第4話 芥川賞①
7月の上旬。レンガブロックの壁に背中を預ける。人工的に植えられた木々の列が新緑を宿していた。暑さに琴線を刺激され、首筋から汗が零れる。左手にカバンの重さを感じながら、英単語帳を開いていた。家の前で待ち合わせて、学校に向かうのはいつものことだった。中学一年生の最初から、それは変わらない。安芸の足音が聞こえて、オレは英単語帳を閉じた。
「おはよう」
安芸は眠そうな声で言った。オレは「おはよう」と返事をして、隣に並んだ安芸を見る。半袖の制服から、安芸の色白な腕が見えている。オレは「寝不足?」と聞く。安芸は「深夜まで小説を読んでいたの」と答える。読書が原因の夜更かしは、昔から安芸の癖だった。ネット小説と青空文庫のせいである。
「とりあえずは小説を書くのに集中することにしたわ」
歩いて学校に向かう途中、安芸はポツリと呟いた。安芸が小説の執筆に興味があることは知っていた。芥川賞を目標にするのは無謀にも感じたが、才能があるのも知っていた。安芸ママは編集者だったから、娘の文才を見抜いている節があった。安芸は「何も言わないで応援だけして」と言った。オレは「分かった」と返す。もとより、言えることなど何一つなかった。
授業の時間も使って、安芸は小説を書いた。机の上に堂々と原稿用紙を広げているので、休み時間にはクラスメイトからも質問をされた。クラスメイトの「何を書いているの?」という質問に、安芸は恥ずかし気もなく「小説よ」と答えていた。安芸に質問をしたクラスメイトのうちの一人である尾道 春香さんは、文芸部に所属していた。小説を書いている安芸に興味を持ったのか、尾道は「完成したら、ぜひ読ませてね」と約束し、安芸は「いいわよ」と結んでいた。
オレは尾道に頼み、文芸部の部室に向かった。中学生が書く小説というのがどういうものなのか確かめたかった。尾道はオレを先導し、文芸部の部室のドアを開けた。小さな部室だったが、長い机といくつかの椅子があり、大きな本棚が一つ置いてあった。尾道は本棚から、冊子を取り出した。オレは冊子を受け取り、椅子に座る。表紙には『金木犀』とある。
「これが去年の部誌ね」
オレは部誌を開く。もくじを確認すると、ずらっとタイトルと著者名が並んでいた。著者名のなかには、尾道の名前もあった。オレは「尾道の作品を読んでもいい?」と聞く。尾道は「そういうの恥ずかしいから何も言わないで読んでよ」と言った。やっぱり、自分の小説を読まれるというのは恥ずかしさがあるのだろう。
「わたしが書いている純文学というのは日本文学における用語で、大衆文学よりも芸術性がある小説のこと。芸術性っていうのは、当事者性、社会批評性、他者性、この三つのことだとわたしは考えているよ」
尾道は恥ずかしさを誤魔化すように、純文学というジャンルの説明をしていた。その説明を聞き流し、尾道の小説があるページを開く。タイトルは『春と鯨』。港町で踊り子をしていた少女が、ひょんなことから捕鯨船に乗ることになる話だった。オレは「賞はとった?」と聞く。尾道は首を横に振って否定する。
「高校生文学賞に応募して一次選考で落ちた作品だよ」
高校生という枠組みのなかで、全く通用しなかった作品のクオリティーを知る。オレは「ありがとう」と感謝を伝えながら席を立った。尾道は「役に立ったのならよかった」と言った。
数日後、安芸は完成した原稿をオレに渡した。安芸は「読んでみなさい」と自信満々に言った。原稿を汚さないように、自室の机の上で読む。タイトルは『ハルヒによろしく』。Vtuberとして活動することになった少女の話。おそらくこれは純文学だった。翌日、いつものように家の前で英単語帳を開いて待っていると、そわそわしながら安芸がやってくる。オレはカバンを開いて、安芸に原稿を返す。原稿を受け取った安芸は「感想はいらないわ」と言う。
3時間目、国語の授業のときのことである。静寂に包まれていた教室で、尾道は突然立ち上がった。ガタッという椅子の音が聞こえて、教室中の注目が尾道に集まった。国語の教師は「尾道さん?」と困惑し、続けて「どうしました?」と聞く。尾道の視線は下に落ちていた。視線の先には机があって、その上には安芸が書いた小説の原稿があった。
「……私小説?」
私小説とは作者の経験したことがらを素材にして、ほとんどそのまま書かれた小説のことだ。
小説の中で、主人公は言う。
『Vtuberになり、涼宮ハルヒを倒す』
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