第3話 背中の声を聞く

 ミカがナギに連れられて訪れたのは、柔らかな陽光が差し込む静かな空間だった。木造の小さな部屋で、窓の外には緑豊かな森が広がっている。聞こえるのは、鳥のさえずりと風の音だけ。都会の騒音に慣れたミカにとって、この静けさは最初こそ少し不安に感じたが、次第にそれが心を落ち着けるものだと気づいた。


 「ここで少し体を休めようか。」

 ナギの言葉に促され、ミカは用意された薄いマットの上に横たわった。仰向けになると、床の硬さと背中の感触がなんとも言えない不思議な感覚を生む。


 「ミカさん、まずは背中に意識を向けてみようか。普段、君は自分の背中をどれくらい意識しているかな?」


 ミカは考えたが、背中について注意を向けた記憶はほとんどないことに気づく。日々の生活では、体の前面――顔や手、目のように動きやすく感じやすい部分にばかり意識が集中し、背中はただの支えのように扱われていた。


 「それじゃあ、まず深呼吸してみてごらん。」

 ナギの言葉に従い、ミカは深く息を吸い込んだ。しかし、うまくいかない。吸い込む途中で胸が詰まるような感覚がして、息が浅くなってしまうのだ。


 「焦らなくていいよ。胸ではなく、背中で呼吸をするイメージを持ってみて。」


 「背中で呼吸をする……?」


 ミカにはその言葉の意味が最初は理解できなかった。だが、ナギは優しく説明を続ける。


 「背中全体を、広い風船だと思ってごらん。その風船が大きく膨らみ、ゆっくりしぼむように息をしてみるんだ。」


 ナギの言葉を頼りに、ミカは再び呼吸に集中した。仰向けの姿勢で背中を床に委ねると、背骨がじんわりと床に押し付けられる感覚がわかる。肩甲骨や腰のあたりにわずかな硬さを感じつつも、ゆっくりと息を吸い、吐き出した。


 すると、不思議なことに背中がほんの少し動いている感覚が広がった。最初はわずかな動きだったが、何度も繰り返すうちに、床との接触面が広がっていくのがわかった。


 「そう、それでいい。背中が床としっかりつながる感覚を大切にしてみて。」


 ナギの穏やかな声が、ミカを安心させた。背中に意識を集中させると、それまで気づかなかった緊張が少しずつ解けていくようだった。胸や肩に抱えていた余計な力が抜け、背中全体が床に溶け込んでいくような感覚が広がる。


 「背中って、こんなふうに感じられるものなんですね……」

 ミカは深く息を吐きながら、つぶやいた。


 「そうだよ。背中は君の体の土台であり、心を支える場所でもあるんだ。普段の生活で、前を向くことばかりに意識が行ってしまい、背中を感じる機会が減ってしまっている。でも、本来は背中こそが体全体を調和させる大切な場所なんだよ。」


 ナギはそう言うと、さらに具体的なイメージを与えた。


 「背中が床にしっかり触れて、緊張が解けていくと、体は安心感を得る。これは赤ん坊が母親の胸に抱かれているときに感じる安心と似ているんだ。だから、背中を意識的に緩めることは、体と心の深い部分を癒すことにつながるんだよ。」


 ミカは言葉の意味を噛みしめながら、もう一度背中に集中した。ゆっくりとした呼吸を繰り返すうちに、肩や腰の緊張だけでなく、心の中のモヤモヤも少しずつ解き放たれていくのを感じた。


 「私、こんなふうに深くリラックスしたの、久しぶりかもしれません……」


 ミカの声は少し震えていた。それは安堵の涙に似た感情が込み上げてきたからだ。背中を通じて体が感じる安心感は、忙しさに追われる中で忘れていた「休息」の感覚そのものだった。


 ナギはミカの横に腰を下ろし、優しい目で彼女を見つめた。


 「背中を感じることは、執着や悩みから自分を解放するための第一歩なんだ。心が緊張しているときは、体のどこかに必ずその影響が現れる。特に背中は、ストレスや不安を抱え込みやすい場所だ。でも、逆に言えば、背中をリセットするだけで、心も軽くなれるんだよ。」


 ミカはその言葉を聞きながら、自分の体がこれまでどれほど頑張ってくれていたのかを実感した。仕事に追われ、責任を感じ、常に前に進もうとする中で、知らず知らずのうちに自分の体に無理をさせていたのだ。


 「ナギさん、これからも背中を感じる練習を続けてみます。なんだか、もう少し自分を大切にできそうな気がします。」


 ミカの言葉に、ナギは満足そうに頷いた。


 「そうだ、それでいい。体の声を聞くことで、君自身がどう変わっていくのかを楽しみにしてごらん。」


 その日の帰り道、ミカの足取りは軽かった。背中を意識するというたった一つの動作が、これほど心と体を軽くするなんて、思いもしなかった。風が背中をそっと押すような感覚が心地よく、彼女は小さな自信を胸に抱き始めていた。


 「背中の声を聞くことが、こんなにも大切だなんて……。私、少しずつ変わっていける気がする。」


 新しい気づきを胸に、ミカは次の一歩を踏み出す準備を始めていた。

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