二章 - 4

 二章 くひとよ④




 翌朝、なぐは、いち早く昨日の昼休みのことを宇宙こすもに謝ろうと、いつもより早めに登校していた。しかし、肝心の彼女はまだ来ていなかったので、自分の席で静かに読書に耽る。

 すると、「なぁ、親川おやかわだっけ?」と声をかけられた。

 和は顔を上げて、うん、と頷く。和の目の前には、ひとりの男子生徒が。この男子生徒とは今年初めてクラスが一緒になったので、名前もまだいまいち覚えていない。まさか話しかけられるとは思わず、若干身構えてしまう。

 男子生徒は、和の前の席の椅子を引き、和と向かい合わせになるように座った。

「親川ってさ、出風いでかぜさんと付き合ってんの?」

 男子生徒は自分の名も名乗らず、躊躇なくずばりと訊ねる。

「ううん。付き合ってないよ」和は、本を閉じて正直に答える。

 それを聞いた男子生徒は「まじ!?」と大層な驚きを見せて、「でも、噂になってるぜ」と愉快そうに言うと、和と自分しかいない教室にもかかわらず、内緒話でもするかのように小声で話しだした。

「昨日の昼休みさ、出風さんと中庭のベンチで昼飯食べて、そのあと出風さんにキスしようと迫ったらしいじゃん」

「あー……」

 あのときの記憶がない和だが、昨晩、一人美から聞いた状況と、男子生徒のいまの発言が見事に合致しており、一からの流れを説明して誤解を解くべきか、それとも彼の言うままを認めるほうが短絡的か、返事に困った。

「あれは、あれだよ……」

「どれだよ」

 よっぽど真実を知りたいのだろう、食い気味な男子生徒。

「正直なところ、あんまり記憶がないんだけどね、あのぉー……。出風さんが綺麗だからさ、つい見惚れちゃったんだと、思う……。キスする気はなかったかな……」

「いやいや、やってること、すげーよ。出風さんのこと好きなん?」

 二人しかいない教室で、男子生徒は小声で訊いてきた。

「うん、好きだよ」否定する理由もないため、和は正直に答える。

「親川って大人しそうに見えて、意外とイケイケなんだな!」

「それは、まぁ、どうだろう……。そうなのかな……」

「あ、お節介かもしれないけどよ――」

 男子生徒は、二人しかいない教室で、周りを警戒するように教室の扉のほうを見やり、誰も来てないことを確認してから耳打ちした。

「出風さんって、性格あんま良くないらしいぜ」

「へー……」和は、教室の出入り口を一瞥。「具体的に、どのへんが……?」

「いいのか、言っちまっても」

「……うん。だって、きみが言い出したんだし」

「あぁ、それもそうか。けっこう有名な話だけどな。入学してすぐに二泊三日のオリエンテーション合宿があっただろ? あんときに、自分のやる係の仕事を他の生徒に押しつけたり、美人だって自己陶酔してんのか、女子生徒には冷たい態度だったり。それで、大半の女子から嫌われてぼっちになって、文化祭のときなんか、自分だけ何も仕事せずに『用事があるから』って嘘ついて、一人だけすぐに帰ってたんだってよ。他にも――」

「――あー、もう大丈夫かも。教えてくれて、ありがとう」

「そっか。それにしても性格が悪い奴ってさ、顔とか声に出てるよな。出風さんもひねくれてそうな顔だしさ、暗そうな声してるし、そういうのって表に滲み出るんだろうな」

「まぁ、それは人見知りの人でも、そんな風に見えちゃいそうだけど……」

「そんなもんかねぇ。まぁでも、出風さんには気をつけたほうがいいぜ。――あ、そうそう」

 男子生徒は、思い出したように和に囁く。

「出風さんと同じ小学校だった人が高校にいるらしいんだけどさ。その人が言うには、出風さんの父親って半グレだったらしいぜ。でも、その人と離婚したらしくて、それを機に苗字も母方に戻して転校したんだって。――で、また苗字が変わってるらしくて、たぶん再婚してんだよ。すんごい複雑な家庭みたいだぜ。ほら、名前も『宇宙』って書いてこすもだし、な?」

 まるで有力な情報と言わんばかりに、つらつらと噂を並べる男子生徒に、和は不思議な感覚を得る。なんというか、彼に悪気はないのだろうが、彼の言葉の羅列に不愉快さを覚えた。

 たぶん、ノンデリカシー、というやつだ。

「えっと、あれだよ。えっとぉー……、――になる噂をありがとう」

「おう! いいってことよ! これからクラスメイトとしてよろしくな!」

 その後、男子生徒の友達が登校してきたことで、彼との会話は自然に終了。

 和は読書を再開し、宇宙が来るのを待っていたが、結局、彼女は登校時間ギリギリにしか来なかった。目を赤く腫らしていたので、寝坊でもしたのだろう。……なんて思ってみたり。






 昼休み、授業終了と同時に、紙袋を持った宇宙が和のもとへやってきた。

「和――」

「…………?」

 宇宙は大袈裟にあらぬ方向を向いて、彼に話しかける。

「いま、いいかな……」

「…………」警戒されているなと感じながら、和は彼女の顔を見て応える。「大丈夫だよ。……というか、まだ僕のこと怖い、かな……?」

「う、ううん!」

 宇宙は首を横に振り、慎重に和のほうへ顔を向けた。

「その……、怖いというか、緊張してるというか……。たしかに昨日の和は、和じゃない気がして、こ、怖かったけど……」

 和と目が合うと、目の前の彼が本物であると確信したように、宇宙は和への緊張と警戒を解く。

「あの後、和、早退しちゃったでしょ? それで家に帰って和のこと考えていたら、もしかしてあの言動には、なにか理由があったんじゃないかって思って。ほら、渡り廊下から飛び降りて平気だったり、その、やけに私を、見てくれたり……」

 宇宙が再び視線を逸らして黙り込む。しかし、やがて意を決したように、右手につけた腕時計をひと撫で――、「それなのに昨日は逃げちゃって、ごめん」と頭を下げた。

 予期せぬ宇宙の謝罪に、和は動揺。「か、顔を上げて、こすもさん!」なんて慌てふためき、思わず勢いよく立ち上がる。「僕のほうこそ、ごめんなさい!」と、深々と頭を下げた。

「い、いや、和が謝らないでよ……!」

 宇宙が周りを見渡すと、クラスメイトが何事かと、こちらへ視線を向けている光景が映る。羞恥を抱く一方で、和に対して申し訳なさが募ってゆく。宇宙は、右手首を絞めつけるように腕時計を握って、苦しそうな表情を浮かべた。

「和……お願いだから、謝らないで……ほしい……」

 声を絞りだすような彼女の苦し紛れのお願いを聴いて、和はぱっと顔を上げた。

「ごめん。やりすぎちゃった、かも……」

「ううん。こっちこそごめん。いやな風に目立っちゃうのは、好きじゃないから……」

 視線を下ろした物憂げな宇宙の表情に、和は罪悪感を覚えた。心の中で改めて謝罪する。

「あぁ、はい、これ! 昨日は、お弁当ありがとね!」

 無理やり口角を上げた宇宙が、ぽんと机に紙袋を置いた。

 その後――、

「――私、図書室で勉強するから、それじゃ!」

 そう言って、和の席から逃げるように立ち去ろうとする。

「――あ、待って。こすもさん」

 和は、走り去ろうとしてしまう宇宙の右手を、飛びつく勢いで慌てて掴んで彼女を引き留めた。

 勢いよく掴まえたせいで、机のギシシッと床に擦れる音が教室に鳴り響き、一瞬、教室に静黙が生まれる。机の上では、くしゃっと弁当箱の入った紙袋が倒れた。

「も、もぉー、だめだよ、異性の手を簡単に掴んじゃぁー……。まったく、あはは……」

 宇宙は、和のほうを向かずに顔を伏せ、わざとらしく乾いた笑い声をあげる。

「こすもさん。もう少し、お話ししたいかも……」

「ごめん無理、離して……。部室に行きなよ、部長さんと荒山さんが待ってるんでしょ?」

「いや、今日も部室には行かないから……、だから一緒にご飯食べよ……?」

「そんなことしたら……、勘違いされちゃうでしょ……。和に迷惑だから……」

「それでも……」

 和は、手を離さなかった。いま離してしまったら、宇宙との縁が大袈裟に切れてしまうような気がしたから。しかし、教室から、ひそひそと生徒の話し声が聞こえてきた。具体的な内容までは分からないが、自分たちのことを話題にしていることだけは分かる。このまま教室にいると、目立つのが苦手だと言っていた宇宙をさらに苦しめることになる。和は、彼女の手を取ったまま、教室の外へ出ることに決めた。

「ちょ、ちょっと、和……!?」

 宇宙は、驚きを口にしながらも、和に連れられるまま足を動かす。

 しばらく廊下を歩き、人の気配がない別館校舎の階段の踊り場へ到着すると、和は立ち止まり、宇宙の手を離した。

「ごめん、無理やり連れ出しちゃって」

 そう言いながら、和は宇宙のほうへ振り返る。

「な、なんでこんなにところに……」

 明らか意図的に薄暗い場所へ連れ出され、宇宙は彼の行動を不審がって、階段を一段上った。

「ま、まさか、和くん――、――んなっ!」

「…………?」

 まさか、彼にをされるつもりだと想像してしまったのか、自分でも思ってないことを口走ってしまいそうで、宇宙は慌てて両手で口を塞ぎ、恥ずかしくなって顔を逸らした。

 一方、宇宙を連れ出した和は、彼女が言いかけた言葉には触れず、踊り場に設置された窓を開けて、目先にある中庭の桜の木へ目線を向けると、あることを彼女に訊ねる。

「――今朝、僕と、僕の前の席に座った人の話――こすもさん、廊下で聞いていたよね?」

 ちょうど太陽の光が当たらぬ階段の端にいる宇宙へと、和は視線を移した。

 宇宙は口元から両手を離す。

「……居たの、知ってたの?」

「うん」

 返事をすると、和は再び外を眺める。

「僕、他の人に比べて人の気配を感じやすい体質でね、ひとりで居たり緊張したりすると、無意識に周囲の人の気配を感じ取ってしまうみたいで。それで、僕と彼が話しているときに、教室の前に人の気配を感じていたから、もしかして――って思って。さっきのこすもさんの態度が答え合わせだったみたいだから……」

 少しの間を置いた後、宇宙のほうを向いて、

「こすもさんがいるって知っていたのに、あんな会話しちゃってごめんなさい」

 と、頭を少し下げた。

「……そっか。そう、だったんだ……」

 ふっと力が抜けて、宇宙は壁に寄りかかる。

「いいよ、和が悪いんじゃないし……。それにさ――、ううん。なんでもない……」

 顔を上げた和が、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。

 彼の穏やかな笑顔が、少し眩しかった。日に当たっているせいだろうか。

 宇宙のいる階段の端は、日が当たっていないせいか、なんとなく、じめっと湿気があるように感じる。それに空気も冷めている。

 あのとき――女子トイレへ逃げたときと同様、まるで心の内にいるような心地よさを感じて、一気に力が抜けた。地べたが汚いとか、そもそも気品がないとか、そういうのを一切合切無視して、宇宙は地べたに座り込み、壁に身を委ね、右手の腕時計を握り締める。

「あの噂、全部本当だよって言ったら、和はどう思う……?」

「――――」座り込んだ宇宙の――下の方へと、和の目が自然と向けられる。しかし、すぐに窓の外へ視線を移して彼女の質問に答える。「嘘だねって、否定すると思う……」

「そっか……」宇宙は、薄らと口角を上げた。「全部、本当だよ……」

 家庭の事情も、去年自分がやったことも、全部ぜんぶ、事実。気づかぬうちに、自分の家庭内のことがクラス中に広まっていて、気づけばみんなから避けられていた。三度の転校もあり、宇宙は一人でいることに慣れていたので、高校でも一人でいること自体に何の問題はなかった。ただ、時々聞こえてくる陰口はきつかったけど。

「一人でいたのにさ……ううん、独りでいたから、私、悪者になっちゃったみたい……」

 つまり、和に話しかけた男子生徒が言っていた、去年、宇宙が犯した出来事は、独りだったが故に起きてしまった勘違い。――でも、それを今更、必死に弁明しようとは思わなかったし、これからもどうせ独りでいるなら、弁明する必要もないと諦めていた。

 だけど、いま彼を前にしたら、溜め込んでいたヤミが零れてゆく。

「オリエンテーション合宿で、私が自分のやる仕事を他の生徒に押しつけたって話、あれは、クラスの男子たちが『俺が――、僕が――』って言って、私は断ったんだけど、彼らが勝手に私の分の仕事までやってくれて……。女子生徒には冷たい態度っていうのも、私が人見知りなのが悪いんだけどさ、話しかけてくれた子に上手く返せなかったり、遊びに誘ってくれたりしたんだけど、毎回断っちゃって……。そしたら、私、性格が悪いことにされちゃって……。文化祭のときは……」

 ――と、ここで、しばしの間があり、

「まぁ……知っての通り、あれは言い訳もなく私にも非があるんだけど……」

「…………」

 宇宙は、和を一瞥する。彼は外を眺めているばかりで、返事をしてくれない。信じてくれた彼を裏切ってしまった。彼は、きっと私に失望しているんだ。自分を愚かしく思って、そっと目線を下ろして、右手の腕時計を擦るように撫でた。

「はぁ……」

 つい、息苦しくもいきどおってしまった。



「――キミは、どうしたいんだい?」



 すると、突拍子もなく、彼がそんなことを訊いてきた。

 彼の、大人びていて、落ち着きすぎていて、悟ったかのような低音の声に、宇宙は違和感を覚える。「え……?」と訊き直しながら顔を上げ、和の様子を窺うと、

 ――――。

 太陽に浮雲が被さったのか、和を照らすように差し込んでいた和やかな光は消え去り、元々、明かりの点いていなかった踊り場に、薄暗く陰湿な雰囲気が纏い始める。

「――和、じゃないよね……?」

 宇宙の前で、蛇目じゃのめ模様に黄色の瞳の《彼女》が、冷めた笑みを浮かべていた。


愚痴々々ぐちぐち、苦情ばかりを吐くならさ、

 ――《俺》とヤミへと堕落しないかい?」


 とっとっと。無情の足音を立て、《彼女》は、階段に座り込む宇宙のもとへと近づく。

「我がままに被害者面して、己を不幸だと偽って、悲劇のヒロインを気取ってさ――」

《彼女》が、宇宙の前で立ち止まり、蔑むような冷ややかな視線を送ると――。

「いまを変える力がないって思い込み、ヤミを隠してあげたら、――それで満足なのかい?」

「それは……っ!」

 彼の視線に当てられて身体が硬直してしまったのか、宇宙は座り込んだまま彼を睨む――というか、目までもが凍ってしまったかのように睨むことしかできない。

 すると《彼女》が、宇宙の顎に、そっと触れ、持ち上げる。

「…………!」

 まるで、蛇に巻きつかれるように、或いは蔦に絡みつかれるように、身動きの一切が取れなくなった。

 昨日と同じだ。無理矢理に心の底を覗かれて、無茶苦茶に共感してくれるような、きみの悪い寒さと、人を憂える温もりが混在した、惨くも悟ってくれる奇妙な感覚。

 生温なまぬるい風が窓から入り込み、身体に纏わりついてゆく。

《彼女》が言う。

「ヤミを抱いてこそ、他人ひとに迷惑かけてこそ、人間なんだ。だから、ヤミを嫌悪しなくていい。在りのままに、吾がままに、抱いたヤミを受け入れればいい」

 宇宙は、なんとか声を絞りだして反論する。

「で、でも、そんなの、ダメ、だよ……。悲しんじゃ、ダメ、だから……」

「たしかにね。他人ひとの為にヤミを抑える、それができるキミは実に奇麗だ――。けれど、《俺》と居るときは、ヤミを抑える必要なんてない。

 ――だって《俺》は、キミを受け入れられるただの一人だからね」

 そう言って、薄ら笑いを浮かべると、《彼女》は、顔を、唇を、宇宙へ寄せてゆく。

「…………!」

 嫌でも分かる、《彼女》のやろうとしていること。抗おうと思っても、蛇に、蔦に縛られたような感覚を得る宇宙は、どうすることもできず……否、抗う意思が芽生えなかった。このまま《彼女》のやろうとしていることを受け容れてしまえば、ヤミを放っても独りにならないような気がしたから。いや、ヤミを抑えた今でも独りなのだから、このまま《彼女》を受け容れたほうが……、《彼女》と一緒にヤミへ堕落したほうが、幸せの拠り所を手にできるかもしれない。

 宇宙は、目を閉じた。

 運命のままに――、

《彼女》の赴くままに――、

 時間の流れゆくままに――、

 空間に支配されるままに――、

《彼女》と、ひとつに……。

 ――そのときだった。

 バチィィイイン! と、軽快に鞭打つような弾ける音が鳴り響く。

 すっ、と宇宙は目を開いた。

「――ま、まだ、してない……、よね……? あははは……」

 赤面し、左頬に真っ赤な手のひらの跡をつけた和が、動揺しながら訊ねてきた。

 宇宙は、こくんこくん、と首肯する。

 目が覚めた。自分がなにをしようとしていたのか、改めてそれを考えると途端に恥ずかしくなって、惨めに思えて、目の前の彼を押しのけた。

「うわぁ――!」と、和は情けない声を漏らして後ろによろめく。

「ごめん! つい……」

 宇宙はそっぽを向いて、自らを抱くように膝を抱える。

「僕こそ、ごめん。《あの人》が出てこないよう抑えていたんだけど……、ダメだったみたい……」

 和が目線を落とす。――しかし、「それでも……」と呟きながら、彼は立ち上がった。

 そんな彼を照らすように、踊り場に、再び穏和な光が差し込んだ。

 ふわりと温和な空気に包まれ、それが宇宙の頬を撫でる。

 穏和な光に、温和な空気に惹かれるように、宇宙は和のほうを見上げた。

 窓から差し込む光に晒され、日の光を羽織った彼が、階段の陰へと手を差し伸べる。

「《あの人》がなにを唆したのか分からないけど、僕はキミをヤミに堕としてやらない。こすもさんには、こすもさんを想う人がいるんだから、独りだなんて思い込んじゃダメだよ」

「で、でも……」

「忍ぶだけじゃ、息をするのも忘れちゃうほど悲しくなるから……」

「…………」

 憐れみを抱く、彼の儚げな表情が宇宙の心を撫でる。

 次の瞬間、和は柔和な笑みで彼女を見た。

「まだ、お悩み相談は終わってないよね。まずは、お悩み相談部の僕が傍にいるからさ」

 さぁ、手を取って……、そう語りかけてくる彼の優しさが、宇宙の意識しないうちに彼女の左手を彼のほうへと引っ張ってゆく。

 人に憂いを任せてしまうのは悪いことだと思っていたけれど、彼を頼ってみても、誰からも責められず自責も負わないでいいような気がした。

 愚かしくも、それが許されるような気がした。

 彼が、太陽に見えた。

 彼が、光そのものに見えた。

 彼が、最後の希望に見えた。

 そう思い、彼の手を掴もうとしたときだった――。

 ――ぐぅううう、と、なにもかもを遮るように彼のお腹が鳴った。

「…………」

 宇宙は、伸ばしていた手を、ぴたと止める。

「あははは……」

 と、和は気まずそうに乾いた笑いを放ち、差し出していた右手を自身のお腹に当てた。

「空気を読めない、空っぽ腹めぇー、…………。

 ――なんて。空気を壊しちゃって、ごめんなさい」

 彼は、やっぱり和だった。宇宙はそれを確信して嬉しくなって、自然と笑いが込み上げてきた。

「やっぱり和はズレてるよ。――でも、ありがとう……」

 宇宙は一人で立ち上がり、スカートの後部をはたく。

「ねぇ、和――、もうひとつ相談に乗ってくれませんか?」

「もちろん」

 和は、二つ返事で引き受ける。

「じゃあ、食堂に行こっか。こすもさん、お弁当持ってきてないんでしょ?」

「うん。今朝は、時間がなかったから……」

 彼に見透かされても、今さら宇宙は驚かない。

「ふふん。これは食堂で食事するしかないね!」

 分かっていたよ、と言わんばかりに、和が得意げなニンマリ顔を曝す。そんな彼の誘いを断れるわけもなく、宇宙はほころび、「ありがとう」と素直に一言だけ。

 こうして、ふたりで食堂に向かった。

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