり乗ってしまいそうになるが、途中で理性を取り戻すときっぱりとその条件を否定する。


 けして悪魔と魂のやりとりをしてはならない……それも魔導書に記されている召喚魔術の基礎中の基礎だ。


「信用ねえなあ……よし。なら、こうしよう。俺はさっき言ったように享楽の限りを貴様に味合わせてやる。もしそれで貴様が叡智に至り、その人生に満足ができたならば、その時は対価として魂をいただく。だが、逆にそれでも満足ができなかった場合は、契約不履行ということで魂の対価もなしだ。どうだ? どっちに転んだって損な話じゃねえだろ?」


 だが、悪魔も簡単には諦めない。危うくも契約をきっぱり断ると、今度はかなり譲歩した代替案を出してくる。


「うーむ……」


 しかし、それならば確かに悪い話ではないかもしれない。わしが満足しなければ悪魔の狙いもそれまでだし、もしも本当に叡智を得られるのであれば、対価の魂などお安い御用だ。


「……よし。わかった。その条件を飲もう。だが、魂をやるのはわしが本当に心底満足をした時だけだ。いいな?」


「ああ、ルシフェル皇帝陛下と〝神〟に誓って約束しよう。じゃ、これで交渉成立だな……けど、となるとがいるな……お! いいのがいるじゃねえか。そこの犬、ちょっと借りるぞ?」


 しばし熟考の末、わしがその条件で取引を受け入れると、悪魔はにんまりと悪どい笑みを蒼白い顔に浮かべ、それから何かぶつぶつ呟くと、枯れ枝のような指でヴィルヘルムの方を指差す。


「ヴィルヘルムを? いや、これでも大切な愛犬なんでな。犬といえどもどうかされては困る」


「なにもとって喰やしねえよ。ただ肉体を借りるだけだ。儀式中はいいんだが、その後も霊体のまま現世に留まるのには少々不都合がある。だから憑代よりしろとなる肉体が必要なのさ。安心しろ。取り憑いたところで悪影響はねえ」


 さすがにヴィルヘルムを生贄に差し出すわけにはいかず、困り顔で首を横に振るわしであるが、どうやらそれは勘違いだったらしい。


 確かに召喚魔術が終われば、悪魔は地獄なり霊界なりに帰るものであるようだし、悪憑きも人間に取り憑いてこの世に留まっている。メフィストが言うように、長時間、霊体として存在し続けるのには限界があるのだろう……。


「ああ、そういうことか。まあ、無事ならば別にかまわんが……」


「んじゃ、そんなわけで犬を魔法円から出してもらえるか? そいつは一種の結界だ。俺達悪魔には入ることができねえからな」


 そういう事情ならばとわしが許可すると、悪魔はそう言って細い顎髭で私の足下を指し示す。


「クゥン、クゥン…」


「大丈夫だ、ヴィルヘルム。別に怖がるようなことはしない……はずだ」


 足下に描かれた魔法円は、確かに術師を悪魔から守るものでもある……わしは怯える愛犬の脇腹を抱きかかえると、強引に魔法円の外へと引きずり出した。


「ワン公、悪いがちょっと身体借りるぜ……」


「ワン! ワン! ワン…キャィィィーン……」


 それを見た悪魔は宙を滑るようにしてヴィルヘルムへと近づき、その半透明に透けた身体を黒犬の肉体へと重ねる……その瞬間、咄嗟に吠えかかったヴィルヘルムは弱々しい鳴き声をあげたきり、急に静かになってしまう。


「ヴィルヘルム! 大丈夫か!?」


「……フゥ……なんかこの身体、思いの外にしっくりくるな。気に入ったぜ」


 愛犬の異変に慌てるわしだったが、僅かの後、ぶるぶると全身を振るって顔をあげたヴィルヘルムは、驚くべきことにも人の言葉を……いや、悪魔メフィストの声を発したのだった。


「ヴィルヘルムはどうした!? あいつの魂はどこへいった?」


「心配すんな。ワン公はこの身体の奥深くでただぐっすり眠ってるだけだ。俺に取り憑かれたことにすら気づいちゃいねえ」


 驚くも愛犬の身を案じるわしに、悪魔はヴィルヘルムの顔でそんな言葉を返してくる。


「な、なればよいのじゃが……しかし、人語を喋る犬とはなんとも珍妙だの。今後はずっとその姿ですごすつもりか?」


他人ひとに見られてマズイ時にはな。でも、必要な時は人の姿にもなれるぜ? ほら、こんな風にな……」


 こればかりはヤツの言葉を信じるしかないが、まあ、嘘を吐く必要もないからたぶん大丈夫だろう。一安心したわしが何気に抱いた感想を口にすると、またもや驚くことにも悪魔は愛犬の姿から、今度は人の形へと再び変容する。


 それは先程見た、全身真っ赤な服装をした悪魔の姿である。だが、今度は透けてはおらず、山羊の角やコウモリの翼もなくなっている。細長い顎髭だけは健在だ。


「ほう。人の姿にも変身できるのか。さすがは悪魔じゃの。いったいどういう仕組みじゃ? 錬金術の鉱物変成みたいなものか? てか、そんなことしてヴィルヘルムの身体は大丈夫なんじゃろうな?」


「なに、本当に肉体が変化してるわけじゃねえ。見る者の心を弄って、そう認識するようにしてるだけだ。ま、そんでも相手にとっちゃあ実際に変身してるのと違わねえんだけどな」


 素直に感心し、学者の性分から思わずあれこれ尋ねてしまうわしだったが、意外にも悪魔は親切に説明してくれる。


「さ、んなことよりも契約の履行だ。こう言っちゃなんだが、享楽を満喫するのに貴様はあまりにも爺さん過ぎる。まずは心身ともに若返るとこからだな……どら、いい魔女を紹介してやるから、そいつに若返りの薬をもらおう」


 そして、不意に話題を変えるとわしを促し、召喚魔術の儀式を終えるのも待たずに門の方へと歩き出した──。

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Das Buch des Teufels 〜悪魔の書〜 平中なごん @HiranakaNagon

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