ようこそ!子ぎつね亭へ 6



 自分の話?

 悟は首をかしげました。


 彼からすれば、彼女とこの世界の話について聞きたかっただけだったのに。

 だから、小雪から自身の事を問われるとは思ってもいませんでした。


 今度は悟が悩んでしまう番。何を話せばよいのか。


 少しして悟は口を開きました。

 まずは自分の名です。悟です。と告げると小雪は頷きました。


「さとる、さまですね!素敵な名前です。どのような文字なのですか?」


 思えば彼女に名乗ったのは初めてであることに気づきました。

 悟は机に指で自身の名をかきます。

 小雪はそれを物珍しそうに見つめ、大きく頷きました。


「悟、悟さま。はい、覚えました!では、悟さまはおいくつですか?」


 小雪の次の問いに悟は照れたように「16」と口にしました。


「……同い年ですね!」

 少しの間。小雪は微笑みます。


「では、学生様ですね」

 微笑みながら彼女は言いました。


 これには悟は少しだけ驚きました。

 だってここは異世界。「学生」という単語がある事に驚いたのです。


「学生の方は良く来られますから」


 彼女の言葉に気が付きました。

 ここは異世界人がやって来るお宿。なんてことはありません。

 宿屋には学生も良く訪れるから彼女は知っていた。それだけです。


「学生様は学校と言うところに行かれるのでしょう?ここに来られる学生様は皆さん大体良く似たお召し物を着ています。学校は楽しいと聞きます。悟さまは如何でしたか?」


 小雪は問いかけました。

 悟は少し悩みました。


 別に楽しくなかったわけではないのです。

 ただ、普通な学校生活であったから。どう話してよいか分からなかったのです。


 それでも、少しして悟は学校の生活について話し始めました。


 自分は高校に通っていたこと。

 2年生。2組。

 友達の事。保育園から一緒の親友がいて。同じ学校。クラスで会った事。

 すこし気になっていた女の子がいた事。

 部活は野球部に入っていて、毎日の練習が大変だった事。

 取り留めない毎日の日々を、一つ一つ話していきました。


 悟の話を小雪は楽しそうに聞いていました。

 微笑みながら、時折疑問に思ったことを聞き返しながら。

 真剣に、心から楽しそうに聞いてくれました。


 そんな彼女を前に。自身の話をしながら、悟は気が付きます。

 自身も楽しそうに笑みを浮かべている事に気が付きます。


 悟は知りました。

 自分の人生はあまりに普通であったけれど、

 それでも楽しい物であったことに気が付きます。


 一つ一つが掛け替えのない物で、

 どれも大切であったことに気が付きます。


 学校だけではありません。

 家族も、そう。


 父親がいて、母親がいて、弟がいて。

 団地暮らしであったし、父は厳しくて、母は口うるさくて、弟は生意気で、うっとうしいと思った事もあるけれど。


 取り留めも無い普通の家族だったけれど、思い出すのは楽しい思い出ばかり。

 幼かった日の思い出も、家族みんなで行った旅行も、進路で悩んで喧嘩したことも、ただテレビを前に笑いあった事も、つまらない事なんて一つも無かった。


 悟は最後の朝を思い出します。


 何時もの朝。

 寝坊して、母親に叩き起こされて、慌てて家から飛び出た朝の事。

 呆れる父親と、生意気にからかう弟。


 玄関の前でお弁当を押し付けてくる母の姿を思い出します。

 笑顔で送ってくれる家族を思い出します。


 いつもと変わらない日常で、温かな毎日。

 それを思い出して、理解するのです。


 ――その毎日はもう二度とやってこないのだと。


 ……ぽつり。


 悟のきつく握りしめた拳に雫が落ちました。

 最初は、それが何だか分かりませんでした。

 それでも雫はポツリポツリと落ちています。


 頬を伝って、静かに流れていきます。


 自分の目元に触れて、漸く気が付きました。

 それが自分の涙である事に。


 悟自身はまだ気が付いていません。

 どうして、自分が泣いているか。

 気づきたく、ありません。


 それでも涙は溢れてくるのです。

 何度も何度も目をこすっても、止めどなく溢れ出てくるのです。


「――悟さま」


 そんな、悟に小雪の静かな声が駆けられました。


 気が付けば、小雪は悟の隣に座っています。

 悲しそうに微笑んで、それでも悟を見つめています。


 悟は彼女から視線を外し、何度も謝りながら涙をぬぐいました。

 こんな姿を見せるはずは無かった。


 必死に頭で理解しようとするのに涙は止まりはしません。

 どうしようもなく、酷く自分が情けなく。


 それでも、せめて泣いている姿は見せたくなくて

 部屋を出て行ってくれとお願いしようとした時の事でした。


 小雪は大きく手を広げたのです。


「悟さま。どうぞ私の膝をお使いください」


 小雪の言葉に悟は顔を上げました。

 彼女は続けます。


「悟さま。一人で抱え込まないでください。こんな時こそ一人にならないでください。情けなくなんてありません。何かを恋しいと想うとき。大切な家族を想うとき。我慢はしないで、誰かの膝を借りて思う存分、どうか涙を流してください。どうか貴方の為に泣いてください」


 小雪は何処までも優しく、悲しく、微笑んでいました。

 その頬笑みは、ぽかぽかと、まるで温かな木漏れ日の様で。

 だから、その温かみに、溢れ出した涙はもう止まらなくて、止めようも無くて。


 幼い子供の様に、悟は彼女の膝に顔を埋めて泣いたのです。


 異世界に来た時、初めは理解が追い付きませんでした。

 彼女に温泉に案内され。そこで漸く自分が死んだと気が付いて、でも理解したくなくて。


 宿屋の外。しんしんと降り注ぐ雪が、その様子があまりにも異世界だとは感じられず。あまりに自分が住んで居た世界と似ていたから、本当は夢ではないかと何度も。


 けれども小雪の姿は残酷です。現実を叩きつけます。


 ここは異世界で、

 自分は死んだのだと、

 家族の元には帰れないのだと、


 だったらせめて、今までの思い出を。

 家族の事なんて忘れてしまいたいと思いました。


 死んで、転生するのなら。新しい人生で、新しい気持ちのまま、生きたいと。

 家族を思い出したくなかったから、大事な思い出を前に泣きたくなかったから。


 けれど本当は、そう。本当は。


 ――家族の事は忘れたくない。

 忘れたくなんか無いのです。


 もっと、もっと、あの温かな家族彼らの傍で生きていたかった――。


 だから、悟は泣きました。

 大きな声で泣きました。


 2度と戻れない大切な思い出を想い出しながら、枯れる事のない涙を流し続けました。


 小雪は何も言いはしません。

 ただ、優しく、優しく、悟の頭をなでるのです。

 彼が泣き止むまでずっと、ずっと――。


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