ある古着屋の最後

四宮 式

本編

 大分駅から真っすぐ伸びているメインストリートを横にそれ、少し西に向かって歩いたところに築40年、4階建てほどの古ぼけた一棟の雑居ビルがあり、その中に古着屋が入居している。建物自体が古い作りで採光や風通しのことがあまり考えられておらず、古着屋がある2階に至る階段は建物の内側にあって全体的にじめっとした印象を与える。


 そのじめっとした印象は、きらびやかな表通りと比較するとやたらと強調されて見えてしまう。町の中心である大分駅も大規模な再開発が10年ほど前に行われたばかりだ。駅に隣接して建てられた大きな商業ビルの中には映画館とか雑貨店とかゲームセンターとかお洒落な喫茶店とかが立ち並び、まだ真新しさの残る建物の中でさながら小さな東京として機能して若者に大人気となっている。


 地方にとっての小さな東京を舐めてはいけない。これを読む読者諸君は現在の日本の人口比率的に都会の住人が多いのであえて付け加えるが、東京に比べ、田舎の若者向け娯楽産業の少なさといったら、それはそれは悲しいものなのだ。多少あったとしても車社会で一つ一つの施設は離れているから、運転できない学生たちはブツブツ言いながら、一時間に数本もないバス路線で、散在する娯楽施設にわざわざ行くしかない。


 そこにポンと10年前、交通の便が県で一番良い大分駅前に、すべてを兼ね備えた施設ができたのである。革命と言っていい。何しろこの商業ビルがいかに素晴らしい建物なのか、建築から10年経った今でもまだ市民の話題に出るほどなのである。


 若者たちはとにかく、この小さな東京を好む。そしていつか上京し、本物の世界一の都市の中で、オフィスワーカーとして働くことを夢見る。地方で生きる彼らにとって、東京とはまさに夢と憧れの象徴であり、それがどのようなものなのか教えてくれる場所が駅前の商業ビルなのである。そして、彼らは本当に東京へ行ってしまう。霞が関がいくら知恵を絞っても止められない地方から東京への人口流出である。


 そうした、いわば時代の大きなうねりが渦巻く大分駅前から古着屋へは、何本も通りを横切らなければたどり着くことができない。通りを一つ横切るごとに、立ち並ぶ建物の真新しさが段階的に減っていく。外壁の塗装に気を遣うことがなくなり、夜になっても一部の蛍光灯に電気がつかないままになる。


 こうした古い建物の並びには時折改修されたばかりの真新しさを伴うものが混じっているのだが、なにせ周囲の人通りが少ない。どうも人がいない状態での新しい建物というのは、きらびやかさよりもの悲しさのほうが勝るものである。


 古着屋は、こうした街並みの一角にあった。ビルの入り口はちょうど道路からドアまでが少しへこんでいて、扉の前が風に吹かれた枯葉の吹き溜まりになっていた。

扉を開けて、中に入って狭い廊下を歩くと白熱電球で明かりが確保された階段が見えてくる。途中扉があって、「スナック 赤根」と書かれているのが薄く辛うじて見える。閉店したスナックの跡らしい。人がすれ違えるかどうかといった広さの階段を上ると左手に鉄の扉がある。その先が、古着屋である。


 一か月前、僕は友人に連れられてその古着屋に行った。時代のうねりから取り残された古着屋の中には、これまた以前の主から不要と判断された洋服が所狭しと並んでいる。友人は並べられた古着の数々から自分の好みや相性に合ったものを選び出し、見事に着こなしてみせるのである。彼は就職して東京に行っても、大分に帰省するたびにここの古着屋を訪れては古着を買うらしい。今回も少ない休みの中でわざわざ時間を使って、その古着屋へ行く。


「どうして古着なんだ。東京に入って金回りもいいんだろうし、新品でいいじゃないか」


 と前に一度聞いたことがある。


「古着はね、新品しか扱わない服屋よりも種類が豊富でいいんだ」


 というのが、彼の持論だった。曰く、古着や基本が誰かが使った後に売られていくものだから、良くも悪くも雑多で統一感がない。だから流行や季節に影響される普通の洋服店よりも豊富な種類の服があり、結果的に自分に合うものが見つかりやすいのだと思う。


 本来は不要されたものを自らの装飾として価値を与えるのである。友人はそうやって価値を見出した古着を購入し、最新、それも世界一の人口を誇る東京都市圏の中心である赤坂とか原宿とか渋谷とかといった街を闊歩するのである。採光の悪い日陰になっている店の中にある、これまた雑多なハンガーラックに大量にかけられている古着の山の中から一着を引っ張り出して、再び太陽の下に活躍の機会を与えるのだ。


 ただ友人は、必ずしも古着目当てのみでそこに通っているのではなかった。古着店の店主の愛想が実によく、友人の目的の半分以上は彼女と話すためである。友人はそこで服装のことだけではなく恋愛相談や進路相談までし、実際にその相談は自らの選択に影響を及ぼしたらしい。


 私は生憎とファッションというものを楽しんだことはなく、もっぱら自らの必要最低限の社会性を世に渋々アピールするためだけのものだと思い込んでいた。だから友人に連れられて行ったときは古着というよりは、どちらかというと店主のミカさんのほうに感心が向いた。


 友人が、彼が四宮くんです、と私を紹介してくれた。


「あなたが四宮さんですか。すでに話は聞いていますよ」


「ええ、あれ、ひょっとして」


「ここで彼からお話は聞いていましたから。一方的に知っていました」


 そう言ってミカさんはころころと笑った。とにかく人と話すのが好きなのだ、ということが全身からあふれ出ているような方だった。


 ミカさんの話を聞けば聞くほど、ここがただの古着店でないということが分かっていった。ここは古着店のくせに窓際にテーブルと椅子が2つ置かれ、その上に湯沸かし器と紙コップ、インスタントコーヒーが置かれているのである。ミカさんはそこで、来た客と様々な雑談を楽しむ。そこに別の客が来ても、持ち前のコミュニケーション能力を発揮してテーブルに巻き込んでしまう。


 それを頻繁に繰り返すうちに、気が付いたら客同士が仲良くなっているということも起こりうる。そうやって、どんどんこの店を拠点にいろいろな人がやってくるようになるのである。なるほど友人が進路相談をしに来るわけである。この場所は必ずしも、誰かが使い古ったあとの洋服を買う場所というわけではないということだ。


 僕が初めて行ったときも、ミカさんはいろいろと店の話や古着の話をしてくれた。それだけでなく貴方のことも教えてくれと言い、僕の下らない話を感心して聞いてくれた。読書好きなことを話したから、ミカさんは自然な流れで何冊かの本を僕に勧めた。店は自分の商売である古着だけではなく仲の良い個人事業者の商品も取り扱っており、本はそのうちの一つである。僕はその中から2000円ほどの本を一冊選んで購入した。


 僕は個人的に店の雰囲気をいたく気に入った。ところが、僕がその古着店に通うことはできなかった。最初に訪れた時点で既に閉店の日時が決まっていたのである。明確な理由はミカさんからは聞いていないから分からない。ただ、近頃の水道代に電気代、家賃といった固定費の激烈極まりない上昇が個人営業の小さな服飾店の台所に影響を及ぼさないはずがないことは、社会人を数年経験した者であれば誰しもが想定できることだ。


 最後の営業日は11月末の土曜日だった。その日は最後なのだから皆で楽しんで終わろうということで、店内を使ってフリーマーケットが開催された。私が友人と一緒に雑居ビルに顔を出すと、小さな店にはちきれんばかりの客がいたのでびっくりしてしまった。数多くの常連客が、この店の最後に立ち合いに来ていたのである。フリーマーケットの出店者も誰もがミカさんの知り合いに違いない。


 輪の中心であるミカさんは忙しそうに色々な客と話したり、古着の会計にいそしんだりしていている。それでも私と友人の顔を見つけるとわざわざ会話を止めて、


「いらっしゃい!来てくれたんだ、ありがとう」


 と言ってこちらに来た。


「すごいですね、今日は」


 ミカさんは前回訪れた時と全く同じ笑顔のまま、


「最後だからって、みんな来てくれたのよ」


と言い、そのまま


「あ、そうだそうだ。遠藤さん。この方なんですけどね」


と、それまで話していた客に私の紹介を始めた。


 客は私より二回りは年配だろうという中年の紳士である。にも拘らずミカさんを介して二言、三言言葉を交わして、別の客の相手をしに去ったとき、既に紳士と私は友人となっていた。その手腕たるや圧巻と言うほかない。そこから十分少々、私と紳士は互いに下らない会話を楽しんだ。


 とはいえ、フリーマーケットに足を運んだのである。せっかくなら、何かを買って帰らねばなるまい。友人は今日、どうせ来るならお前に合う古着を選んでやろうと意気込んでいたから、彼に適当に見繕ってもらってそれを買って帰ろうと思っていた。

だがそれは友人の方便だったらしい。実際には私を着せ替え人形にして遊びたかっただけなのである。彼は店内で池袋で態度の悪い兄ちゃんが着てそうな小洒落た服を私に着せて


「お前には似合わないなあ」


 と言ったり、どこから売られたかも分からない、しかし保存されていて充分実用に

耐えうるハンテンを着せて、


「うん。これじゃあ電気屋の売り出し人だな」


 と言ったりする。そのたびに私が分かっていることを確認するなとか、洋服の上に着たらだれでもそうなるだろうと言ったりするから、いつの間にか数人のおばさまが私と友人のやり取りを見物して笑っていた。仕方がないので、ハンテンを着たまま、


「え~奥様。今歳末大売り出しなんですけど炊飯器とかどうですか。今なら製品によっては4割引ですよ。」


 と気取ってみたところ一同大爆笑と相成った。


 しかし、何を着ても肝心の、しっくりくるものがない。元々顔が古い作りをしていて今の洋服が大体に合わず褒められるものと言えば着物ばかりだったからある程度覚悟していたのだが、それにしてもここまで無いとさすがに感じるものがある。


 友人だけではなくおばさまたちも私を着せ替え人形にするようになってしまった。ああだこうだと僕を使って遊ぶ。そのたびに友人が下手な悪口を吐く。一通り済んでから、なんだかおばさま方に変な奴だと思われているだろうと思い、


「変でしょう。すみません初対面なのに」


というと、


「ここには変な人しか来ませんから。あなたはマトモなほうに見えますよ」


 と返ってきた。初めて会うに向かって「マトモなほうに見える」とは中々だが、とにかく店全体にフリーダムな空気に満ちていて不快な気分にさせないのである。ミカさんの普段の底抜けの明るさだったり、誰でもお茶を一緒に誘う懐の広さだったりが、ふんわりと参加者全員に共有されている。


「そうですか、そりゃあいいや」


 という返事が、素直な気持ちで言葉に出た。


 そういえば、おばさまはご自分のフリーマーケットのブースを持っていらっしゃる。ブースの棚には古本がたくさん並べられていた。せっかくご縁ができたのである。着せ替え人形を引退した私は彼女に一言断って、本を物色した。基本は古本だったが、目立つ場所にある本はラッピングがされており新品に見える。


「あれ、これは新品ですか」


「そうです、そうです。こっちは新品です。私、実は本屋をやっておりまして」


 聞くところによると彼女は地元では有名な本屋の一角を借りて週2回、本屋を開いているのだという。普段はその本屋の店員をやっており、自分が気に入ったり知り合いが出版したりした本を自費で仕入れて、週2回だけ売る。なんとびっくり、私が昨月初めてこの店で購入した本は、彼女からミカさんに託されて売られている本だったのである。


「あ、あの本ですか。ありがとうございます。おもしろかったでしょう」


 彼女はそう言った。万人受けするとは言い難いような気もするタイトルと内容だったが、私のような人間が好くに違いないと確信を得たうえでの発言だろう、全くもってその通りである。


 私はその後本に全く興味のない友人を置いてけぼりにして、彼女と本の話題で盛り上がった。友人は5分もしないで興味をなくして、他の客とおしゃべりをしに行ってしまった。文学のわからないやつだ。


 おばさまの本屋からは前から気になっていた小説を見つけたのでそれを購入した。ほかにもフリーマーケットの出し物をめぐると、手作りのアクセサリーやステッカー、自作の見事な油絵を売っている方までいた。とにかく、各々が自分たちが出したいものを出しているのだ、ということが表情やしぐさからありありと伝わってきた。


 そうやってしばらくの間店内で過ごしていると、ミカさんが「あと20分でお芝居とライブがありますよ!」と大声で告知した。

 

 なんでも閉店を惜しんだ常連客に役者と弾き語りのできる方がいて、フリーマーケットの締めに舞台に上がってくれるらしい。おばさまたちとおしゃべりを楽しんでいると、20分はあっという間に去った。それまで別の場所で用事をこなしていたという役者が玄関からいそいそと現れたが上の服も下の服も濃い赤紫色というあまりにも奇抜な見た目をしていた。普段は演劇をやっているというがあまりに素っ頓狂な見た目をしているため、一見ではチンドン屋にしか見えない。


 それでいて腰が低いのがかえって目立つ。チンドン屋は


「こんにちはぁ。すみませんお邪魔します」


 と言いながら皆に迎えられて店の中に入っていった。その場にいるほとんどが知っている者らしく、また変な恰好してるよと、さして気にしていないようだった。


 ミカさんが、お芝居が始まりますよ、という。その場にいた者が客も店員も関係なく、店の真ん中に椅子を出して即席のステージをあっという間に作ってしまった。チンドン屋はその中をドウモドウモと照れ臭そうに笑いながら、ダンボールやオモチャの日本刀といった何を使うか分からない小道具を抱えて、即席ステージに登っていった。これまた即席の観客席に座った周りの客は知り合いらしいが、こっちは店に来て二度目の新参者なのである。一体全体どんなものを見せられるか戦々恐々としていると、チンドン屋が


「えー、それでは」


 と一言発した。それだけでそれまで同窓会然としていた店が、ぴりっと糸が貼ったように静かになった。チンドン屋の中身は、確かに役者であった。


 劇は即興劇……その場で内容を決めながら話していくというものだった。舞台は閉店したあとの古着屋、つまり、このフリーマーケットが終わった後の店内で、主人公はミカさんだった。ミカさんはすべての荷物が片付けられがらんどうになった店内で、最後の確認をしようとする。すると、ミカさんの前に黒服の男が現れ、男に自分の望みが叶う世界へ案内される。案内された世界でミカさんは大成功を収めるが、最後は元の世界での自分の選択を信じるべきだという理由で再び閉店した古着屋の店主という立場に戻る、というものだった。


 役者は、これを即興で作り上げたのである。まさに名演、万雷の拍手となった。終わってから投げ銭があった。箱の中には500円玉や1000円札がためらいなく投げ込まれていく。自分も手元から500円玉を投げてふと役者を見るとさっきまでの堂々とした佇まいはすっかり消えて、腰の低いチンドン屋に戻っていた。彼は回り切った投げ銭箱をしまうと、


「それでは、私は次の予定がありますのでこれで。ミカさんも皆さんも、楽しんでくださいね」


 と言って赤紫の目立つ服を着たまま風のように店を出て行ってしまった。


「このあと、駅前広場の芝居小屋に行くらしいんです」


 呆気にとられた観客に、ミカさんが補足をした。


 その後は予定通り、自分の背丈くらいはあるだろうコントラバスを抱えた中背の男性が弾き語りを披露することになった。こちらは先ほどの意外性の塊のようなチンドン屋……失礼、役者とは異なり、黒いコートとハットをかぶった風貌がコントラバスと絶妙にあっており、イメージ通りである。


 軽い挨拶を済ませて彼は楽器を構えた。弾き語りでコントラバスをどのように使うのかとおもいきや、弓は使わずピッツィカートのみの演奏だった。弓を持たないだけ片腕が自由になり、その分、声も出しやすくなるように見える。


 また再び、自然と店内が静かになった。先ほどの役者が一声で糸を張ったのとは対照的で、こちらはコントラバスと歌声で徐々に主役になっていった。コントラバスの音色は低いわりには弦楽器特有の落ち着きを持っているから個人的に好きだ。


  ゆっくりとしたコントラバスと歌声を聞きながら、パイプ椅子に座っている人々を見渡した。年齢も立場も異なるような人ばかりだ。普通、こういうのは何かしらの傾向が出るものなのだが、ここにはそういったものが全く感じられなかった。どんな人でもこの場所を訪れ、この場所の一員になっていいのである。店主であるミカさんが、これを実現させているに違いなかった。


 最後の歌詞が紡がれ、コントラバスの弦の響きが静まって弾き語りが終わり、それと同時にこの店の最後の営業日が無事にすべて終わった。奏者によってミカさんが壇上に上がって一礼すると、小さな店の中いっぱいに大きな拍手が響き渡った。


 ここまでやってなお、煌びやかさという点においてこの古着屋は大分駅前の商業ビルには叶わないだろう。だが私はあの小さな東京を根城にする気になれなかった。どうにも昔から最新とか流行とかそういったものを扱う、表通りの小奇麗な店で落ち着きを得ることができないのである。


 利用客も店員もしっかりとパリっとした服を着こなして風景の一要素になり、壁には新商品の告知ポスターがこれでもかと並べられている。そういった風景の中に独りでいると、なんとなく風景全体に私そのものが拒否されているような感覚に陥ってしまう。


 そのような私のような性根がひねくれていたり、流行に対して背を向けることに粋を覚える歪んだ趣味を持っていたりする人間にとっては、天井の隅にかびが生えていたり、座っている椅子の足のバランスが少しずれていたりする……しかしいろいろな人が出入りするような場所のほうが、足が向きやすい。そこに入ってようやく、私は小さな東京では決して味わうことのできない、落ち着きを手に入れるのである。


 わらわらと人が帰っていく。私も友人もこの後の夜に予定があったから名残惜しくも退散しなければならなかった。しかし、私はここで古着を一着買って帰ろうとしていたことを思い出した。しかしここに展示されている古着が大体私に合いそうもないということは先ほど証明されたばかりである。諦めて帰ろうとした私の視界の隅に、まだ試していないものが見つかった。


 古着を展示してあるハンガーラックの後ろに帽子が数個かかっていたのである。


 あのあたりは一通り物色したはずだったが、人が多くて目に入らなかったのだろう。特色ある帽子が飾ってあったが、姿見を使って順番に被ってみても今風のものでどれもお世辞にも似合うものとは言えない。諦めて手ぶらで帰ろうと思ったが、帽子掛けの一番下の段に灰色の鹿撃ち帽を見つけた。明らかに今の流行ではなく値段も下がっているが、今までの明らかに身分不相応なものよりは余程しっくりきた。


 ただ、どうにも古臭い。被っても平日夜のサスペンスドラマに出てくる刑事のような古臭いいでたちになってしまう。これでは被ったところで友人たちに何を言われるか分かったものではない。


「あら、似合ってるじゃない」


 ふと振り返ると本屋のおばさまがいらっしゃった。なんだか照れ臭くなってそうですかね、と薄ら笑いを浮かべて返すと、


「素敵だと思いますよ」


と返ってきた。


 だが、やはり古臭いのが気になる。グレーというよりは灰色と呼ぶほうがふさわしい。亡くなった昭和一桁産まれの祖父が生前着ていた背広の色が、ちょうどこの帽子のような灰色をしていた。祖父は似合っていたが、あれは祖父が年配者だからだろう。


「ただ、どうも今風ではないというか、古臭いというか」


 そう思ったことを口にすると、おばさまは


「いいじゃないですかそれで。下手に流行りに合わせるより、自分の身体と性格に合ったものがいいですよ」


 と言った。


「そういうものですか」


「そういうものですよ。それに、なんだか堂々として見えますよ。多少古いもののほうが、浮つかなくて魅力的だと思います」


 なんだか、そのような気がしてきた。


 いつの間にか隣にいた友人も、珍しく真剣な顔で合っていると言う。帽子自体手持ちじゃなかったからかなり勇気のいる買い物だが、ここはおばさまの言葉を信じてみることにした。


 ミカさんは店の玄関口に立って、帰っていく人ひとりひとりに時間をかけて挨拶をしていた。順番が来ると、私はミカさんに声をかけて鹿撃ち帽を買い、値札を取ってもらうとそのままそれを被って外に出た。


 帰るために大分駅前まで歩くと、季節柄、街路樹や建物がイルミネーションで彩られていた。隣接する小さな東京の出入り口からはひっきりなしに若者が出入りしている。その人ごみの中を冷たいビル風がびゅうと吹き抜けていく。髪の毛を切ったばかりの私の頭に鹿撃ち帽がいい防寒具になった。


 少なくともこの冬が明けるまでは、しばらく被っていようと思った。

 

 ……平成までならこの話はここで終わりだ。だが今は令和、この古着屋の物語にも、まだまだ続きがある。


 古着屋での別れ際の折、私はよく飲み屋で一緒になる酔狂な中小企業の社長が、隣町の商店街の空き店舗を借り上げて貸間を始めたことを思い出した。それもただの貸間ではなく、皆で共有する貸間である。


 今のご時世、一人の個人事業主が店を全て借り上げることは難易度が高い。そこで店で何かを売りたい者が集まって、各々家賃を出し合うことで一人頭の負担を少なくする。経済学者がいう、シェアリング・エコノミーというものだ。


 帽子を買うついでに私がミカさんにこの話をしたところ、それは楽しそうですねということになって、スマホの会話アプリで社長と引き合わせることになった。


 だから今、私はミカさんと社長と、貸間で古着の出店スペースについて相談をしているところである。貸間はこれまで古着屋があったビルより更に古いが、リフォーム工事を済ませており見栄えがするものになっている。私はその打ち合わせに買った帽子を被っていき、ミカさんにこれに合う上着を見繕ってほしいと頼んだ。


 再来週の金曜日には用意してくれるらしい。

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ある古着屋の最後 四宮 式 @YotsumiyaS

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