三 魔導の儀式

 正装といっても、この魔術におけるそれは司祭の祭服とは異なる。赤糸で魔術的記号を刺繍した白のリネン製ローブに、やはり赤字で記号の施された革製ブーツを履き、神聖文字を記した羊皮紙の冠を被るのだ。


 さらに右胸には仔牛の革の五芒星ペンタグラム、左裾には金属製の六芒星ヘキサグラムの円盤を着けるのが悪魔召喚魔術に臨むための正式な装いである。


 やはりこれらも準備の九日間のうちに、慣れない手芸を頑張ってわし自らが制作したものだ。


 また、同行するヴィルヘルムも『ソロモン王の鍵』の指示に従い、聖水で洗い、香を焚き込めて浄めてある。


「ではヴィルヘルム、始めるぞ」


「ワン!」


 足下にうずくまる愛犬に合図を送ると、手にしたラッパをわしは口を咥える。


 プァァァァァァ〜…!


 そして、静まり返った深夜の郊外に甲高い音色を高々と響き渡らせた。儀式を始める合図である。


「霊よ、現れよ! 偉大なる神の徳と、知恵と、慈愛によって! 我は汝に命ずる!」


 続けて、もうもうと芳しき煙が香炉より立ち上る中、右手に魔法杖ワンド、左手に金属製の円盤ペンタクルを掲げ、悪魔を呼び出すための〝通常の召喚しゅ〟を読み上げ始めた。


 円盤ペンタクルとは、呼び出した悪魔にこちらの言うことを聞かせるための魔術武器だ。そこに記された魔術的な紋様に悪魔は弱いのである。


 それもまた自身で作り、聖別したものであるが、今回、わしがしつらえたのは〝水星第四の円盤ペンタクル〟である。


 『ソロモン王の鍵』には太陽・月・火星・水星・木星・金星・土星の七曜×7種、計49種の円盤ペンタクルが掲載されているのだが、水星の第四は「あらゆる智慧・秘密を理解」させる効果があるというので、我が求めるものには最適だとこれを選んだ。


「… 霊よ、現れよ! 偉大なる神の徳と、知恵と、慈愛によって! 我は汝に命ずる! …… 霊よ、現れよ! 偉大なる神の徳と、知恵と、慈愛によって! 我は汝に命ずる!」


 その円盤ペンタクルを頭上に掲げ、前方の暗闇に魔法杖ワンドの切先を突きつけたまま、わしは〝通常の召喚しゅ〟を幾度となく唱え続ける……だが、一向になんの変化も起きようとはしない。錬金術の錬成実験以上に根気と忍耐力の要求される作業だ。


「ならば……霊よ、我は再度、汝を召喚する! 神の呼び名の中で最も力あるエルの名を用いて!」


 それでも応えようとしない悪魔に剛を煮やしたわしは、右手の魔法杖ワンド短剣ダガーに持ち換え、また呪文も〝さらに強力な召喚呪〟に切り替えた。


 これも『ソロモン王の鍵』に書かれた、〝通常呪〟で効果が現れない場合の対処法である。


「……霊よ、我は再度、汝を召喚する! 神の呼び名の中で最も力あるエルの名を用いて…」


 漆黒の闇を短剣ダガーで斬りつけ、〝強力な召喚呪〟も唱え続けることなお数十回。ついにその時がやってくる……。


「…グルルルル……ワン! ワン! ワン! ワン…!」


 その異変を察し、それまで大人しくお座りしていたヴィルヘルムが耳をピンと立てると、鋭い牙を剥いて激しく吠え立たてる。


 ヴィルヘルムが威嚇する前方の闇……何もない空間であるはずのそれが、まるで黒い壁ででもあるかのようにピキピキとひび割れ始めた。


 また、それとともにパーパパパパ~…!とファンファーレの音が響き渡り、まるで宮中の舞踏会の如く楽団の調べがどこからか聞こえてくるではないか!


「……!」


 そして、楽団に荘厳されながらひび割れた闇が崩れ落ちると、夜に開いた裂け目からその異形の存在が威風堂々と姿を現した。


 それは、毛むくじゃらの身体に鷹のような翼とくちばさはを持った、いわばグリフォンのような半透明の獣の形をしている。


 だが、そう見えたのはごく僅かの間のことだった。それはすぐに形を変え始め、見る間に赤いプールポワン(※上着)と赤いキュロット、赤いタイツにやはり赤いケープマントを羽織るという全身真っ赤な人の姿へと変身する。


 ただし、それは完全な人間の形をしてはいない。頭には二本の山羊の角を生やし、背中には黒いコウモリの翼、やけに細長い脚先にはロバの蹄までが付いている。また、異様に蒼白い顔に蓄えた細長い顎髭が妙に印象的である。


「グルルルルル…」


 足下では立ち上がったヴィルヘルムが牙を噛みしめ、および腰になりながらもなお威嚇している。


「お、おまえが悪魔か……!?」


 一方のわしは、恥かしながらも初めて見る悪魔になんとも間抜けな質問をしてしまう。


「ああん? ……ああ、そりゃそうだろ。悪魔召喚して、こんな風に現れるやつが他にいるか?」


 するとその赤い悪魔は腕組みをし、わしを侮蔑するように光る眼で見下しながら言った。想像していたよりも若々しく、なんだか軽薄な声色だ。


「だが、悪魔にだってちゃんと名前がある。俺の名はメフィスト・フェレス。ルシフェル皇帝直属の配下だ。こうしてわざわざ来てやったこと光悦に思えよ? 人間」


「わしにも名前がある。わしはドクトル・ヨハン・ゲオルク・ファウスト、四学を究め、博士号を持つ大学者だ。ならば問う、悪魔メフィストよ。悪魔が人に智慧を授けてくれるというのはまことか? 人が神に近づくための叡智グノーシスを!?」


 なんだか上から目線で嫌味を言う悪魔に、思わず張り合ってわしも名を名乗ると、くだらぬ社交辞令などすっ飛ばして早々本題を切り出す。


「ああ、本当だ。すべての悪魔がってわけじゃねえけどな。ちなみに俺は当たりの方だ。数いる悪魔の中でも俺が召喚に応じたのはそのせいだ。貴様が持ってるその円盤ペンタクルはあらゆる智慧と世界の秘密を術者に与えるものだからな」


 わしの質問に、悪魔メフィストは細長い指の尖った爪で〝水星第四の円盤ペンタクル〟を指し示し、そんな答えを返してくる。


 なるほど。特にどの悪魔を召喚するか指定はしていなかったが、それでこの悪魔が引き寄せられたのか……やはり、魔導書に打開の道を求めたのは成功だったようだ。


「そうか……では、早くわしにその叡智を与えてくれ! わしはこれまで学問にこの身を捧げ、四学も錬金術も占星術も究めた。しかし、一向に賢くはならず、ましてや神に近づくことなど夢のまた夢! これ以上、何を学べばよい? どうすれば神へ近づける!?」


 糸口を掴んだ興奮に、これまで溜め込んでいた苦悩を吐露するかの如く、わしは悪魔を問い質す。


「フン……何を学べばいいだあ? だから貴様はダメなんだよ。まさに机上の空論。貴様は机の上でのお勉強しかしちゃあいねえ……神に近づきたいと言ったな? では、その〝神〟とはそもそもなんだ?」


 すると、悪魔は鼻で笑い、今度は悪魔の方から物知り顔に当たり前のことを尋ねてくる。


「神とはなにか? それはもちろん、すべてを司り、この世界を創りたもうた万能の存在だ」


「ああ、その通り。この世界を創ったのは〝神〟であり、別の言い方をすりゃあ、この世界そのものが〝神〟だ。ゆえにそこにはすべてが内包されている……貴様らがありがたがる神聖だの正義だの理性だのとともに、それと相反する俗物や邪悪、欲望なんてものもな。もちろん、クソむかつく天使どもや俺達悪魔もだ」


 悪魔の質問に、何を今さらとわしは即答するが、するとメフィストはそれを逆手にとって、なんとも奇妙奇天烈で不愉快な理論を展開し始める。


「な…! 悪魔や俗悪なものも神の一部だとぬかすか!? ありえぬ! それらはむしろ神から最も遠きものではないか!」 


 そのあまりにもバカげた論説にわしは声を荒げ、一蹴しようとしたのだが……。


「じゃあ、なんで俺達悪魔が存在する? なぜ、この世は悪や俗的なもので溢れていると思う? 〝神〟がこの世を創ったのだろう?」


「う……」


 悪魔のその反論に、図らずもわしは口を閉ざしてしまう。


 ……確かに。全知全能の神がこの世界を創ったのならば、本来、神とは相入れぬ要素は初めから存在していないはずだ。その後も神がこの世を統べておれば、途中で発生を許すということもありえぬ……にも関わらず、なぜ、こうして悪は存在する? 現に今も眼前には悪魔が実在しているではないか!


 メフィストの言うことに矛盾はない……矛盾しているのは、むしろ我々の常識の方だ。


「さすがは大学者の博士さま。ようや具材矛盾に気づいたようだな。貴様ら人間…特にプロフェシア教徒なんて輩は、その矛盾に目を瞑り、ずっと偽りの〝神〟を説いて自らを欺いてきた。ま、イェホシアの旦那はそこら辺のことをそれなりにわかってたみてえだけどな。いかんせん、続くアホで愚かな弟子どもがいけなかった……」


 天地のひっくり返るようなその認識の転換に、呆然と立ち尽くすわしに対して悪魔はさらに言葉を紡ぐ。


 まるで、〝はじまりの預言者イェホシア・ガリール〟を知っているかのような口振りだ。アホで愚かな弟子とはなんとも不敬だが、初代預言皇・聖ケファロや直弟子の十二使者のことか?


「貴様もその煽りを食った一人といったとこか。まあ、頭でっかちな学者先生にはよくあることさ……貴様はこの世界の──即ち〝神〟というものの半分しか学んじゃあいねえ。それじゃあ〝神〟に近づけないのも当然ってもんだろう」


 こちらの心の内を見透かすかのように、ずっと黙ったまま反論できずにいるわしに対して、能弁な悪魔はさらに続ける。

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