第2話「鍵盤の向こう側」
目の前に広がる光景に、奏多(そうた)は戸惑いを隠せなかった。古びた石造りのホールには、豪華なシャンデリアと重厚な赤いカーテン。そして、観客席には19世紀の衣装をまとった人々が並んでいる。
「これは...夢なのか?」
奏多は自分の手を見つめた。震える指先には汗が滲んでいる。夢にしてはリアルすぎる感覚。息をするたびに鼻孔をくすぐる古い木材の香りが、さらに彼を混乱させた。
「奏多さん、準備はよろしいですか?」
振り返ると、控えめな笑顔を浮かべた中年の男性が立っていた。黒い燕尾服に身を包み、まるで執事のような佇まいだ。
「準備って...何のことですか?」
「演奏です。あなたの『新作』を披露する場ですから。」
新作。そんな言葉に心当たりはない。だが、背後から視線を感じ、振り向くと観客たちの期待に満ちた目が自分に注がれているのに気づいた。
「俺が...演奏を?」
状況が飲み込めないまま、奏多はホール中央のピアノに導かれた。黒光りするグランドピアノ。その鍵盤に触れると、指先に冷たさと馴染みのある感触が伝わってくる。
「俺に何を期待しているんだ...?」
ピアノに腰を下ろした瞬間、観客席が静まり返った。ホール全体に緊張感が漂う。奏多は恐る恐る鍵盤に指を置いた。その瞬間、不思議な感覚が彼を包んだ。
――奏多。聞こえる?
突然、彼の頭の中に声が響いた。それはどこか懐かしい女性の声。思わず顔を上げると、観客席の中に見覚えのある顔が浮かんだ。
「彩音...?」
声にならない声を発した瞬間、彼女が微笑む。そして次の瞬間、彼女の姿は観客の中に溶け込むように消えてしまった。
「今のは...どういうことだ?」
混乱しながらも、奏多は再び鍵盤に向き合った。頭の中には、未完成のソナタの旋律が浮かび上がる。その音は彼をどこかへ導こうとしているようだった。
指を鍵盤に落とし、最初の音を奏でる。響き渡る一音目が、ホール全体を揺らすようだった。その音に続き、彼の指は自然と動き始めた。まるで誰かが手を引くように、彼の演奏は滑らかで、力強いものになっていく。
演奏が進むにつれ、彼の脳裏に映像が流れ込んでくる。それは、自分が知らない情景。だが、どこか懐かしさを感じさせるものだった。
青々と茂る草原に立つ一人の女性。その手にはヴァイオリン。彼女が振り返ると、微笑みながら彼を見つめている。
「奏多、この音楽を未来に繋げて。」
その声とともに映像が途切れ、再び現実のホールへと引き戻される。気がつけば、彼の演奏は終わりを迎えていた。ホール全体に拍手が巻き起こる。
だが、彼の中には疑問が渦巻いていた。この映像は何だったのか。そして、あの声の主は本当に彩音だったのか。
「素晴らしい演奏でした。」
再び執事のような男性が彼に近づいてきた。「あなたの音楽は多くの人を魅了します。ですが、まだその旋律には何かが欠けている。」
「欠けている...?」
「そうです。そして、その欠片を見つけるのはあなたの使命です。」
男性はそれだけを告げると、ホールの扉を指し示した。その扉の向こうには何があるのか。奏多は恐る恐る立ち上がり、その扉に向かって歩き始めた。
扉を開けた瞬間、眩い光に包まれる。そして次に目を開けたとき、彼は再び自分のピアノの前に座っていた。
「夢...だったのか?」
だが、手のひらを開くと、そこにはホールで見たのと同じ紙切れが握られていた。それには一言だけが記されていた。
『続きは、次の音で。』
奏多は紙を見つめながら、再び鍵盤に指を置いた――。
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