二章 - 3

 二章 くひとよ③




「たっだいまぁ~! 和くーん! ボクが帰ったぞぉー!」

 自宅の玄関にて、一人美ひとみは、キッチンにいるだろう彼に帰宅したことを報告。

 しかし、期待していた彼からの「おかえりなさい」がない。

「おーい、和くーん……、

 ――うん?」

 一人美が靴を脱いでいる最中、キッチンのほうから、ふたつの声が聞こえてきた。

『――さん。これじゃ、料理ができないです』

『料理はゆっくりでいい。なぐたんと、こうしていることが最重要事項……』

『そう言ってくれるのは、なんというか、嫌な気持ちはしないですけど……』

『ぼくも、なぐたんとこうしていると心地いい。なんなら、みみはむはむでも――』

『それは結構というか、離れてくれないとカレーが作りにくくて……。それにほら、もうちょっとでひとみ先輩が帰ってきますし、はやく作り終えないと……』

『あんなやつ、ほっとこう。ぼくらの邪魔は、絶対にさせない』

「――――っ!」

 だっだっだっだ! 一人美は、急いでキッチンへ向かう。

「うぉおおおーいっ! なぁにしてんだぁああああっ!

 ――うわぁ……」

 キッチンに到着して、そこにあった光景に、一人美は思わずドン引き。

 エプロンを着て、カレーを煮込むなぐ。それと、彼の腹部に腕を回し、彼の背中に体と顔をぺたりとつけた女の姿――自らの姉、二色にしきの姿があった。

「あ、ひとみ先輩……。お、おかえりなさい……」

 和が気まずそうに言う。

「…………」

 和に抱きつく二色は、じぃーっと一人美を凝視。

「な、和くん。どぉーして、こいつがボクらの家にいるんだよ……」

 一人美の問いかけに答えたのは、和にくっつく二色だった。

「バイト終わりに、和に誘われた。甘えん坊将軍との生活は飽きたから、ぼくと夜を共にしたいって。ちょうど、ぼくも和の隣に居たかった頃だから、いい機会だと思った」

「むぅううううう!」

 一人美は唸りながら、ずかずかと二人のもとへ近づいていき、二色の腕を掴んだ。

「和くんから離れろ、この、二面野郎!」

「八面体のキミに言われたくない」

「むぅううう……!」

 二色を和から引き剥がそうとするが、一向に離れず。

「もうちょっと、和くんも抵抗しなさいよ!」と、今度は和の腕を引っ張る。

「え、ああ、すみません。で、でも……」

「ぼくはぜったい離れないからね、なぐたん」

 一人美に負けじと、二色はさらなる力を腕に込めた。

「に、二色さん……。すこし、愛が重くて、押し潰れそうです……」

「なぐたん、愛はこれくらい重たいほうがいいらしい。もう一生、離さないから」

「和くんは遠回しに、力が強いと言ってるんだ! それを素直に受け取るな!」

「四歳下の分際で文句を言ってはいけない。ときには年功序列も必要」

「はぁ!? それなら、あんたは二十一歳の分際で、未成年を誑かすなよ! けーさつ呼ぶぞ、けーさつ! もしくは、おじいちゃん呼んでやる! 和くんから距離を置けぇー!」

「あ、あの……っ、――うぐっ……」

「拒否する。たとえ接触禁止の命が出ようとも、駆け落ちランデヴーでも、誘拐ハネムーンでもやりきって、和との、純愛と泥沼のカオスモス浪漫ろまんを完遂してみせる」

「和くんに救済されたからって、溺愛するにも程があるんだよぉ!」

「ちょ、ちょっと……、おふたり、さんっ……」

「和のヤミを抱けるのは、このぼくだけ。これが全てで、これこそ至高」

「むぅ……。ぼ、ボクなんか、和くんのヤミに匹敵する裏無意志を持っているから、打ち消せるもんねぇーだぁっ! ヤンヤンデレデレより、健全だもんねぇええええーーだあッ!」

「ぼくのほうがいい」

「いや、ボクだ!」

「ぼく」

「ボク!」

「ぼく」

「ボク!」

「ぼ――」



「――あの、ふたりとも! 僕ごときに、貴重な姉妹喧嘩はしてください!」



 和は声を絞りだし、ふたりの口論に終止符を打った。

 が、しかし――。

「こら、和くん!」

 一人美が、和の両頬を掴んで、無理やり自分のほうを向かせ、

「ねぇ、なぐたん」

 と、二色が、和の頭を優しくよしよし撫でて――、


「ごときなんか言っちゃダメだよ。和くんはボクの恩人だからね」

「ごときなんて言ってはいけない。なぐたんはぼくの恩人だから」


 ふたりは、口を揃えて言った。

 和は呆気に取られるも、「しゅみましぇん……でした……?」と、ひとまず謝る。

「いちいち謝らないで、と言いたいところだけど、和くんはボクらの恩人であることを自覚してもらわないといけないからね」

 そう言って、一人美が和の頬から両手を離す。

「なぐたんのおかげで今がある。ゆえに、ぼくらの喧嘩は必然。なぐたんが、ぼくらの喧嘩に口を挟めるのは、どちらについていくか決めたとき」

 と二色が、和から離れた。

「しょうもない喧嘩もほどほどにして。ボクは部屋着に着替えてくるよ」

「なら、ぼくは、夕食後すぐにお風呂に入れるよう、お湯を溜めてくる」

 一人美と二色が、各々目的の方面へ向おうと――

「きみ、泊まるつもりかよ」

「当然。女性一人の夜道は危ない」

「きみなら大丈夫だろ」

「うん、たぶん。ただ、和がそう言ってくれたから、そうするしかない。ふふん」

「――あ、いま優越感に浸りやがったな!」

「同棲では得られない快感」

「おい、このやぶへび野郎――!」



「…………」



 九尾ここのお姉妹に散々振り回され、挙句、身勝手にもキッチンに取り残された和。

 静かになったキッチンでは、カレーのぐつぐつと煮え立つ音と、換気扇の空しく回る音が主張を始め、まるで呆然と立ち尽くす彼を慰めてくれているような。

「……なんか、すっごくツッコみたい気分、です……」

 彼らへ語りかけるように、ぼそっと呟いた後、大人しく料理の仕上げを行った。



 一人美が部屋着に着替え、二色がお風呂の自動お湯はりの設定をし終えた頃、食卓には三人分のカレーライスと、サラダが並べられていた。

「いえーい、いただきまぁーす!」

 一人美が溌剌と言って、さっそくカレーを口にする。

「いただきます」

 と、一人美の正面に座る和が丁寧に言って、サラダを食べ始める。

「……いただきます」

 一人美の隣に座る二色は不服そうに言って、カレーを頬張る。

「かぁーッ! やっぱ和くんのカレーは一味ちがうぜ! おいしいよ、和くん!」

「ありがとうございます。久しぶりだったけど、うまく作れてよかったです」

「それにしても、早退してアルバイトやカレー作りに勤しむなんて、和くんも悪よのぉ~」

「……たしかに、そうかもです。あ、でも、ひとみ先輩のおいしそうにカレーを食べる姿が好きなので、つい……。――なんて、言い訳はダメですかね……?」

「うん。あざとすぎるから却下で。もぐもぐ……」

「あはは……、……すみません」

「むぅ…………」

 和は、無言で淡々とカレーを食べる二色の異変に気づいた。彼女は元々、表情が希薄だが、今の彼女は、カレーがおいしくない、と訴えている風に見えた。

「二色さん、お口に合いませんでしたか?」

 和に訊ねられた二色は、不愛想な顔をして、

「ううん。カレーは、すごくおいしい。それこそ、なぐたんを誘拐してぼく専用のカレー製造機にしたいくらい。――だけど」

 ぎろっと隣の一人美を睨んだ。

「和を正面にして食べることが至高なのは、言わずもがな。キミが邪魔」

 二色の不満を知った一人美は、へへーん! とご満悦そうに胸を張る。

「仕方ないよぉ~。にしきお姉さまは来客様さまなんだから、この配置は当然だよね~!」

「うざい。こうなったら、なぐたんと一緒にお風呂入って、一緒のベッドで寝る」

「えっと、すみません。それは、僕がお断りさせていただきます」

 えっ――? と、二色は口を開け、ほんの少し目を見開いた。

「当たり前だろ。二十一歳が、そういう行為を犯すのは、ご法度もご法度さ。

 もっちろーん! 和くんと一歳差のボクだったら許されるけどぉー! あっはっはぁ!」

「いえ。僕がお断りさせていただくので、それもあり得ません」

 そんなぁ……、と、一人美が眉尻を下げた。

「そういえば」と、和は強引に話を変える。「ひとみ先輩、昼休みと放課後は、ご迷惑おかけしてすみませんでした。それと二色さん、どく抜きありがとうございました」

「いいよ、いいよー。まぁ、昼休みに関しては、俳句でも読むんじゃないかって勢いの、青春桜花おうか絢爛な具合にむかついたけど。でも放課後は、まつ子と親睦を深められたし、念願だった同級生との勉強会もできたから、むしろこちらこそありがとうだよ」

「ぼくも構わない。なぐたんと過ごせるのは貴重だから、こちらこそありがとう」

「……な、なんか、」面と向かって感謝されるのは、すごく照れ臭くって、「僕のほうこそ、ありがとうございます」と、和の口から笑みが零れた。

「でもねぇー、和くぅーん」

 一人美がミニトマトをぱくっと口に入れ、不満そうに和へ声をかける。

「なぁーんで祖父の喫茶店の店員さんが、うちにいるのかなぁー……」

「あぁ、それは、どくを抜いてもらったお礼に、うちに誘ったんです。マスターにも声をかけたんですけど、孫ふたりと食事するのはまだ慣れないからって……」

「はぁ、そういうことか。……たしかにボクも、ちょっと気まずいかも……」

 一人美が照れ臭さを呑み込むように、コップいっぱいの水をごくりと飲み干す。

「それはそうと、和くん。和くんに教えてもらったとおりに説明したら、うまくいったよ! ありがとね! ――あ、でもでも、和くんが早退した理由は言わなかったよ。まつ子に話して変な気を遣われたら、和くんの居心地が悪いかなって。和くんがいいなら、言ってもいいんだけどね」

「お気遣いありがとうございます。でも、これまでの経緯は一通り話したんですよね?」

「あ、あぁ……、うん。あらすじ程度には、ね……」

 一人美が、和から目を逸らす。

「なにをしているの、おバカさん」

 と食い込むように言った、二色の顔に不機嫌が纏い、一人美に説教を始める。

「原則、一般人を陰陽司の世界に巻き込むことは禁止されている。陰陽司連合から追放されたぼくが言うのはおかしい話だけど、この規則があるのは、秘密保持はもちろん、なにより陰陽司という脅威が普及しないようにするため。それを理解したうえで、彼女に言ったの?」

 一人美は、不満げに答える。

「当然、理解しているよ。だけど、まつ子には陰陽司の素質があったから、話しておかなければならないと判断したんだ。あと、お悩み相談部に入部してくれる限り、陰陽司や心、ボクらの過去は教えておかないと、仲間外れはダメでしょ」

「公私混同のほうがダメ」

「うっ……」図星と言わんばかりに、そっぽを向く一人美。

「というかそもそも、裏無意志うらないしを解放させた姿を見られていないなら、一般人に陰陽司の説明をする必要はないし、州凶乃時腔ツキョウノジクウの中で見られたのなら、発現者の心が穏やかになれば、閉じ込められた人々の記憶から内部で起きた記憶はなくなるのだから、裏無意志の姿を見られても構わない。ゆえに、陰陽司の素質があろうと、陰陽司の説明をする必要はないはずだけど」

「…………」一人美は、二色の言葉を無視して、黙々とカレーを頬張る。

 その違和感に気づいた二色が、一人美ではなく和に問いかける。

「なぐたん、もしかして州凶乃時腔から、あの子を脱出させたの……?」

「それは、えっとぉー……」

 和は、しばらく黙って、目の前のカレーを凝視する。

 カレーは甘口のはずなのに汗が止まらない。

 やがて諦念して……、

「はい。脱出させちゃいました……」

 誤魔化しも、嘘を吐くことも苦手な和に問うた時点で詰みだった。

 二色が、隣の一人美のほうを向く。それはもう、今日一番の苛立ちを滲ませた表情で。

「本当にあなたは、なにをしているの。陰陽司や連合の脅威を、まるで理解していない」

「理解してるってば。和くんと会うまで、ボクはあそこに尽くしてやっていたんだから」

「いや、あなたは理解していない。陰陽司連合のやっていることは、弱さを強さに逆転させる可能性を秘めた脅威そのもの。心の弱さを知ることで裏無意志を解放させたり、ぼくや和みたいに心のヤミそのものが具現化してしまったり――言ってしまえば、強弱の関係を反転させて混沌としたで支配できるということ。もう一度訊くけど、そこまで理解して言ったの?」

 再度問われた一人美は、カレーを食べながら。

「何度訊かれようが、そうだよ。そこまで見極めたうえで、まつ子に言っても問題ないと判断したから話したまでさ」

「そう」二色が、顔の向きを正面に戻す。「これ以上、陰陽司連合から追放されているぼくが追及することはない。したがって、ぼくもぼくの利害でしか行動してやらない」

 姉としての最後の忠告だ、と、和は、二色がそれを暗に伝えているように感じた。

「あぁ。ボクも遅めの反抗期を満喫するさ」と、一人美はムキになって返す。

「――それと、なぐたん」

 二色が、和に声をかけ、彼のほうへ視線を向けた。

「なぐたんは、この子の指示のすべてに従う必要はない。なぐたんが違うと思ったことには意見すべき」

「はい。でも、あそこから連れ出したのは僕の意思でもあるので、その、すみません……」

「そう。なぐたんが選んだことなら、ぼくがとやかく言うつもりはない」

 その代わり、と、二色は付け加え。

「困ったり悩んだりしたときは、ぼくに何でも相談してほしい。すぐ駆けつけるから」

「あ、ありがとう、ございます……」

 和が気まずげに、ちらっと一人美を見る。彼女は、不満げに隣の二色へ顔を向けた。

「なんだよ、この優しさの格差は。一応ボク、きみの実妹なんだけど」

 二色は、カレーを食べながら。

「残念ながら、ぼくはシスコンではない。よって、妹を甘やかす道義がない。しかし、ぼくはなぐたんコンプレックス――すなわち、なぐコン。なので、和を甘やかす義務がある。残念だね」

 ふっと、薄らと口角を上げた。

「まぁ、それなら致し方なし、か……」

 同じくなぐコンである一人美に、反論できることはなかった。

「…………」

 ツッコみたいが、ツッコむ言葉が見当たらず。和は、「ところで」と話題を変えた。

「摩怜さんが州凶乃時腔を顕現させた原因って、判明しましたか?」

「あぁ、そうだった」と、一人美が思い出したように部屋着のズボンポケットから、摩怜から預かった晴臆仁惚せいおくにこつを取り出して、テーブルに置いた。

 和と二色が上半身をテーブルに寄せて、それを覗き込む。

「見たことのないタイプです……。これって、タロットカードですよね……?」

「うん。偶然なのか必然なのか、今回はタロットカードらしい」

「ぼくの件はあくまで陰陽司という身内の問題だったから、12+1種類で済んだ。でも今回は、仮にタロットカードの枚数分あると考えたら、一般市民への普及目的かもしれないことも視野に入れなければならないと思う。あなたは何か知らないの……?」

「さぁね。反抗期をぶちかましてから、ボクのほうに情報が来なくなっちゃったし。だけど、ただひとつ分かっているのは、九尾家の属する派閥のものではない、ということかな」

「ということは、じゃあ……」和は、一人美を見る。

「あぁ、確実にメイドインお向かいさんだね。こんな下品な作り方をするのは、あちら様だ。――和くん、明日だけど、あいつにまつ子を紹介するついでにこの件を訊いておいてくれ。このカードを渡された本人に確認してもらったほうが確証性もあるだろうし」

「ぼくも、おじいちゃんに話しておく」

 一人美は、そりゃどうも、と言って、タロットカードをポケットに仕舞った。



 晩ご飯を食べ終えると、一人美が「あと片付けはボクらでするから、和くんはお風呂に入っておいで」と和に伝え、ソファでごろごろし始めた二色をむりやり引っ張り、キッチンのシンクへ連れ出した。

「ぼくは、お客様さまだったはず……。なんで……」

 不満げに、大儀そうに洗った食器を一人美から受け取り、布巾で水を拭う二色。

「文句を言うな、文句をー。カレーを作ってくれた和くんに感謝しろぉー」

「しかし、食器乾燥機があるのに、なぜ布巾……」

「それは、あれだよ……。和くんが居ないうちに話したいことがあったから……」

 一人美は、淡々と食器を洗いながら、決して隣の二色を見ずに――、

「その、ありがとな……。和くんのどく抜きを引き受けてくれて……」

 ぼそそっと気恥ずかしそうに告げた。

「構わない。今のぼくにできることは、和の心のヤミを抑制することだけだから」

「でも、あれだろ? 和くんの表面化したヤミを、キミに……お、おねー――二色に移送するわけだから、きついでしょ……? それにどく抜き中は、和くんの封印されている過去の記憶が流れてくるだろうし……。精神的にも大丈夫かなって……」

「問題ないとは言えない。けど、和の記憶を奪った者として、この役割を果たす責任があるのは至極当然。それに現状、晴臆仁惚なしでヤミを、州凶乃時腔を顕在できる異質さを有するのは、ぼくと和だけだから想いを分かち合える人がいるのは心強い」

「それもそうか……」

 通常、人の内に在り、概念的な存在である心のヤミが、無条件で顕現することなど有り得ない。現状、晴臆仁惚が所有者の怯えに反応することで、州凶乃時腔という現象で心のヤミが具現化されるしか方法はないのだが――、けれど、和と二色だけは他と異なり、晴臆仁惚を所有せずとも州凶乃時腔の顕現を可能とし、また、裏無意志と同等の能力――一人美が狐の姿に変身するような能力――を持ち合わせる、異端な存在であった。

 二色はその異質さから、陰陽司連合に忌み子や危険因子と認知されて追放。逆に和は、陰陽司とは無関係な一般人がこの異端な性質を持っていたことから、研究対象として陰陽司連合に保護という名目で連行され、陰と陽を釣り合わせることで秩序を保つように、和の膨大な心のヤミに匹敵する裏無意志を持っていた一人美が世話役に任命された。しかし、結果から言ってしまえば、ヤミを抑制するためには、同じ量の心のヤミを持つ者同士の接触――これが、一番の抑制方法だと判明するわけだが、この事実が判明するまでの、和と一人美のボーイミーツガールな物語は、主要キャラが意味なく次々と呆気なく命を落とす物語と同等の、なんとも言えぬつまらなさがあるので、割愛させてもらう。

「記憶を失くしても内に残ったヤミを完全に消滅させることはできなかった。結局、ヤミを克服するには、本人が過去や悩みと向き合わなければならない」

「それは、今はいいよ……」一人美が、力なく言う。「いっぱい背負ってきたんだから、今だけでも肩の荷下ろして、ゆっくりみちを歩んでほしい……」

「たしかにそうだけど、あなたは和の過去を知らないのでは……」

「あぁ。だけど、和くんと関わってきて、その辛さは知っているつもりだから……。

 はぁ、情けないね。和くんの世話役なのに、過去を知ろうとせず知る機会にも恵まれず……」

「あんな過去、知らないほうがいい。それに、あの過去を知るには和のヤミと同等のヤミを持った者でないと、きっと耐えられない」

「ヤミがヤミを引き寄せる、か……。どれだけの力があっても、優しさを持っても、思いやりがあったところで、一番助けたい人を助けられないんじゃ無力と等しいね……。はぁ……情けないよ……」

 一人美は、込み上げてきた涙をぐっと堪えて鼻をすすった。

「あまり気負わなくていい……。少なくとも、あなた……一人美との出会いで、和の人生は大きく変わった。彼のヤミと触れ合ったぼくが保証する」

 二色は、布巾で水滴を拭った。

「ありがとな……」

「うん。それより昨日、喫茶店に来てすぐ帰った子について話しておきたい。和が言うには、彼女と接触したことで自制できないほどのヤミが顕現し、《あの子》が心の支配権を奪ったらしい。彼女たちの悩みは解決したんじゃなかったの……?」

「うん。ふたりの悩み自体は解決したし、ボクもそう思っていたんだけどね。出風さんは、まだなにかヤミを持っているみたいだよ。和くんのヤミが彼の自制を潜り抜け、表面化して、《あいつ》が出てきたってことは、その理由はただひとつしかないからね」

「……血のしがらみ

「…………。――はい、これで最後」

 一人美は、洗い終えた最後の食器を二色に渡した。

 二色が、受け取った食器の水気を拭う。

「分かっていると思うけど、彼女からは距離を取らせるべき。そうしなければ、和のヤミが本格的に具現化すると今より大変なことになる」

「あぁ、ボクもそうしたいのは山々だけど」一人美は、タオルで手を拭きながら、呆れたように言う。「和くんが、出風さんをとにかく贔屓にしているんだ……」

 和には学校生活を楽しんでもらいたい、その思いが強い一人美にとって、無理に和から宇宙を引き剥がしてしまうことに抵抗があった。それに、根本的に無理のような気が……。

「それでも、やるべきことは決まっている」二色が、拭き終えた食器を食器棚に仕舞う。

「そんなに明言されてもねぇ……。現実は、太陽の消滅を見届けるくらい難しいんだよ……」

「は……?」

 一人美は、やや上方に顔を上げ、感傷的で儚げな表情を晒した。

「ヤミはヤミを引き寄せて、抱いて温め合うように慰め合って、やがてほろびゆく。人々の心は星々と同じで、仰々しくも哀調を帯びているものさ……」


「…………」


「…………」


「…………」


 ぼぉーっと、態度の急変した妹を見つめる姉。

「ごめん。ぼくは和じゃないから、裏無意志特有のセンチメンタルポエムはやめてほしい」

「…………、…………っ!」

 次第に顔を赤くする一人美。

「お、おっほん……。……と、とにかく、ボクらが無理に引き剝がそうとしても、運命という名の引力だけは、どうにもできないってことだよ……!」

「今のは、なんとなく理解……」

「まぁ、なんにしろ注意はしておくよ。《あいつ》が目覚めるほうが厄介だからね」

「もしそうなったら、すぐにぼくを呼んで。《あの子》を受け入れられるのは、ぼくだけだから」

「はぁ。癪だけど、それしかないか……」

 一人美はリビングのソファに座り、真っ黒なテレビをしばらく眺めて――、

「それに今回の晴臆仁惚は、いやーな予感がするんだよな。《あいつ》が影響していそうでさ……」

「…………? ああ、の話……。それも踏まえて、随時ぼくに情報をくれるとありがたい。追放されたぼくだけど、きみたちの為ならできるだけのことはしたいから……。頼んだよ」

「――――、……うん。

 …………。

 ……あ、あのさ……」

「…………?」

 一人美は、そろぅっと二色のほうを見て、ぎこちなく口角を上げた。

「その……、いろいろありがとな……。……お、おねー、ちゃん……。……ひひっ」

「…………」

 二色は、仄かに口角を上げた。

「たまには許してやろう。ふふん」


 …………。


 …………。


 …………。


 …………。


 ふたりの会話が一段落――否、四段落した頃、ガチャ、とリビングの扉が開けられた。

「ふ、ふぅ。すみません。次の方、お風呂どうぞ……」

 フェイスタオルを首にかけ、まだ髪に水っ気を残したパジャマ姿の和が現れた。

「あの、食器洗いありが――

 ――――!」

 そのとき、ふたりの鋭く光る双眸が、和の胸を騒がせ、つい反射的に後退り。

 すると、

 一人美がソファを飛び越え――、

 二色が床と平行になるよう飛び出し――、


 ――和に飛びかかる!


「和くん! 髪はしっかり拭かないとダメだって! ――おい離せ!」

「なぐたん。髪はきちんと乾かさないと風邪をひく。――触らないで」


 和に飛びついた一人美と二色は、彼の首に掛かったタオルを同時に奪い取ると、彼の頭に当てつけ、その上でタオルを奪い合うように、交互にこすりつける。

「あ、あの……! 禿げちゃいますって!」

 そんな和の言葉は聞き入れてもらえず。

「ほら和くん、髪が冷たくなってるよ! 和くんが風邪ひいたら、ベッドで一緒に寝て看病しないといけないんだから……あ、そっか――、

 ――やっぱり風邪ひいてもいいぜ! いひひっ!」

「可哀想。どこかのおバカさんが選んだパジャマだからか、既に体温が低下している模様。

 ――仕方ない。今日は一肌脱いだぼくが一緒のベッドで、ぎゅぅっとして寝てあげる。ふふん」

「いや、そんなことよりっ、僕っ、まだ禿げ――!」

「――おい、離せよ、七面鳥! お前はクリスマス以外、でしゃばるなあ!」

「うるさい、一面的人間。和ばかりに依存するのはよろしくない。ここは……、お、おねーちゃんに……、……任せてよ……」

「――う、うぉい! い、いまは、そんなこと言ってぇ、……せ、赤面する場面じゃないだろぉ……!? こっちまでムズムズするよぉ、ばかぁ……!」

「うん? いや、あなたは何か勘違いしている。ぼくは、和のおねーちゃんという意味で言ったのだけど」

「は、はぁ――っ!? そ、そんな、急に素面しらふで意味不明なこと言うなよぉ、あほお!」

「ふふん。恥をかいた妹の泣きっ面は、意外と見もので面白い……」

「こ、こいつ! 本っ当に! 真面まともじゃねえ――!」


「――も、もぉ、僕を姉妹喧嘩に巻き込まないでくださぁぃ……っ!」

 と、叫んでみるものの……。


「ボクが和くんを!」

「いや、ぼくこそ、なぐたんを」

「なにが、ぼくこそだ! それならボクこそだ!」

「いまいち意味が分からない」

「だから急にシラフになるなって――!」


「うぅ、僕の髪の毛ぇ……」

 けれどもやはり、彼の訴えは聞き入れてもらえず。

 最終的に、一人美が二番風呂を二色に譲ったことで終結するのだった。

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