第2話 静かなささやき
ミカは、ナギと初めて会ったときのことを鮮明に覚えている。都会の喧騒から離れた森の中、風に揺れる木々の音が彼の耳に優しく響いていた。その場所に足を踏み入れた瞬間、どこか懐かしい感覚に包まれた。
「ここがナギさんのいるところ……」
親友のユウに紹介されて訪れたその場所は、まるで別世界のようだった。都会の生活では忘れかけていた「静けさ」が、ミカの心にじんわりと広がる。その空間にたたずんでいると、後ろから柔らかな声が聞こえた。
「 ずいぶん疲れているようだね。」
振り返るとナギは、穏やかな笑顔とともに手を差し出した。その目はどこか深く、長い間何かを見つめてきたような静寂を湛えていた。
「どうしようもなく疲れていて……」
ミカは自分でも驚くほど正直に話していた。ナギの雰囲気が、自然と心を開かせる力を持っているように感じたのだ。
「そうか、それなら、ここに来たのは正しい選択だね。まずは一つ、試してみよう。大きくあくびをしてみてくれ。」
「あくび、ですか?」
ミカは少し戸惑った。あくびをするなんて、子どもっぽくて不格好に思える。しかし、ナギは優しい目で促す。
「何でもいいから、深く息を吸って、体が求めるままにしてごらん。これが本能運動の最初の一歩だよ。」
ミカはおそるおそる口を大きく開け、深く息を吸った。あくびをするように声を漏らして息を吐き出すと、全身がふっと緩むような感覚が広がった。
「あれ……なんだか気持ちいいです。」
「だろう?」ナギは微笑む。「あくびは、体が自然と自分を調整しようとする本能的な動きなんだよ。現代人は忙しさの中で、そういう本能を無意識に抑え込んでしまっている。だから、まずはその抑えを外してやるんだ。」
ミカは半信半疑だったが、確かに今の一動作だけで肩の緊張が少し和らいだ気がした。
次にナギが教えてくれたのは「伸びる」動作だった。彼は手を上に伸ばしながら深呼吸し、体を気持ちよく反らせてみせた。
「これはどういう効果があるんですか?」
「人間の体は、本来自然のリズムと調和している。朝起きたときや長時間座りっぱなしの後、自然に体が伸びをしたくなるだろう? あれは、体が『目覚めたい』『巡りを良くしたい』と教えてくれているんだ。」
ナギの話を聞きながら、ミカも見よう見まねで体を伸ばしてみた。肩甲骨が引っ張られる感覚が心地よく、自然と深呼吸がしやすくなる。
「気づいたかい? 深く息ができるようになるだろう。それだけで、血流や酸素の巡りが良くなるんだ。こうした何気ない動作を通じて、体が教えてくれる声に耳を傾けるのが本能運動だよ。」
しばらくの間、ミカとナギはさまざまな動作を試していった。大きく伸びる、あくびをする、手を軽く振る、肩をゆっくり回す――どれも簡単で、特別な道具やスキルを必要としない動きだった。しかし、その一つひとつに取り組むたびに、ミカは自分の体が少しずつ変化していくのを感じた。
「ナギさん、これだけでこんなに気持ちが変わるなんて……驚きです。」
「それが本能の力さ。現代社会では、体の声を無視し続けることが当たり前になってしまった。でも、こうして少し意識を向けるだけで、体はすぐに応えてくれる。」
ナギの言葉には深い説得力があった。ミカは、自分の体がどれだけ無視され、酷使されてきたのかを思い知らされる思いだった。
その日の帰り道、ミカはなんとなく空を見上げた。都会のビルの間から覗く夕焼けは、これまでよりも鮮やかに見えた。足取りも軽くなり、心の中に少しだけ希望が生まれたような気がした。
「あくびや伸びをするだけで、こんなに変われるなんて……。私、もっと自分の体と向き合ってみたい。」
彼女はふと立ち止まり、もう一度深呼吸をした。風が頬をなでる感覚が心地よく、体の奥底まで染み込んでいく。
ミカは気づいたのだ。日々の疲れにただ耐えるのではなく、自分を労わり、ケアする方法を学ぶことができる。そして、それは決して難しいことではないということを。
この日を境に、彼女の「自然治癒」の旅が本格的に始まることになるのだった。
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