ようこそ!子ぎつね亭へ 7



 ……薄暗い、薄暗い、朝のひかり。

 鳥の鳴き声も響かない寂しい朝の中。


 悟は自室に有った鏡の前で、制服姿の自身を見つめておりました。

 鏡に映るのは何時もと変わらない、そして最後となる悟という少年の姿。

 もう二度と見る事も出来ない可能性が高い、自身の姿を悟は目に焼き付けたのでございます。


 ――悟はこれから、異世界へと旅立ちます。


 まだ、思うところは勿論あります。

 けれど、ああ、けれど。


 悟の心は昨晩と違って晴れ晴れとしておりました。


 幼い子供の様に。

 会えることもなくなった家族を想って、名一杯泣いて、沢山後悔も出来たから。

 悟はこうして自分の運命を受け入れることが出来たのです。


「悟さま、ご用意出来ましたか?」


 部屋の外で、小雪の声が聞こえます。

 声を掛けると、彼女は障子を開け笑顔を浮かべました。


「とってもお似合いです。悟さま!」


 相変わらず、裏も表も無い無邪気な笑顔。

 悟も思わず、笑みを浮かべました。


「それでは悟さま。ご案内させて頂きます。」


 ……古い、古い宿屋。

 その軋む床を悟は小雪の後ろに続いて歩いていました。


 宿屋に来た時と違って、心は穏やかに、静かにあたりを見渡します。

 古くもきれいに掃除された大きな旅館。

 昨日の今日だと言うのに、酷く懐かしくすら感じられる宿屋を見つめています。


「悟さま。到着いたしまいた。」


 ――と、前を歩いていた。小雪が立ち止まりました。

 彼女が指をさし示す先には、来た時と変わらない大きな宿屋の門が一つ。


「この先。あそこをくぐると悟さまの、貴方の新しい世界です。」


 小雪が言います。

 悟は門を見上げました。


 白い雪が積もった、大きな扉。

 ここを通れば、小雪とも、自分ともお別れです。


 とても悲しいです。とても寂しいです。

 けれど、覚悟はもう決まっています。

 もう、泣くことはありません。


 悟はゆっくりと門の扉に手を掛けました。

 扉は相変わらず、大きな音をたてて開きます。


 来たときは、この先は寂しい雪の積もる枯れ木が並ぶ森でした。

 ああ、けれど。


 開いた扉の先に森はありませんでした。

 ただ、眩しい程の光だけが永遠と続くだけ。


「悟さま。」


 眩しい程の光を見つめていると、ふと小雪が声を掛けます。

 振り向けば、変わらず微笑む少女の姿。静かに悟を見つめています。


「一夜だけでしたが、私のおもてなしはどうでしたか?満足いただけましたか?」


 小雪は尋ねました。

 彼女の問いに悟は笑います。


 ――とっても


 ああ、もうお別れの時間です。

 悟は再び前を向きます。


「……悟さま。後で調べさせて頂きました。」


 最後の最後の事でございました。悟は振り向きます。

 温かな光を浴び、体が吸い込まれていくのを感じながら、彼女を見ます。


「――悟。この字には『貴方の心を守る。迷いを退ける』そう言った意味があると知りました。……本当に、良い名前を貰いましたね」


 ――最後に見たのは太陽の笑顔。

 悟は、温かな光の中で笑顔を浮かべました。


 また、泣きたくなったけれど、我慢して。


 ありがとう。


 それだけを小雪に伝えるのです。


 眩しい温かな光の中で、悟は最後に願いました。

 出来る事なら、異世界へ行ったとしても。


 『悟』としての記憶は無くなりませんように――と。



「行ってらっしゃいませ!」


 そんな小雪の声が遠くで聞こえました。

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