二章 - 2

 二章 くひとよ②




 コーヒーの香りが漂う、放課後のお悩み相談部の部室――。

 摩怜まあれは、ローテーブルに置かれたコーヒーカップをそっと手に取り、ふぅーふぅーと冷ますと、ちびっと唇をつけて――。

「あぅ……っ」

 舌を火傷したのでローテーブルにそっと戻し、何事もなかったように、対面越しのソファに座る一人美ひとみの様子を窺う。

 一人美が、湯気の立つコーヒーカップに、角砂糖をみっつ投入。コーヒーマドラーでさっとかき混ぜ、タロット占いの本に目を向けたままカップを持ち上げ、ぐびっと……

「あっつううう! ねぇ、和くん! ふーふー、……してぃ…………、すぅ――」

「…………」

「…………」

「…………」

 一人美は、タロット占いの本をぱたんと閉じて。

「ま、まつ子が……、ふぅふぅ、してくれてもいいぜ……?」

 と、気まずい流れに乗ってみる。

「えぇ!? あっ、は、はいぃ……! さ、させていたたたきますぅっ……!」

 思いがけぬ事態に、摩怜は震えた手で、一人美のコーヒーカップを受け取ろうと――。

「あー、ごめん、冗談だよ……」

 一人美は、摩怜にコーヒーを零される顛末を予見し、諦めた(?)。

「い、いつも、親川君にやってもらってるの……?」

 摩怜は、純粋に抱いた疑問を、率直に訊いてしまった。

「…………」予期せぬ質問に、一人美は黙り込む。だが、じぃーっと興味津々そうに見てくる摩怜の圧に負けて、「まぁ、ぼちぼちだね……」と認めるしかなかった。

「ひとみんって、親川君には甘えん坊さんになるんだね」

 摩怜が、にこやかに言う。

 一人美は返す言葉が見当たらず(あの言動を見られては否定できないので)、摩怜から照れた顔を隠すようにタロット占いの本を開き、ポーカーフェイスを装うと本を閉じて、ソファに置く。

「さてと。相談者は来そうにないし、ボクらの正体と、和くんが早退した理由でも話そうかな」

 と、何事もなかったように別の話題を切り出して立ち上がると、部室の扉に掲げた『受付中!』の札を、『対応中!』の札へ反転させに向かった。

 摩怜は、微妙な気まずさを覚えた。正直に思ったことを言い過ぎたかと一人美に申し訳なさを覚え、「ひとみん、ごめん……」とソファへ戻っていた彼女に謝る。

 すると元の位置へ向かっていた一人美が方向転換して、摩怜の前で立ち止まり、真顔で彼女を見下ろす。

「え、えっと……」

 摩怜は、一人美の真顔にわずかな怖れを成して、握った右手を胸に寄せた。

「えい――」

 ――と、一人美が、摩怜の両頬をむぎゅうと優しくつねって、ニィッと不敵な笑みを浮かべてみせた。

「悪いこともしてないのにすぐ謝る口は、この口かぁ~?」

「む、むにぃー……」

 一人美は摩怜の頬をつねったまま、もみもみとほぐし始める。

「次、口癖のようにボクへ謝ってみろ……?」

 一人美は摩怜の頬から手を離し、くすぐるように細長い指を、うじゃうじゃと動かし始めた。

「ほっぺただけじゃ飽き足らず、身体中まさぐってやるから覚悟しとけよぉ~」

「も、もぉ謝りません! ごめんなさい! きゅぅ――!」

 摩怜は怖じ気づいて、ソファの上でハリネズミのように身体を丸め……

 ……さっそく謝ってしまう。

「…………」

 一人美は動かしていた手を止める。

「きゅ~、きゅ~」と唸りながら、か弱く怯える摩怜は、謝ったことに気づいていないらしい。びくびくと身体を震わす彼女を見て、一人美は申し訳なってきた。

「ま、まぁ、さっきの態度はボクにも非があるか……」

 こほん、とわざとらしく咳払い。

「――そ、そーだぞっ! ボクは和くんがいると、あ、……あ、甘えん坊さんに……、な、なっちゃうんだぞっ……!」

「きゅ~、きゅ~!」

「…………、――うぅ……っ!」

 盛大な自虐的暴露を摩怜に聞いてもらえず、しまいに恥ずかしくなったので、ボクのばか! と言わんばかりに両頬をつねった。

 摩怜とふたりきりの空間じゃ、思いがけず素が出てしまう――いや、出さざるを得ないというか……。州凶乃時腔ツキョウノジクウに居たときといい、摩怜といると調子が狂う。一人美にとって初めての経験だった。

「――いひひっ」

 と、つい笑みを零す。

「よし! まつ子には特別にボクらの正体を教えるから、しっかり聴いてくれよ! ひひっ!」

 たったった、と小走りで摩怜の対面越しのソファへ戻って、弾むように腰を下ろした。

 摩怜が落ち着きを取り戻し、座り直してコーヒーを一口飲むと、「ふぅ……」と一息。

 一人美も、表情を崩さぬようコーヒーを口にする。蕩けるほどに甘かった。

 部室には、一人美と摩怜のふたりだけ。なぐの姿はない。

 昼休み、ひとりで中庭から校舎へ戻ってきた和に、一人美は早退するよう提案――否、指示をした。彼は二つ返事で応え、体調不良を理由に早退。教室に戻ってこなかった和を、宇宙こすもがどう思ったかなど、一人美や摩怜の知るところではない。摩怜でさえも、なぜ早退させたのか訊ねたときに、「和くんには、どく抜きへ行ってもらった」と意味不明な言葉が返ってきたくらい。「放課後、一時間経っても相談者が来なかったら、まつ子にはボクらの正体を明かそう」と一人美が告げて、今に至る。

「さて、少々長々しい説明になるけれど、新入部員はボクらの正体を知る義務がある」

 新入部員と言われて、摩怜は改めて部員になったことを実感した。

「率直にボクらの正体は、陰陽を司ると書いて陰陽司。ヒトの心を撫でまわす愚か者さ」

 一人美は決め顔で、さらに続けて言う。

「ボクらの物語の、ここまでのあらすじを言っちゃうと、闇堕ちした和くんとの出逢いから始まり、ボクらの運命を邪魔する敵との激闘の数々、その先にいたラスボスであるボクの姉の暴走に巻き込まれ、複雑な救世主だった和くんは記憶の一部が喪失してしまい、最終的にボクが姉と表面上の仲直りを果たしたところで完結する。

 ――と、ここまでが、三年前から一年前に起きた出来事。それから一年間の幕間があって、今は第二部ってところかな」

「…………」

「――ボクらの正体は、こんな感じだね」


「……………………。


 ――――へっ……?」


 摩怜の口から阿呆な声が漏れた。束の間、無限の宇宙を垣間見ていた気がする。

「あぁ、やっぱりボクの説明じゃ、ほんの少し難しかったかな?」一人美は、摩怜が困惑していることにいち早く気づいて「現時点を第二部って言ったのは、まつ子がお悩み相談部に入部してくれたからだよ」と、照れくさそうに告げる。

「…………いや、ひとみん。いっちょん分からんよ……」

「イッチョゥ? イッショウ……、ああ一章。第一部を飛ばした理由だね。それはあれだよ。闇堕ちした主人公が記憶喪失によって救済されるエンドなんざ、主人公と敵対する組織が惨虐な手段で主人公を倒して、エピローグに主人公的ハッピーエンドを迎えるくらい、腑に落ちないエンドでしょ? そういうことさっ」

 一人美が、得意げに言った。

「ねぇ、ひとみん……。ひとみんは、いったい、なんの話をしているの……?」

 摩怜は、じとーっとした目つきで、一人美に問うた。

「あぁ、そっか……」

 一人美は、摩怜に話が通じていなかったことに、ようやく気づく。

「ねぇ、まつ子。携帯電話を一瞬、貸してほしいな」

 そう言われ、親川君に電話するんだ、と察した摩怜は、どうぞ、と躊躇いなく渡す。

 一人美は、「ありがとう」とスマホを受け取り、素早い手つきで電話番号を入力、スマホを耳に当てた。

「あぁ、ボクだ。和くんに代わってくれ。……は? 寂しくなったわけじゃない、きみと一緒にするな。確認したいことがあるだけだ」

 と、しばし無言になる。――直後、ぱぁっと晴れやかな表情になり、

「あ、和くん? ボクだよ、ボク! 悪いね、アルバイト中に。ちょっと教えてほしいんだけどね――」

 と何やら、うむうむ、と関心そうに頷き、

「――ありがとう。それじゃ、引き続きアルバイト頑張ってね。……え? 今日の晩ご飯、カレーなのぉ!? やったぁー! うんうん! わかった! また後でね!」

 と通話を終了。一人美は蕩けそうなほど満面の笑みで、「ありがとぉ~、まつ子ぉ~」とスマホを返した。

「…………」一人美の蕩けた顔を見ながら、摩怜はスマホを仕舞う。

「ねぇ~、まつ子ぉ~」

「ど、どうしたの……?」

 不気味なほど、ほくほくとした顔のまま、一人美は口を開いた。

「今日さぁ~、和くんがさぁ~、カレーを作って待っててくれるんだってぇ~」

「それは、よかったね。親川君のカレー、おいしそう……」

「そうそう~、ちょぉ~おいしいんだよ~。だから~、まつ子も晩ご飯、食べに来な~い? それにぃ~、まつ子の歓迎会もやらないといけないし~」

「……えっと、誘ってくれたのは、すっごく嬉しいんだけど……、その、ごめん……。今日、おかあさんが帰ってくるのが遅くて、家の事やらないといけないから……」

「じゃあ~、ボクが手伝いに行くからさぁ~。どうかなぁー?」

「え……?」

 そんなことを言われたのは初めてで、心が揺れたけど……。

「そ、そんなこと、……だ、ダメだよ。お友達に、家事を手伝わせるなんて、あたしはできないかな……。――ほ、ほら! 逆の立場になったら、ひとみんも、できないんじゃないかな……!」

 ――ぱっ、と一人美のデレデレが止み、姿勢よく座り直した。

「たしかに、そうだね。ごめん。嬉しさのあまり、我を失っていたみたいだ」

 普段の口調――優等生として振る舞っているときの口調で謝る一人美。

「そんなに親川君のカレー、好きなんだね……」

「うん。まぁ、ね……。――それはそうと、まつ子の事情も知らず無闇に誘っちゃって、ごめん。今度は事前に声かけるからさ、絶対に和くんのカレー食べに来てよ。それと、歓迎会は明日、和くんが来てからでもいいかな……?」

「……うん。もちろん、だよ……。ありがとう……」

 心が熱くなった。

「――ということで、改めてボクらの正体を説明しようか」

 和くんに聞いたからばっちりだ! と意気揚々に言った一人美は、コーヒーを勢いよく飲み切って、それから少々長ったるい説明を始める。

「まず、陰陽思想ってやつを知ってるかい?」

「名前だけなら、聞いたことあるかも……」

「そうか。簡単に説明すると、よろずの事柄において、いろんな視点から陰と陽のふたつに分類しようとした哲学と思想……たしか、そんな感じ。まぁ、たとえば、月と太陽だとか、闇と光に雨と晴れ、死と生や植物と動物、空間と時間、それと精神と肉体、こんな感じで、あらゆるものを対立し合うように分類。それでよろずを理解して、将来を予測しちゃおう――なんて儚く不完全な思想。また、これらの二対は、お互いが無ければ存在できず、盛衰を繰り返し、調和することで自然の秩序が保たれる。あくまで二元的――極端な考え方だね」

「へ、へぇ……」

 摩怜は、理解したような、してないような、どっちつかずに呟く。

「そんな陰陽思想を『心』に観点を置いて、研究した者がいる。その者の名を――」

「な、名を……?」

 雰囲気に呑まれて、摩怜は固唾を飲んだ。

「…………。……えっとー、なんちゃらかんちゃら……」

「なんちゃら、かんちゃら……?」

「……うん」

「か、確認だけど……、名前じゃ、ないよね……?」

「うん。度忘れしちゃった……」一人美は、隠しもせず潔く認めた。

「そ、そっか……」

「と、とにかく、陰陽思想を『心』の観点で研究した奴がいたんだよ。まぁボクが思うに、そいつはその時代のニートだね。『心』という見えないものを陰と陽で分けようとしたんだから」

「た、たしかに……?」

「とにかく、研究が功を成したのか、飽きてテキトーに終えたのか、心にもふたつの要素が伴うと結論付けた。それが、陰の性質『心乃偶像こころのぐうぞう』と陽の性質『心乃奇峭こころのきしょう』。

 心乃偶像は、その人が持つ、人を惹きつける性質。その人の魅力や承認欲求、同調など、人が人と関わろうとする心の具合。

 一方の心乃奇峭は、その人が持つ、人を離す性質で、己の確固たる信念や自己中心性など、己が己で在ろうとする心の具合。

 このふたつが常に混ざり合うことで、人間関係の構築や自己形成を図っている――」

 ――らしいよ、と、憶測の語尾を強調させて言った。

「それでいつしか、このふざけた考えを真剣に研究する団体が結成されて、彼らは自らを陰と陽を司る陰陽司と名乗り、発足当時の団体名を陰陽司連盟、いまは陰陽司連合と名乗り活動している。ちなみに陰陽司は、表の歴史に在る陰陽師とは全くの別物もの。

 さらに研究が進むにつれて、心乃偶像には空間という『其の場』に怖れを抱く性質、心乃奇峭には時間という『過去や未来』に怖れを抱く性質があることも解明された。

 次第に、陰陽司らは目に見えぬ『心』を覗くことを渇望し、さらにさらに研究を進めたことで、その結果、特定の『怯え』を発現条件として、内界に存在する『心』を外界へ構築してしまう――まあ、つまりは州凶乃時腔を創り出してしまう、トンデモ装置を作り上げてしまった。おそらくも、そのひとつというわけさ」

 一人美が、ブレザーの内ポケットからを取り出して、摩怜に見せた。

 それは、五つの聖杯が描かれた、タロットカード。

「晴れ渡る臆病に惚れる、と書いて『晴臆仁惚せいおくにこつ』と呼ばれる代物。所有者が特定の怯えを抱くことで、州凶乃時腔が発生する。元々は、自分でも気づけない心の裏面や、わだかまりと向き合うために開発されたものだったけど、最近は事情が変わってね、第三者への使用が多くなった。……まったく、愚かなことだよ」

 一人美は、はぁ、と嘆息を漏らす。

「ま、ことの経緯はひとまず置いて、まつ子がこれを持っていたから、あの時空が発生してしまったんだ」

「そっか……」

 摩怜は、このカードを手にしたときのことを思い出す。

 このカードは、昨日、本を買いにショッピングモールへ向かう道中にて、黒と白に分かつローブを着てフードを目深に被った、怪しげな女性からの貰い物である。路上で占いをやっていたその人に、「そこのお嬢さん」とかわいい声で呼び止められ、「あなたの心には、ぐしゃぐしゃに混在するヤミ――悩みがある。久しぶりに、これほど綺麗なヤミに出会った。礼と言うか、縁と言うか、この守を与える」そう言って、彼女が差し出してきたものが、五つの聖杯が描かれたカード――『カップの5』を示すタロットカードだった。もちろん、最初は断ろうとした摩怜だったが、だが、少しでもこの御守が自分の為になれば、と譲り受けてしまった。

 まさか、あんなことを引き起こす物だなんて思いもせずに。

「ねぇ、ひとみん……。占い師さんが言ってた、ヤミって、なに……?」

 一人美が、タロットカードをテーブルに置く。

「心のヤミ……ヤミと呼ばれることが多いかな。心のヤミってのは、陰陽司らが使用する用語で、心の内にある悩みや怖れ、トラウマといったように、人に消極的な作用をもたらす感情とか精神状態、記憶の総称。歴史的には、陰陽司らが心の陰陽思想を研究し過ぎた結果、彼らの子孫は、第三者のヤミを感じ取る力を人一倍持つ、とある。諸説ありありだけどね」

 一人美が、一寸の沈黙を置いて、「いや――」と自身の説明を否定した。

「諸説ありありとは言ったけど……事実、ボクは人の心のヤミを感じ取ることができる。例を挙げるなら、まつ子が相談部の部室で相談をした日。あの日さ、ボクがまつ子の手に触れようとしたら、静電気みたいなものが発生したでしょ?」

「うん。痛かったから、つい手を引いちゃった……」

「あれは、まつ子の恐怖や罪悪感、そしてボクに対する疑心――つまり、まつ子の持つ心のヤミが、無遠慮に触れようとしたボクを拒絶した。普通、ヤミを感じ取れるボクだけに痛みがあるはずなんだけど、まつ子にも痛みがきたってことは……」

 一人美は頭を抱える。

「あんまり言いたくはないけど、まつ子にも陰陽司の素質があるってことなんだ……」

 だから正直に話したんだ、とでも言いたげに、一人美は呆れた様子だった。

「……ほぇっ?」突然の告白に、摩怜は素っ頓狂な声を漏らす。「そ、それって、あたしも、ひとみんみたいに、狐さんに変身したり、親川君みたいに、尻尾が生えたりするの……!?」

 身振り手振りを使って表現しながら、驚きと動揺を声に出した。

「この段階じゃ、なんとも言えないかな。そもそも、心のヤミは陰陽司関係なしに、誰でも感じ取ることができるんだよ。相手の顔を窺って行動したり、何かに怖れて生きていたりする人は、繊細な『心』を持つ。まつ子の場合、消極的すぎる考え方が、心のヤミを感じ取れるようになった原因だと思う。あくまでボクの見解だけど」

「じゃあ、もしあたしが消極的な考え方をやめたら、それは無くなっちゃうの……?」

「基本、感じ取れるままかな。一度でも怖れを知れば、人の憂いに寄り添えるでしょ。逆に、感じ取れなくなる人もいる。コンプレックスを抱えた人や、承認欲求の強い子が、周りに煽てられ、勘違いして驕って、自己をビッグバーン! させてしまう例だとか……こほん」

 それと――、と、一人美は話題を戻す。

「ボクが狐のような姿に変身するのは、心のヤミとは別物だよ」

「そ、そうなんだ……。じゃあ、あれはなに……?」

「あれは、裏の無い意志……『志す』のほうね。と書いて、裏無意志うらないし……なんて、愚にも付かぬ言葉遊びが名称で……。裏無意志は、己の心のヤミを知り、それを受け入れ、その中で己という存在をどう確立させていくか――つまり、自己の内外を理解した先にある、人外的な能力。ボクが狐の姿に変身できるのは、その裏無意志を持っているから。

 そして、それと似た存在として、まつ子が州凶乃時腔を発現させたときに、ヤマアラシの怪人と棘の壁がいたでしょ? あれらは、裏が無いと書いて、そのまま『裏無之ウラナシ』っていう、まつ子の怯えが具現化した存在。ヤマアラシの怪人は、失敗するのが怖くて自己防衛に走る、そんな心乃奇峭のヤミから生まれた裏無之。そして棘の壁のほうは、『本当は誰かと寄り添いたい、だけど……。』なんて心乃偶像のヤミから生まれた裏無之。奴らは、裏無意志を目覚めさせた者が倒せるというか……、晴臆仁惚を第三者に譲渡できるのは同職の陰陽司だけだから、そいつらを倒すのがボクらの責務というか……はぁ、実に滑稽だよね……」

 と、息衝いた。

「えっと……」一気に情報が舞い込んできた摩怜は、返答に戸惑った。

「あはは……、さすがに喋りすぎたかな」

「うん、ちょっと、いっぱいだった、かも……。

 だ、だけど……、ひとみんと、親川君は、あたしを助けに来てくれたんだよね……?」

 摩怜は、膝上で両手の指を絡ませ、照れ臭そうにもじもじする。

「その、改めてだけど、本当にありがとう……」

 摩怜のお礼を聞き、一人美は立ち上がった。

「そりゃ友達だからね――なーんて、綺麗事を言いたいけれど、これがそうもいかないんだ……」

 自分と摩怜の分のコーヒーカップを手に、コーヒーメーカーのある場所へ向かう。

「州凶乃時腔は発現しちゃうと物凄く厄介でね、裏無之を放置すればあの時空に取り残されたままだし、裏無之を倒せば悩みが強制的に消えて勇気を手に入れられるし……。はっきり言って、現段階の晴臆仁惚は不良品だね」

 カップにコーヒーを注ぎながら、物憂げに告げた。

「で、でも、あの怪物を倒して悩みが消えるなら、それはいいことじゃないの……?」

「よくない。ボクはそう思う」

 コーヒーカップの取っ手を持って、一人美がテーブルのほうへ戻ってきた。

「たしかに、州凶乃時腔を発生させた張本人が裏無之を倒せたならさ、それはその人の手にした勇気だけど、仮にボクら陰陽司が奴らを倒して得た勇気は、いったい誰のものなのか……。はい、どうぞ」

 一人美はテーブルにコーヒーカップを置いて、スカートの裾を押さえてソファに座ると、愚かしそうな表情で――、

「その人がその人の為に抱く悩みは至宝だよ。それを容易に消してしまう陰陽司ボクらは、罪だと思わない?」

「あ、だ、だから、親川君は……」

 摩怜の中で、あのときの場面が呼び起こされる。

 州凶乃時腔に閉じ込められた際、和がヤマアラシの怪人相手に手加減していた。怪物の巨大な針を避けながら、彼から伸びた濃紫こむらさきの尻尾を巻き付けて拘束し、行動不能にしたにもかかわらず、倒すわけでもなく対峙するだけの不思議な光景だった。あのときの疑問が、ようやく解消された。

 一人美は、コーヒーカップに角砂糖をよっつ入れて、マドラーで数回かき混ぜる。

「ボクと和くんは、まつ子を助けに来たんじゃない。和くんが言ったでしょ、ただのお悩み相談部だって。所詮は、お悩み相談の延長でしかないんだよ。まつ子自身で悩みを解決し、勇気を得て、出風さんに連絡した。全てはまつ子の――荒山摩怜の勇気が成したことなんだ」

「で、でも、ひとみんたちが来てくれなかったら、あたしはヤミに呑み込まれたままだったのも、事実だよ……」摩怜はコーヒーカップを覗き込み、自信なさげに告げる。「たしかに、ひとみんが言ってくれたように、あたしが相談したから、今があるかもだけど……、だけど――」

 摩怜は、正面の一人美を見た。

「やっぱり、ひとみんたちのおかげだよ。

 ――ありがとう」

「……!」

 虚を突かれたように、一人美は目を見開いた。

「……そっか」

 一人美はコーヒーカップを持ち上げ、

「まつ子がそう言ってくれるなら、否定もできないな……」

 照れ臭さを消すように、コーヒーを口にした。

「はぁ、まったく。甘いな……」

 この場に和が居なくてよかった。目の前の友達を見て、そう思った。

 一人美は、コーヒーカップをテーブルに置いて、後ろに結わえた髪を解くと、手櫛で簡易的に髪を解く。その後、「――まつ子」と彼女の名前を呼んだ。

おのが儘で申し訳ないんだけどさ、和くんの話はまた今度にして、このあとはふたりで勉強でもどうかな? ボク、同級生と勉強会って憧れだったんだよね。どうかな……?」

「え……?」

 突拍子もない提案に、摩怜はすぐに返事ができなかった。

 返事を待ちきれなかった一人美は、顔の前で、パチン! と両手を合わせて――。

「――おねがいっ! まつ子!」

 ぎゅぅっと目を瞑り、頼み込んだ。

「…………う、うん」

 摩怜は発狂を呑み込んで、小声で返した。

 …………。

 淹れたてコーヒーはまだ飲んでいないのに、身体がすごく熱くなった。

 一人美が喜色を浮かべて、部室の扉の掲げた『対応中!』の札を『受付中!』に戻す。それから、ふたりきりの勉強会が開かれた。勉強の休憩という口実で部活の活動内容を教えたり、しょうもない雑談をしてみたり、分からないところを教え合ったり、お菓子を食べたり、なんだかんだ勉強会を楽しんでいたら、あっというまに部活終了時間を迎えた。

 部室の戸締りをして、ふたりで帰路に着く。

 帰り道が別れ道になるまで、ふたりで他愛もない話をした。

 これから、今日という特別な日が日常になるのだと考えると、二年も惜しいことをしちゃったな、と後悔――いや、ネガティブはやめて……、今日という日を心嬉しく思った。

 別れ道で彼女に手を振った後、踊るようにスキップしながら帰ったのは、誰にもないしょ。

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