人魚の島

桜庭ミオ

第一話 蛇の島と呼ばれている月白島

『ほらっ、早く』


 少女の声に命じられ、恐る恐る赤黒い干し肉を受け取り、口に運ぶ。嫌だと思いながら咀嚼そしゃくすると涙が出た。飲み込もうとした瞬間、オエッと吐き出し、畳に手をつく。そして激しく咳き込んだ。


 体が熱くて苦しくてたまらないのに、『なんで吐くのよっ!!』と少女が怒鳴る。


『お嬢様!?』


 バタバタと足音が近づいて――。



「――しずく!」


 ドキッとして目を開ける。まばたきをすると生温い涙が頬を伝い、自分が泣いていたのだと気づく。


「雫、大丈夫?」


 雫? ああ、自分の名前か。


 幼い頃、雫と呼ばれても違うと思っていた。自分の名前は雫じゃないって。じゃあ、何という名前なのかと聞かれても分からなかったけど。


 視線を動かせば、水色の短い髪の少女がいた。


 彼女は茶色の瞳で心配げにこちらを見ている。彼女の耳元で、真珠しんじゅのピアスが優しくゆれた。

 肌は透き通るように白く、小さな唇は桜色。


 彼女は、水森みずもりリナ――雫と同じ大学一年生であり、恋人だ。


 白い天井。子供達の笑い声。


「ここ、は……?」


 喉が変だ。何か飲みたい。


「フェリーだよ。気持ち悪くなったの覚えてる?」

「あっ」


 思い出した!


 雫はゆっくりと体を起こす。


 リナは首に白いマフラーを巻いている。

 それを見て、雫は自分の首に手を伸ばす。


「ない」


 雫が呟くと、「危ないから寝る前に外したでしょ」と笑いながら、リナが絨毯じゅうたんに置いてある白いマフラーを渡してくれた。


「ありがとう」


 雫は笑ってマフラーを受け取り、自分の首に巻く。


 おそろいだからだろうか。幸せで、心と体がほわほわする。


 このマフラーは一昨日、クリスマスに彼女がプレゼントしてくれたものだ。今朝、ドキドキしながら巻いてみた。そうしたら、リナが喜んでくれたので嬉しかった。


 自分は一月生まれで、リナは二月生まれなので、まだお互いの誕生日を祝ったことがない。クリスマスにプレゼントを交換するものだということを知っていたが、忘れていた雫は、彼女に謝った。するとリナは笑って言ったのだ。


『可愛いから買っただけだし、雫が身に着けてくれるのが一番のプレゼントだよ』


 そんなことを思い出しながら雫はリナを見つめる。


 彼女は桜色のニットに白いコートを羽織り、ジーンズを穿いている。肩には水色のショルダーバッグをかけていて、そばに桜色のキャリーバッグが置いてある。

 雫はズボンを穿くと違和感があるのでジーンズなんて穿けないが、リナを見るとカッコイイなと思うのだ。


 ちなみに、雫は手袋も苦手だ。それを知ったリナは手袋をするのを止めた。


『手袋しない方が雫に触る時に楽しいもん』

 と言ったのはリナだ。雫は何が楽しいのか分からなかった。


 視線を動かす。

 雫のそばに、紺色のショルダーバッグとキャリーバッグがあった。キャリーバッグには蝶のネームタグ。


「それ、雫のだよ」

「うん」


 リナの声に頷く。

 髪がほどけそうになっているのでゴムで結び直し、雫は周りを見回した。


 ここは絨毯席だ。子供と女性が多い。

 窓はあるが、カーテンは閉まってる。暖房がついているからだろう。


 雫はキャリーバッグからお茶のペットボトルを取り出し、少し飲む。そして、ペットボトルをキャリーバッグに戻した。


「雫、うなされてたけど大丈夫? 怖い夢見た?」

「夢? あっ、うん、見た」


 幼い頃に何度も見た夢だ。相手の顔は分からないけど、女の子の声に命じられて干し肉を食べる夢。飲み込めずに吐いたけど。


 十歳ぐらいになると見なくなったのに……。


 その夢の影響なのか、赤い魚や、動物の肉が食べられない。

 紅葉や彼岸花の群生など、赤がたくさん集まってるのを見ると、ザワザワして逃げたくなるのだ。


 金魚と鯉は見ただけでもすごく嫌な気持ちになる。人魚なんて存在しないのに絵を見ただけで幼い頃、号泣していた。母が言うには、『ごめんなさい』と謝っていたらしいが、雫は覚えていない。


 今では人魚の絵を見ても泣いたりしないけど、悲しい気持ちになる。


 朱色しゅいろも苦手だ。赤に似ているからだろう。


 あの干し肉は赤黒い色だった。それなのに黒は苦手ではない。これは、自分も含めて、幼い頃から黒髪黒目の人々に慣れていたからだろうか。唇はそんなに見ることはなかったし。


 うつむいて考えていると、「雫?」と、リナの声がしたので顔を上げる。不安げな表情の彼女を見るのが辛い。


 雫は笑顔を作り、「怖い夢を見たけど大丈夫だよ」と言った。


 本当は大丈夫じゃない。だけど、夢の話はしたくない。赤や朱色が苦手なのも、赤い魚や動物の肉が食べられないのも伝えてあるし、金魚と鯉と人魚が特に苦手なのも彼女は知ってる。


「……そう」


 辛そうな顔のリナを見て、雫は苦しいと感じる。


 幼かった頃の話だ。雫はあの夢を見るたび、泣きながら目を覚ました。

 母は、夢に怯える雫を冷たい眼差しで見下ろした。


『そんなのただの夢よ』


 母は、息子が生まれると彼のことを溺愛した。雫はずっと孤独で、寂しかった。


 まもなく月白島つきしろじまに到着するというアナウンスが流れる。


「行こっか」

「うん」


 リナの言葉に頷いた雫は、ショルダーバッグを肩にかけ、キャリーバッグを持ち上げる。それからリナを見ると、彼女もキャリーバッグを持ち上げていた。

 二人で絨毯席から下りて、靴を履いた。



 フェリーが月白島に着いた。


 曇天どんてんの下、潮風に背を押されながら島に一歩足を踏み入れた瞬間、カッと雫の体が熱くなり、ぶわっと涙があふれた。そんな自分に戸惑いながらも足を進める。

 風が強く、後ろに人がいるので立ち止まるわけにはいかないのだ。


 歩いていたら寒くなった。ワンピースにコートなので足が冷たい。選んだのは自分だけど。

 靴は歩きやすいスニーカーだ。


 人が少ない場所で足を止め、手の甲で涙を拭う。

 リナに「大丈夫?」と聞かれたので、雫は小さく頷いた。


「女神様が守護しゅごしてる島だからかな? なんか、泣けてきちゃった」

「なにか感じる?」

「うーん、よく分からない」

「そうなんだ」


 月白島は、蛇の島と呼ばれている。

 島を守護する女神が双子の妹姫なので、この島では双子は縁起が良いとされているようだ。


 そして島では、白蛇が神の使いとして大切にされている。白蛇がたくさんいて、見ると幸せになれると伝わっている。


 この島の白蛇は冬眠しないけど、寒いと草むらにいて出てこない蛇が多いので、見られる確率が低くなるようだ。

 冬眠しない理由は、 温暖化の影響と、島の人がエサを与えているからなのだそうだ。真冬に雪が降ることはあるが、積もることは滅多めったにないらしい。


 ここまでがガイドブックの情報だ。


 ネットには、江戸時代頃から島には双子が生まれてないとか、女の双子が島に入ると喧嘩をするとか書いてあった。本当か嘘かは分からない。

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