第3話 よろしく③
安芸の乙骨抹茶乙としての初配信が終了した。配信時間は一時間。最大同時接続者数は422人。ここからエンタメがひっくり返るにしては、ずいぶんと小さな一歩だった。だけど、やっぱり普通の女の子が集めたにしてはすごすぎる数字だと思う。
口では「やりきったわ」と言っていた安芸だが、表情は浮かなかった。顔の見えないインターネットの向こう側の人に対して、マイクに向かって一人喋りをするというのは特殊すぎるスキルだ。いくら安芸が何事も卒なくこなす人間だとしても、最初から全てが上手くいくなんてことはありえない。カフェで初配信お疲れ様会を開いたが、安芸はため息を溢していた。恩田さんは安芸のため息を聞いて陰キャスマイルになった。
乙骨抹茶乙の生配信終了後、ネットの民により自己紹介シーンの切り抜き動画がXに投稿される。一分ほどの動画だった。乙骨抹茶乙という名前の響きと、シンプルに安芸の声の良さ、そしてそれを最大限に伝えるクリエイティブの部分の完成度の高さと、動画の音質の良さが動画には詰まっていた。すぐさま1000いいねほど付き、フワッと話題になった頃、恩田さんのアカウントによりリポストされた。三日後、切り抜き動画は10万いいねにまで到達した。
それだけで終わらなかった。ネットの人たちが乙骨麦茶乙のチャンネルまで辿り着き、チャンネル登録者が5000人を突破したとき、新しい動画が乙骨麦茶乙チャンネルに投稿された。動画のタイトルは『俳句素人でも10000句詠めば歴史に名を残すことができる説 前編』という企画動画だった。
乙骨麦茶乙は、歳時記とランダム単語メーカーを使用して俳句を量産した。前編では5000句詠んでいた。「歳時記で季語を決定」「ランダム単語メーカーで単語を生成」「乙骨麦茶乙が575に編集」「良い声で句を詠む」という構成が、切り抜き動画にもってこいだった。そして、切り抜きところは5000個あった。本編の動画は急上昇の一位に浮上。切り抜き動画は回りに回り、余波で本紹介のショート動画も再生が回り、一週間でチャンネル登録者が50万人を突破。みんなが次の動画を待っていたタイミングで『俳句素人でも10000句詠めば歴史に名を残すことができる説 後編』が投稿された。
恩田さんは「ほらね」と言った。カフェのカウンター席に座り、スマホをいじっていた。目の前にはアイスのカフェオレがあった。ガラスのコップの半分まで飲んで、氷が少しだけ溶けている。コップの外側に結露が浮かび、涙のように線を引く。カフェオレに刺さっていた黒いストローは先端が潰れていた。恩田さんは噛み癖がある。
「帆立ちゃんは文才がすごいよね。俳句を文才っていうのはちょっと違うのかもしれないけど。たとえば、これとか。『海鳥よ死んで鯨に生まれたか』だって。どういう俳句だと思う?」
「船乗りの歌でしょう」
「違う。これはVtuberの歌だよ」
氷が溶けてバランスを崩し、カランと音を立てる。
「なんでVtuberは前世の記憶を無くすんだろう。どうしてファンはそれを受け入れるんだろう。この面倒くさいシステムを始めたのは誰なのだろう。どうして、それをみんなで守っているのだろう。もう見ることのできないVtuberの面影を、別のVtuberに見つけたとき、喜々としてファンは駆け寄って、なぜか、はじめましてと挨拶する」
Vtuberにおける転生は、Vtuber活動をしていた人が、そのアバターでの活動を引退した後、新しい姿と名前になってVtuber活動を再始動すること。恩田さんはアイドルVtuberを引退し、卒業配信で伝説を作ってから、個人勢Vtuberとして転生を経験している。その経験が理由で、安芸が歌った10000のうち、この歌がとくに刺さったようだ。
「意味が分からないし、傍から見たら下らないのかもね。わたし元々アンメリカって事務所でVtuberやってて、みたいな、暴露とか裏話の方が簡単にファンを楽しませることができると思うよ。なのにVtuberのベタを貫く人たちがいる。面倒くさい人たちだよね。でも面倒くさい人たちが貫く、この面倒くさいルールは、明らかに美しいんだ」
ベタを貫く美学が存在するのは分かる。
サンタクロースのようなもの。
「ポエトリーリーディングにハマっているの?」
いつのまにか、安芸がいた。ポエムな感じになっていた恩田さんを冷やかしながら、隣に座る。恥部を攻撃された恩田さんは俯いてしまう。陰キャなので防御力は低い。安芸はカフェオレを注文したあと「次の計画を発表するわ」と言う。オレはカフェオレの注文を承って「せわしないな」と言う。安芸は「今までが暇すぎたのよ」と言った。オレはカフェオレを安芸の前に置いた。
「芥川賞を取りにいく」
安芸はそう言って、カフェオレに口をつけた。
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