第5話 息詰まるときに

 ミカは新しい企画のプレゼン準備に追われていた。

 社内の期待が高まる中、自分がもっと努力しなければならないという思いに駆られ、次第に息苦しさを感じるようになった。机に向かい続ける中で呼吸は浅くなり、胸のあたりが重たく感じる。頭がぼんやりとして集中力も低下し、作業が全然進まない。


 「またダメだ……。」

 ミカは椅子にもたれかかり、小さくため息をついた。浅い呼吸が胸を圧迫し、全身が固まっているようだった。


 そんな状態のまま、ミカは仕事終わりにナギのもとを訪れた。ナギは彼女の顔を見るなり、すぐにその疲労の色を見抜いたようだった。

 「今日は随分と苦しそうだね。胸が詰まった感じがするんじゃないかい?」


 「はい。呼吸がうまくできていない感じがして……それに、何をしても集中できなくて。」

 ミカの声は弱々しかった。


 ナギは頷きながら答えた。

 「呼吸が浅くなると、心も体も固くなる。そんなときは、頭の後ろで手を組んでみるといい。」


 ミカは少し驚いた表情を見せた。

 「頭の後ろで手を組むだけで、そんなに変わるんですか?」


 「もちろんさ。特に、浅い呼吸に悩んでいるなら効果的だよ。この動作は胸を開いて、深い呼吸を取り戻す助けになる。それに、脳に酸素が届きやすくなるから、集中力も戻るんだ。」


 そう言うと、ナギはミカに椅子に座るよう促した。


 「まず、背筋を伸ばしてみよう。」

 ナギの声はいつものように落ち着いていた。ミカは椅子に座り直し、背筋を伸ばした。


 「次に、両手を頭の後ろで軽く組んでみて。肘は少しだけ開くように意識して。」


 ミカはナギの言葉に従い、頭の後ろに手を回して指を絡ませた。肩や胸に引っ張られる感覚があり、自然と体が伸びるようだった。


 「そのまま、ゆっくりと息を吸ってみよう。胸が広がるのを感じながらね。」


 ミカは深く息を吸い込んでみた。すると、胸の奥まで空気が入るような感覚があった。長らく忘れていたような、心地よい呼吸の感覚が広がる。


 「その感覚を意識しながら、今度は息をゆっくり吐き出そう。肩の力を抜いて、全身が緩むイメージを持って。」


 ミカは吐息とともに肩の緊張を手放すように意識した。手を頭の後ろに置いているだけなのに、胸が軽くなり、頭の中も少しずつクリアになっていくのを感じた。


 ナギは続けて言った。

 「この姿勢を取ることで、胸の筋肉が引き伸ばされ、固まっていた胸郭が動きやすくなる。胸が開くと、呼吸が自然と深くなり、体全体に新鮮な酸素が行き渡るんだ。」


 しばらくの間、ミカは頭の後ろで手を組んだまま、ゆっくりと呼吸を続けた。呼吸が深まるごとに、胸に詰まっていた重さが溶けていくようだった。


 「なんだか、さっきまでの息苦しさが嘘みたいです。」

 ミカは驚いたように言った。


 「いいね。それが体の持つ自然な回復力だよ。」

 ナギは満足そうに微笑んだ。


 「だけど、どうしてこんなに簡単な動きで、こんなに楽になるんですか?」

 ミカは首をかしげながら尋ねた。


 ナギは答えた。

 「現代人は、前かがみで長時間作業をすることが多いから、胸や肩周りが固まりやすい。それが原因で、呼吸が浅くなるんだ。でも、頭の後ろで手を組む動作は、その悪循環を断ち切るのに役立つ。胸を広げ、体が自然にリセットされるんだ。」


 ミカは納得するように頷いた。

 「確かに、仕事中はパソコンに向かってばかりで、姿勢が悪くなっている気がします……。」


 ナギは少し考え込むような表情をしてから、付け加えた。

 「それに、この動作はただ呼吸を深めるだけじゃない。頭を支えることで、首や肩の負担も軽減する。だから、全身がリラックスしやすくなるんだ。」


 「なるほど……それなら、仕事の合間にも取り入れられそうですね。」

 ミカは少し笑顔を取り戻していた。


 その日の帰り道、ミカは心が軽くなっているのを感じた。胸を開き、深く呼吸するというシンプルな動作が、どれだけ心身を整える力を持っているのかを知ったからだ。


 「次は仕事のプレッシャーを感じたときに、すぐやってみよう。」


 ミカは自分の中に少しずつ増えていく余裕を感じながら、夜の街を歩いて帰った。ナギから学んだ知恵は、彼女の生活に確実に変化をもたらし始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る