二章 - 5
二章
放課後、お悩み相談部の部室にて――。
「お疲れさまです……」
「…………」
「お、おつかれさま、
和は、不機嫌な一人美を刺激せぬよう、颯爽と荷物を置いて、一人美の前に立つ。
「とりあえず、向こうのソファに座りなよ」
一人美が、そっぽを向いたまま、人差し指で対面のソファを指す。そんな彼女の指示に従って、和は対面のソファに腰を下ろした。
「あの、ひとみ先輩……。怒っている理由、訊いてもいいですか……?」
「訊かなくていいよ。どーせまたあの子と、お昼を過ごしていたんだろ?」
「……はい。一緒に、食堂に行きました……」
「なんだよ、寝坊してお弁当作らなかったボクへの当てつけかよ」
「いえ、そういうわけじゃ!」和は、首を大きく横に振る。「たしかに、ひとみ先輩のお弁当は食べてみたかったですけど、寝坊しちゃったのは仕方ないし、それに僕も今日、いつもより早く家を出たって、イレギュラーだったし、あと……ひとみ先輩を起こしに部屋へ行ったとき、『今日のお昼は食堂に行きますね』って声をかけました……」
「……ん? ――えっ、まじ?」
不機嫌そうな一人美の顔が一変して、すっとんきょうに目を見開いた。
「ボク、返事した?」
「はい。『お~け~』って言ってました……けど、ちゃんと聞いていたのか不安だったので、二色さんからも伝えてもらうよう、お願いして……。もしかして聞いてないですか?」
「……う、うん。いや、姉は言ってくれたのかもしれないけど、ボクが完全に目を覚ましたときには、彼女、もう家に居なかったから……」
一人美が下を向き、ぶつぶつと呟く。
(このままじゃ逆ギレだよ、ひとみん……)
摩怜は空気を読んで、その思いを呑み込んだ。
「あー、それなら、紙に書いてテーブルに置いて行けばよかったです……」
とは言うものの、和は、一人美の発言に違和感を持ち、今朝の二色とのやり取りを思い出してみる。
早朝、家を出る直前の和が、一人美の部屋の戸を叩くと、二色が出てきた。和は、二色の許可をもらって部屋に入れさせてもらい、寝ていた一人美を起こして声をかけた。「今から起きてお弁当作っても間に合わないと思うので、今日のお昼は食堂に行きますね」と。しかし、一人美が寝言に近しい返事をしたものだから、心配になり、和は二色に言伝してもらうようお願いをした。その際、二色の今日の予定を訊くと、喫茶店の準備があるから八時四〇分にはこの家を出る、と言っていて……。ちなみに和たちの高校は、八時四〇分に朝のチャイムが鳴るわけで、つまり――。
「……ひとみ先輩」
和は、改めて一人美の名を呼んだ。
すると一人美が、勝手が悪そうに「な、なにかな。和くん……」と、そぉーっと視線を逸らす。
「ひとみ先輩、今日遅刻したんじゃないですか?」
そう訊ねると、一人美はよそ見をしたまま、口笛を吹き始め、仕舞いには口に手を当て、ビートボックスでおなじみのクラブスクラッチをやり始めた。しかも、妙にうまい。
「ひとみ先輩、
しかし、一向にやめない一人美。その態度から、彼女の遅刻は確定したようなものだが、念のためはっきりさせておきたい、と和は、一人美に代わって摩怜のほうへ視線を移す。
摩怜はぎこちなく口角を上げ、「ち、遅刻した、というかね……」と曖昧模糊に言った後、「一時間目が始まる、九時に来たんだけど……」気まずそうに詳細を濁した。
和が、どういうことですか? と、もう一度、一人美に訊ねると、彼女は諦めて白状する。
「あのー、二度寝からの大寝坊をしちゃってさぁ――」
――八時四〇分に起床した一人美は、急いで学校の支度を済ませて、猛ダッシュで学校へ向かった。教室に到着したのは、九時ちょうど。一人美が教室を開けると、なぜか拍手喝采を浴びせられたのだ。しかも、どういうわけか遅刻の扱いにはならなかったと言う。
休み時間、一人美がこの原因を摩怜に訊ねると、どうやら、一人美の通学路にある、彼女の祖父がやっている喫茶店付近にて、一人美が大荷物を抱えたおばあさんの手助けをしていたのだと――だから遅刻した、ということになっており、その光景を偶然見つけたクラスメイトが教室で拡散。やがて担任の耳に入り、感動し、そんな担任の計らいにより、今に至るらしかった。
しかし、どう見れば、白髪にプラチナブロンドなんて珍妙な髪色の一人美を見間違うのか。一人美は、そんな疑問を盛大に無視して、都合よく
――というわけだった。
ここまで聞いた和は、一人美に対して呆れを抱くより先に、とある人物が頭に浮かんだ。
「喫茶店の前で人助けって……それって言うまでもなく
一人美の姉の二色なら、一人美に見間違われる可能性は十分にある。ふたりの身長差はほとんどないし、白髪だし、言わずもがな顔も血縁者だとぱっと見で分かるくらいには似ている。
「……たぶん、そうだろうね」
一人美は、嫌そうにしながらも認めた。
「で、でも……」と、摩怜は口を挟む。「ひとみんと、ひとみんのお姉さんって似てるけど見間違えるほどかな……? それにお姉さん、高校の制服は着ないと思うし……」
「意外と見間違えるんじゃない?」一人美は、言う。「白髪に、人助けをする優等生っぷり、それに風貌が似ていれば、先入観を刷り込まれて見間違えてもおかしくないよね」
「でも、摩怜さんの言うように、二色さんが高校の制服を持ってるわけはないので、ひとみ先輩とは別人って判断できそうですけど……」
「知らないよ、そんなことー。そもそも、ボクだと勘違いした生徒とボク自身、全然関わりないしさ。喫茶店の制服が黒だから、ボクらの紺色の制服と見間違ったんじゃない? だいたいさー、ボクに訊くなよなぁー。真実を知りたいなら、ボクの姉か、見間違った生徒に訊いてくれよぉー。ボクは、彼のおかげで遅刻を免れたんだし、これ以上詮索するつもりはないしー」
「そうですか。じゃあ、ひとみ先輩が不機嫌だった件に話を戻しましょうか」
にこやかに和が言うと、一人美はばつが悪そうに、またもや顔を逸らす。
「わ、悪かったよ、ボクの不手際なのに怒っちゃって……」
「いいですよ。そもそもイレギュラーの発端は僕ですし、こちらこそごめんなさい」
にこっと笑って、あっさり一人美を許してしまう和。そんな彼の寛大さに、一人美の罪悪感はさらに増加する。やがて、居心地? ソファの座り心地? が悪くなって、一人美はソファから立ち上がり、和の分のコーヒーを淹れるため、コーヒーメーカーのある場所へ向かった。
「なぁ、和くん。お詫びと言ってはなんだけどさ、なにかひとつ、ボクがキミの望むことを叶えてあげるというのは、どうだろうか……?」
一人美が、コーヒーカップにコーヒーを注ぎながら、緊張しくもニヤニヤと嬉しそうに提案した。その姿を見た摩怜は、「お詫びもなにも、ひとみんの本望だよね?」と心の中で問いかけて、その言葉を呑み込むようにコーヒーを飲む。――と、一人美の提案を聞いた和の顔が、ぱぁっと無邪気な少年のように明るくなったのを、摩怜の目が捕らえる。
「なんでもいいんですか!?」
和は、一人美の提案に溌剌と飛びついた。
問答無用で断られること前提で言ったにもかかわらず、その前提を覆す彼の嬉々とした表情に、一人美は念のため条件を付けることに。
「さ、さすがに、卑猥すぎることはダメだからね……。そ、そりゃあ~、多少の……? 卑猥で和くんが喜んでくれるんなら、一肌脱いで人肌でも――なぁ~んちってぇ~、いひひっ――」
頬を赤らめ、もじもじと身体を揺らす。
「安心してください、そっち系ではないので!」
和は、はっきりと告げた。
「あ、そう……。でも、こんなに積極的な和くんは珍しいね。いったい、どんな要求を……」
「…………」
摩怜は、この状況があまり面白くなかった。自分だけが部屋の隅に追いやられ、忘れられたかのような孤独感に苛まれる。一人美の発言は不純な出来心だとしても、少年らしく浮かれた和が気に食わない――なんて、昨日入部したばかりの新入部員が不遜だなと思い、摩怜は、もう一度コーヒーカップを手に取って、今度はごくごくと飲み干していく。
そこにちょうど、和がやりたいことを言おうと――。
「ちょうど僕、夜のお仕事をしてみたかったんです!」
にこやかに、溌剌と、和ははっきり言い放った。
その言葉に、ぶふぅ――っ! と、摩怜の口からコーヒーが大噴射。
一方、コーヒーメーカーの付近では、一人美の持っていたコーヒーカップが手から滑り落ち、割れて砕けて、コーヒーが床に飛び散る。驚愕しすぎた一人美は、脚に掛かったコーヒーの熱さなんて二の次で。
「はぁああああ――っ!?」と、一人美の驚愕が、
「えぇええええ――っ!?」と、摩怜の驚嘆が、
部室を突き抜け、廊下にまで響き渡った。
――それから。割れたコーヒーカップや、零れたコーヒーの掃除、制服にコーヒーが掛かった摩怜はジャージに着替え、改めてソファに三人が揃うと、彼への真相の追及が始まる。
「そ、それで、和くんよぉ……。よ、夜のお仕事とは、どどどどういうことですかねぇ!?」
動揺を纏い過ぎた一人美が尋ねる。
摩怜は目を見開き、固唾を飲んだ。
和は、先輩ふたりの過度な動揺や、行きすぎた関心に気づいていないのか、突然、見えないなにかを両手で持って肩辺りまで上げると、シャカシャカと振り始めた。
「僕、前からバーテンダーをやってみたかったんです!」
と、まるで上半身を躍らせるように、ノリノリで言った。
「「ほっ…………」」
あぁ、そっちの夜ね。と、ふたりは静かに胸を撫で下ろす。
「以前、喫茶店の夜の顔とも言えるバーにお邪魔したとき、シャイなマスターがクールにシェイクして、グラスに注ぐ姿に惚れちゃいました」
と、和は、またもや見よう見まねの不格好なシェイクを披露する。
「だから、マスターの技を近くで見たいなぁーって」
「さ、さようですか……」一人美が、がくりと肩を落とす。が、すぐに気を取り直し、「バーで働くことには反対しないけど、これじゃあボクの姉の薄っぺらな表情が、喜色を浮かべてぇ――じゃなくて。……部活、休むの? それに高校生なんだから、バイトをやり過ぎても――」
親身になって悩む一人美の姿が、摩怜には母親のように映った。先日、
そんな彼らの不思議な関係性を見て、摩怜は少し怖くなった。昨日、彼らの正体を明かされて、彼らの事情を知り(と言っても、詳細は知らないけれど)、自分とは異なる場所にいる彼らのことを良くも悪くも黙って見届けるだけでいい。一線を引いた場所で見ているだけでいい。ずるい位置に身を置いたな、と愚かしい気持ちを抱きつつ、摩怜は、一人美が「摩怜の歓迎会のために」と、放課後になった瞬間、近場のスイーツ店で買ってきてくれた、シュークリームをはむっと無我夢中で頬張り、なるべく会話に交ざらないようにする。
「おじいちゃんがやってるバーは、火、金、土曜が営業日だから、金曜日とかどうかな?」
一人美の祖父の店は、月、木、日曜日に朝から夕方にかけて喫茶店をやり、火、金、土曜日は夜にバーをやっている。ちなみに、水曜日が店休日。
「あ、あわよくば、全部の日やりたいです……」
「それはやりすぎ。金曜日だけが妥当だと思う」
「全部は、ダメですか……?」
「ダメ。三日も行ってほしくない。ただでさえ、日曜は喫茶店に行ってるし、それに三日もバイトを増やしたら、週の半分を姉に奪われているみたいだから、やだ。絶対やだ」
「せめて、平日の二日……」
「うーん……、まぁ、それなら……う~ん……」
と、一人美は唸る。望みを叶えると言った手前、反対し続けるのはいかがなものか……腑に落ちないが許可することに。
「仕方ない、平日の二日だぞ。おじいちゃんにはボクから話しておくから」
「わかりました。ありがとうございます……」
お礼を言う和の表情は、全ての希望が通らなかったからか、
一人美は、そんな彼の様子には触れず、後ろ髪を解き、ふぅ、と一息。
「和くんも、そろそろ自立しちゃうのかな。まったく、子どもの成長は早いねぇ」
「あはは……。その言い草は母親みたいです」
「ボクは、キミのママにも、恋人になってあげてもいいんだぜ?」
一人美が、得意の決め顔で言い放つ。が――。
「あははは……、はい……」と、和は愛想笑いを浮かべるだけ。
「その反応が一番きついよ」なんて言って、一人美はコーヒーを一口飲んだ。
ふたりの会話も一段落。今日も相談者は来ないらしい。摩怜は、このタイミングを見計らって、忘れぬうちに、先日の例の件で借りたままだった、和のカーキ色のジャケットを返そうと立ち上がり、それを入れた紙袋を手にして彼の前に立った。
「お、親川君……。あの、これ……、親川君から借りたジャケット、ありがとう……」
そう言って、摩怜は紙袋ごと和に渡した。
「あぁ、えっとね、ちゃんと手洗いして、乾かしてきたから、その、汚くないとは思うんだけど……。も、もし、あたしの家の洗剤の匂いが嫌だったら、ちがう洗剤で洗い直して――」
と躊躇いがちに、そこまで言ったとき、和が紙袋からジャケットを取り出して――、
――ばふっと勢いよくそれに顔を埋めた。
「え、えぇっと、――へ……っ!?」
「な、な、なぁっ!? 和くん、なにをしてっ――!?」
数秒後、和が晴れやかに顔を上げ――。
「――うん! 好きな匂いです!」
「そ、そそそそそれは、恥ずかしい、です……! 親川君……っ!」
「でも、僕の好きな匂いですので、洗い直したりなんて――」
「えへ、えへへ……、そ、それは、その……、――きゅぅ!」
真っ赤に熱らせた顔を、摩怜が両手で覆う。
和はにこやかな顔のまま、「綺麗にしてくれて、すっごく嬉しいです~」と鼻唄交じりにジャケットを紙袋に仕舞い、おいしそうにコーヒーを啜る。
「……こ、このッ――!」
そんな阿保らしさ全開の展開に、一人美は歯ぎしり、近くにあったクッションを手に取ると、
「――へんッ、たいッ、やろうどもぉおおおおおおおおお~~ッ!」
と、クッションを和めがけて思いきり投げつけた。見事、和の顔面に命中。
「――ばふっ!」
「だ、だいじょうぶ!? なぐ君――!」
「は、はい、コーヒーはなんとか無事です……」
「そ、そっちじゃなくて、お顔だよ……」
「大丈夫に決まってんだろ! そんなに強く投げてないやい!」
「で、でも、けっこう、めり込んだというか……」
「大丈夫です、僕けっこう強いので」
「クッションで強いとかないだろ、和くん! 大体なんだよ、さっきの発言!」
「たしかに、さっきの言葉はデリカシーの限度を超えていたような気がします……。すみません」
「う、ううん! む、むしろ、あたしは、嬉しかった……というか――」
「――まつ子も、その場の雰囲気に呑まれてんじゃあないよ!?」
「きゅ、きゅぅ――!」
「いや、でも、本当にいい匂いで……。ひとみ先輩も――」
「――んもぉおおおお~~! はやく幽霊部員に挨拶してこいよ! ただのクソ茶番じゃないか!」
惚気を見せた和と摩怜は、激情に駆られた部長の命により部室を追い出されてしまった。
「――ご、ごめんね、なぐ君……。あたしが、あんなこと言わなければ……」
「いえ、あれは僕に非があるので謝らないでください」
「で、でも、あたしも、不躾に嬉しがっちゃったし……」
「じゃあ、お互いさま、ということで、どうですか?」
「う、うん。そう、だね……。それがいいかも……」
そんな会話をしながら、ふたりは隣り合って廊下を進んでゆく。
ふたりきりになるのは、あの日の喫茶店以来。
摩怜は、和に改めてお礼を言おうと声をかけた。
「あの、なぐ君……」
「…………?」
「な、なぐ君とひとみんのおかげで、あたし、勇気を出して出風さんに連絡できました……、
――ありがとう。そ、それと、これから……、よろしくね……。えへへ……」
にこり、と摩怜の可愛らしい笑みを前に、和は立ち止まり、ぺこりと頭を下げた。
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします。
マーレ先輩――!」
「――――!」
身体が痺れるような、なんか、ずっきゅん! ってものが胸に轟いた。
「――ぅぅ~~っ!」
摩怜は、込み上げてくる喜びの呻きを上げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「な、なぐ君! い、いま! しぇ、しぇんぱいって……!」
冷静にはいられず恍惚と言う。「
「も、もぉーいっかい、いってくれると、うれしい、な……!」
「は、はい」和は、摩怜の言動に戸惑いながらも、「マーレ先輩」と彼女の要望に応えた。
「あっうぅぅ~……!」
くらくらふらふら千鳥足の摩怜。酔い痴れたように蕩けた顔で――と思いきや、びしっ! と右手親指を立てた。
「最っ、高っ、だね! ――先輩って!」
「よかったです」
一昨日までじゃ考えられない摩怜の姿に、和は見惚れる。彼女の可愛らしいテンションを見られた特別感。相談に乗ってよかったな、と嬉しくなった。
和は、再び歩き始める。その横を、摩怜がちょこちょことついていく。
「ねぇ、これから会う人は、なぐ君たちと同じ陰陽司さん、なの……?」
「はい。でも、陰陽司という括りでは同じですけど、派閥の違う子です」
「派閥……?」
「はい。――あぁ、えぇっと……」
和は、つい流れで返事をしてしまったが、昨日の晩ご飯中に二色から言われたことを思い出し、この話をしていいものか黙って考える。万が一、陰陽司に関わりすぎて摩怜を危険な目に遭わせてしまったら、それこそ望まぬこと。しかし、一人美が既に話した内容や、これから相談部として関わる以上、なにも知らないのは逆にまずいのではないか、と、一人美が摩怜に陰陽司の説明をした、その意図を汲み取り、和は説明することを決めた。
「もともと陰陽司連合は、陰陽司連盟って呼ばれる、心の陰陽を研究するだけの組織だったんですけど、研究していくうちに力を得た人たちの思想が、その研究に混じるようになって、考えの異なる三つの派閥が誕生したんです。それが、
秩序派は、個人々々で異なる容量を持つ
一方、混沌派は、一言で、人の持つ心のヤミを消滅させてしまおう、これを目標に掲げる派閥。州凶乃時腔を発現させ、陰陽司の手で
そして、特に信念を持たず、或いは、秩序派にも、混沌派にも属さない思想を持つ陰陽司らが、陰陽司として行動するため、建前上で属しているのが中庸派だ。
「で、でも……、まったく違う考えの人たちが同じ組織で研究したら、普通は派閥間での対立とか、争いに発展しちゃうんじゃないの……?」
「あぁ、それは……」
和が苦笑した。
「心の陰陽を研究している――だから達観した人であったり、逆に心を覗けるからこそ理想を越えた夢想を志向とする人であったりが多いみたいで、『派閥間での対立は、研究を遅延させるだけだ』って。秩序派も混沌派も、もちろん中庸派も、目標のためには心の陰陽のさらなる研究が必須なわけですから、研究は共同作業、その先の行動はお互いがお互いを許容し、無駄や無理な干渉はしない。そして、研究結果は嘘偽りなく全て曝け出すことで、更なる陰陽の発展を目指す――そんな決まりがあるみたいです。風変わり、ですよね……」
もう一度、苦笑した。
「うん。ホントだね……」つられて摩怜も苦笑する。
一時、会話が途絶え、無言で渡り廊下を渡っていく。
「ね、ねぇ、なぐ君。あの、失礼だったら、ごめんなさい、なんだけど……。昨日、ひとみんから聞いて……、その、記憶がなくなったって……、本当なの……?」
摩怜は、慎重に訊いた。
「はい」
和は、迷う素振りなく認めた。
「正確に言うと、僕の中にある心のヤミに関する記憶を、とある
そう言って、情けなさそうに笑った。
摩怜が黙ること、約三秒。
「訊いてなんだけど、……これって、あたしが聴いても、よかったのかな……」
和は、申し訳なさそうにする摩怜を見て、慌てていつもの優しい笑みを浮かべた。
「もちろんです。マーレ先輩は、お悩み相談部の一員で、僕の先輩なんですから」
「あ、うん……。……そっか……」
「それと、あまり重く捉えないでください」
そう言うと、和は摩怜の前に立ち、胸を張った。
「たとえ記憶がなくても、僕は『僕』ですからね! ふふん!」
「そ、そうだよ、ね……。う、うん! そうだよ! なぐ君は、『なぐ君』だよ……!」
「そうです! ありがとうございます、マーレ先輩。ふふん」
和は、ほくほくと充実感に満ち満ちた会心の笑みを浮かべた。まるで、その言葉を求めていたかのように。
高身長に穏やかな口調、落ち着いた性格(時々、ズレているけど)にそぐわぬ、たまに見せる子どもっぽい仕草が、摩怜の心を奪う。たぶん、恋愛的な意味での好意的な感情ではなくて、大人が子どもを守りたい、守らなくちゃいけない――みたいな、庇護欲のようなものが湧き上がる。摩怜はそれを、先輩ゆえの庇護欲と思い込むことにした。
「――というわけで、着きましたよ。図書室です」
和が、扉の上の名札を指して言う。
「図書室に、もう一人の部員さんがいるの……?」
「はい。彼女は照れ屋さんですけど、
――いっつも隠れているんです!」
図書室の前で、和はそんな不思議なことを自信満々に言った。
「……えっと、照れ屋さんだから、じゃなくて……?」
「……そうとも言いますね」
そう言うと、和の頬がわずかに桃色に染まる。
「ま、まぁ、とにかく照れ屋さんな彼女を見つけられるのは、ヤミに染まった僕だけというわけです!」
またもや、自信満々に言う。だが、摩怜は彼の意図を掴めても、真意が不明で……。
「えっと、なぐ君の体質ってこと、だよね……?」
「すみません。僕の説明が悪かったみたいです……。とりあえず、入りましょうか」
和は肩を落として、図書室の扉に触れる。――と、何かを思い出したように、「あっ、そういえば」と、ぱっと摩怜を覗き込む。超至近距離に彼の顔が迫った。
「もし彼女を見るときは、顔を見ずに胸の辺りを見てください。または頭上を」
「う、うん」心拍数が爆上がり。「わ、わかった。それより、近いよ、な、なぐ君……」
「あ、すみません。これは必須事項だったので」と、和が摩怜から離れ、「それでは!」と意気込み、図書室の扉を開けて、入室。摩怜もその後ろをついていく。
図書室の最奥、読書スペースの一画――そこに、照れ屋さんは居た。
摩怜は、そこにいる生徒がお悩み相談部の部員であると、一目で分かった。
頭のほうから髪先のほうへ、黒から白へとグラデーションを彩る特徴的な長い髪を後ろで結っている。前髪は、完全に目が隠れるほど長くて、目隠しをしているみたい。
目隠れの女子生徒を見ていると、なんとなく一人美の顔が思い浮かんだ。
彼女は、背筋をピンと伸ばし、なにか作業をしている様子が窺える。
「折り紙……?」摩怜の口から、ぽっと零れた。
目隠れの女子生徒は、か細い指で、丁寧かつ迅速に折り紙を折っていた。
その姿がなんだか美しくて、その音がなんとも心地良くて。
なんというか情景そのものであり、摩怜は、つい見惚れてしまう。
和が、彼女のいる最奥のテーブルへ寄っていく。摩怜は、慌てて彼を追った。
目隠れの女子生徒のいる席へ到着すると、「ここにどうぞ」と、テーブルの一席に摩怜を案内し、座らせた後、自分は目隠れの女子生徒の真正面に座って、ぽんぽんと彼女の頭を撫でた。
「…………?」
目隠れの女子生徒が、折り紙を折る手を止めて不思議そうに顔を上げる。
「久しぶり、
和が右目を閉じ、彼女に声をかけた。
「あー、来てたんだね、和ちゃん」
その可愛らしい声に、摩怜は、どこかで聞いたことがある……心当たりがあるような、そんな気がしたが、どこで聞いたのか思い出せない。しかし、つい最近聞いたのは確かに事実で……。――と和を仲介役にして、ふたりの紹介が始まり、摩怜は思い出し作業を中断。
「笑星くん。今日は、新入部員さんを紹介しにきました」
そう言うと、和は摩怜を指した。
「こちら、新入部員さんで三年生の
「え……?」摩怜は、はてなを浮かべる。
「うん。もちろん」
目隠れの女子生徒は、折り紙で何十個もの三角の形をした小さなパーツを作っていきながら、無関心そうに、空返事にちかい返事をした。
和が苦笑し、右目を開くと、今度は目隠れの女子生徒のほうを指した。
「摩怜さん。こちら、二年生の
「え、えっと……」
部員としては後輩だけど、年齢的には先輩だから、しっかりしなくては! そんな余計な緊張を持って、摩怜は笑星に挨拶を――。
「よ、よろしくお願いひまひゅ――ふむっ!」
噛んでしまった! そんな羞恥から、摩怜は咄嗟に手で口を覆う。
和は、慰めるように摩怜へ笑いかけ、右目を閉じると笑星のほうへ目線を移した。
「それと、笑星くんに確認したいことがあって来たんだけどね」
和は、ブレザーの内ポケットから、あるものを取り出し、そっとテーブルの上に置く。
「これ、笑星くんの仕業だよね?」
和がテーブルに置いたのは、一昨日、摩怜が占い師に譲り受けた、五つの聖杯のイラストが描かれたタロットカード。それを見て、摩怜はあることを思い出し、ぱっと顔を上げる。
「も、もしかして、過視原さんって、あの日の占い師さんですか……!?」
摩怜は、つい笑星の顔を見て、問うてしまった。
摩怜の声に反応し、反射的に笑星も摩怜を見てしまい――、
「んあ……」
――笑星の両の鼻の穴から、たらぁーん、と血が流れ落ちた。
「んあぁー、和ちゃぁーん、やっちったあー」
鼻血を流す笑星は、全く表情を変えずに和のほうを向き、鼻血が出たことを報告。
「あー。はい、とりあえずハンカチで押さえて」
和も全く動じることなく、右目を閉じた状態で、ハンカチを器用に笑星の鼻に押し当てる。
笑星はハンカチを受け取り、「ありがちょ~」と鼻声で感謝を告げる。
ふたりの動揺ひとつないやり取りに、不思議と摩怜も慌てなかった。
「だ、大丈夫ですか……、過視原さん……」
摩怜は俯いて訊ねる。
笑星が、今度はティッシュを受け取り、鼻血を拭いながら鼻声で答える。
「うん。大丈夫。
「その、ごめんなさい……。過視原さんの声が、ある人に似ていたから、つい……」
「そうだね――あっ、そう、ですね。その話をしましょう、……です?」
笑星は、丸めたティッシュを、鼻の両方の穴に詰め込んだ。
「…………」
可憐さが台無しの笑星の姿に、摩怜は呆然とする。
「それで、一昨日のこと、ですけど――」
笑星は、何事もなく続ける。
「小生、彼女に新作の
「そっか。やっぱり、笑星くん――混沌派の仕業か……」
「うん。いまは研究段階だから、たくさんデータが欲しいんだって。だから、小生はたくさんの人に配って試料を増やし回っているところ。それで、荒山氏の前の人までは、試料となる人に選ばせていたんだけどね。なかなか良い結果が出ないから、ヤミを見ることのできる小生が荒山氏に合うカードを選んであげたの。そしたら結果は最高良好、絶好調」
顔色を一切変えず、淡々と説明する笑星に対し、摩怜はわずかに苦手意識を抱いた。
「へぇー」と、和は薄い反応で返答した後、しばらく考え込み、「――ということは、今回の試作品は、対象の人のヤミに合うカードを使用することで効果を発揮するってこと?」
「さあ。小生は上に頼まれたことをやるだけだから、これらの効果はなんにも知らない。でも、和ちゃんの推理で合ってるんじゃないかな。それと、いま欲しいのは発生条件のデータだけみたいだから、あの時腔が発生したら好きにしてくれていいよ。
――あ、でもでも、でもね。小生が居合わせたら処理するかもしんない」
「そっか。教えてくれてありがとね、笑星くん」
「そうそう、それとね。小生が渡したのは、荒山氏以外にもたくさんいるってことと、一枚だけとっておきのカードを渡した子がいるんだけど、まだ覚醒できてないみたい。でも、誰にあげたかを言っちゃうと研究の邪魔になるみたいだし、なによりね、ひとみが首を絞めてくるから教えてあげない。和ちゃんには、ごめんなさいって言うね。ごめんなさい」
「うん。わかった、ありがとう。相変わらず優しいんだね、笑星くんは」
「ううん、そんなことないよ。和ちゃんの優しさ認知メーターが壊れているだけ」
「そうかも。じゃあ、用事は済んだから、僕らはここらで失礼するね」
和はそう言うと、テーブルのタロットカードをポケットに仕舞って、隣の摩怜に「行きましょうか」と声をかけると立ち上がる。
「――和ちゃん」
「なに……?」
立ち上がった和に、笑星が声をかけた。
「つぎは、『灰色の世界』で会いたいな」
笑星は折り紙を折りながら、ぽつりと告げる。それに対して、和は笑みを見せ、「うん。灰色の世界で」と彼女と同じことを返した。
摩怜は、なるべく笑星を見ないよう彼女に一礼をして、図書室を後にする和の後ろをついていく。図書室を出る直前、今一度、彼女のいたテーブルに顔を覗かせてみると……、
――どういうわけか、そこに彼女の姿はなかった。
「ね、ねぇ、なぐ君……。過視原さん、消えちゃったみたいなんだけど……」
摩怜は、和の後ろ襟を掴み、彼を呼び止める。
「あー、それはたぶん、笑星くんの裏無意志が薄まったから見えなくなっただけです」
和はそう言って、笑星がいた席を見て微笑する。どうやら彼には見えているらしい。
「あ、そう、なんだね……。…………」
これも陰陽司の持つ体質というやつなのだろう。受け入れがたい事実は、こうやって言い聞かせたほうが、いくらかは受け流しやすかった。
摩怜がいま関わっている人たちは、本来ならば知らないはずだった世界の住人たち。和と笑星の淡々と進んでゆく会話を、『おかしい』の一言で指摘をしても、きっと彼らの中ではそれが『普通』のような気がして、摩怜は彼らの会話を聞くことだけで精一杯だった……。
……………………。
「ふぅ…………」
少しの忙しなさを感じて、摩怜は、下を向く代わりに小さく息衝いた。
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