一章 - 3
一章 布に覆われ③
りんを鳴らして、手を合わせる。
「ただいま、……おとうさん」
コンパクトサイズのお仏壇の前で、あたしはおとうさんに語りかけた。
「今日は、ひとみさん……、えっと、お悩み相談部の部長さんのおじいさまがやってる喫茶店に呼んでもらって、SNSで知り合ったお友達……ほら、おとうさんの小説を好きって言ってくれたスペースさん……
おとうさんの書斎のデスクには、小さなお仏壇と、おとうさんの写真(幼い頃のあたしや若いおかあさんと一緒に映った写真もある)、それとおとうさんが大きな賞を取ったときの一冊の小説。あたしは、いかにも高級そうな座り心地のいい椅子に座って、おとうさんに今日の出来事を話す。およそ半年前からやっている、あたしの日課だ。
「だけど、出風さんとは、ちゃんとお話しできなかった……。あたしのやったことは酷いことで、それが申し訳なくて、せっかくひとみさんと親川君が機会を設けてくれたのに、あたし委縮しちゃって、ダメにしちゃった……」
喫茶店での愚行を思い出すと、恥ずかしさと情けなさが押し寄せて、いつもみたく無意識に頭が下がってしまう。小さい頃からの癖だ。ネガティブ思考で、人と関わることが苦手で、人見知りで、よくないことがあると現実逃避するように顔を伏せてしまう。
だけど今日は、今日だけはいつもと異なり、すぐに顔を上げられた。
「結果はダメだったけど、……でも、親川君に勇気をもらったの!」
彼からもらった勇気の余熱は、家に帰っても尚、醒めることを知らずに残っている。
「どんなふうに勇気をもらったかと言うとね! 今日、あたしが喫茶店に来たことを、十分にすごいことだって褒めてくれて! だけど、あたしは『十二分にすごくないといけなかった』って、反論しちゃった……。だって、出風さんに謝って、お話しすることが目的だったのに、それができなかったから……。でも、そしたら、親川君は、『今日、十分すごかった分、次回は
勇気をもらった経緯を話していると、あの時に感じた気持ちとズレを感じた。
「これって、ただの屁理屈みたい……。それに、次回の二分はきっともっと頑張らないと、すごいって言えない……」
つい、顔を下に向けてしまう。
「親川君が言ってくれたときは、心がぼぉうって灼けるみたいに熱くなって、ほんの二分だけ頑張ろうって勇気が湧いて……、いまもその勇気は消えてなくて……、なのに……、なのに、このことを話すと、ただの屁理屈にしか聞こえなくて……、
――――はっ!」
ある事実が思い浮かび、顔を上げ、おとうさんを見た。
「もしかして! あたしって単純な子なんじゃ!? そ、そうなのかな、おとうさん!」
…………。
相変わらずおとうさんは、返事をせずに微笑んでいる。
「なんて……、浮かれすぎかな……」
ふぅっと一息。椅子に座り直した。
「でも、親川君は本当にすごい人でね、人見知りのあたしが知り合って間もないのに怖れないで、お話できて……。もっと、はやく出会っていたら……、出会っていたら……?」
初めての気持ちに胸が苦しくなって、涙が零れてきそうだった。
つまり、なにを言いたかったのだろう……、分からなくなった。
「そ、そうだ。知ってると思うけどね、ひとみさんも、すっごくすごい人なんだよ。おとうさんとのお話にも度々出てくる、あの学級委員長さん……って、知ってるよね……。ペア行動とか班別行動のときとか、ひとりぼっちのあたしを誘ってくれる、優しくて、かっこよくて、美人さんで、あたしとは正反対の人で……、なのに、いつもあたしを気にかけてくれて……。フィクション作品に出てくる優等生さんみたいで、いつもクラスメイトに頼られて、あたしの憧れで……。で、でも、親川君だけには態度が違ってね、…………」
また、無意識に下を向いてしまった。膝の上にある手は、ぎゅっと力強く握り締められている。
やっぱり、なんだか変だ。気持ちを切り替えるように、ばっと顔を上げた。
「そ、そうだ! あたしね、今回の悩みが解決したら、お悩み相談部に入れてもらうことになったの……! 初めての部活動! えへへ、受験生が入部するなんて暢気な話だよね……。たしかに勉強も大事だけど、それ以上に親川君やひとみさんの近くにいると、情けない自分を変えられる気がするの……! おかあさん、許してくれるかな……」
当然、おとうさんからの返事はない。
「わかってる。これも勇気があれば大丈夫、だよね……。――うんっ!」
グッと両拳を握って――。
「あ、あたし、頑張ってみるぞぉ~。えぃ、えぃ、ぅおぉ~……! えへへ……」
なんて、おとうさんの前でしかやらないノリで、両拳を天井に突き上げた。
「ま、まずは悩みを解決しなくちゃ、ね……! ――ということで、本屋さんで、コミュニケーション本でも買ってこようかな……! 不思議……今のあたしは何でもできる気がする! なぐ君に感謝しないと……! ……っと、親川君だった……えへへ……」
やはり、少し勇気をもらい過ぎたみたいだ。歯止めがかからなくなりそうだった。
思い立ったが吉日。あたしは、コミュニケーションがうまくなる本を買うため、再び家を出た。最寄りの本屋さんは、この辺りで一番大きなショッピングモールの中にある店舗。勇気から発生する熱エネルギーを消費して、早速ショッピングモールへ向かった。
――なーんて。ここまでは、夢想、回想、絵空事。
「…………」
夢から冷めた世界は、めちゃくちゃに痛痛しかった。
ショッピングモール一階、服やアクセサリのお店が立ち並ぶセントラルコート中央部。
「もう、やめて……」
目の前に広がるのは、心の中を体現したフィクションみたいな世界。
人々の悲鳴が、絶えず聴こえる。
床に伏した大人たちが、心臓を握り潰さん勢いで胸を押さえて悶える。
幼い子供が、悶える母親や父親の前で泣き喚く。
「いたい、いたい、助けて――!」
女が呻く。
「うわぁあああああああ!」
男がさされた。
キュィン、キュィン、と、獣が泣く? 鳴く? そんな不気味な声が反響する。
男を刺したのは、背中に無数の棘を生やした人型の怪物。
怪物の顔は、ネズミやカピバラのような、げっ歯類のそれ。また鼻の辺りから、数本の鋭利で長いひげが横に伸び、頭には丸みを帯びた耳。胸元の辺りに黒色の横筋が一本、それを除いて全身白色の毛皮に覆われている。背中に生えた棘は白と黒のまだら模様。
怪物の姿かたちは、草食性のげっ歯類――ヤマアラシを彷彿させるものだった。
そんな怪物が、次々に、人々を――特に大人たちを襲っていく。怪物の手には、背中に生えた針を巨大化させたような、白黒まだら模様の
怪物から逃げ惑う人がいても、逃げ切れる人はいない。怪物がある程度の距離まで近づくと、漏れなくみんな怖れを成したように立ち止まり、抵抗も無しに刺されてゆく。
というかそもそも、摩怜を含むショッピングモールにいたはずの人々は、色を失ったモノクロのショッピングモール、末端は半球状の、灰色に濁った壁で塞がれた、謎の空間に閉じ込められており、逃げ切る術がなかった。
さらに摩怜だけは、棘だらけで半透明の黒いドーム状の壁――
摩怜は、何度か抜け出そうと試みたものの、壁に触れるたび、棘が指先から体内、やがて心へと入り込むような激しい痛みが全身を襲い、抜け出せないでいた。痛みが襲うといっても、穴が開くとか出血するとか、そういう外傷はない。ただ一点、過去に犯した過ちが蘇り、それが心から体内、やがて全身へ痛みが連鎖していくのだった。
蘇る過ちとは、もちろんあの日の出来事。
ちょうど一週間前に当たる。SNSで共通の趣味を持った子――『スペース』と会う約束をしたにもかかわらず、無断の裏切り、約束を破ってしまった愚かな行為。
所詮、一時の勇気を抱いたところで、すぐさま人間性そのものを変えられるわけではないのだ。
希望を失くした先にあったのは、失望じゃなくて絶望。勇気は消えた。だから……、
「あたしも、一緒に……」
ぎゅうっと目を閉じた。
「消えちゃえば、よかったのに?」
「うん……。…………」
空耳か。いや違う。
「えっ……?」
摩怜は目を開いた。
「そんなこと言っちゃダメですよ、摩怜さん。僕が悲しんじゃいますから」
彼の優しい声が耳に触れた気がして、摩怜は顔を上げる。
「おやかわ、くんっ……!」
《和。あれの足止めはキミに任せたぜ》
脳内に直接語りかけてくる、
「了解です」
白狐から降りる和。このとき、白狐に生えていた九つのうち
「摩怜さん、怯えはいつか心から去っちゃうんです。だから、安心してください」
微笑を見せた。その表情が、どこか女性の雰囲気を帯びているように感じた。
その後、和は、目にも留まらぬ超人的なスピードでヤマアラシの怪人のほうへ向かい、蛇のような、あるいは蔦のような尾を駆使して戦闘を開始する。
――と、
今度は、目の前で強烈な白い光が放たれ、摩怜はぎゅっと目を瞑った。
「――さて、と。
きみの心に
一人美の声が、そのように訊ねる。
光が徐々に弱まり、摩怜が目を開けると、正面にいたのは一人美……? 全身が純白で、身体のところどころにプラチナブロンドの紋様が刻まれた異様な姿。瞳の色は燃えるような緋色。また、頭には狐のような尖った耳を生やし、異なる色に異なる大きさの八つの尻尾を揺らす。さらには、衣服の一切を身に着けておらず、喫茶店以前の一人美に有ったはずの胸が全くなくて、しかも、どこか男性の雰囲気を醸している(本当になんとなく)。
「ひとみ……さん、ですか……?」
摩怜は、思わず訊ねる。
「あぁ。正真正銘、お悩み相談部部長の
そう言って、よいしょ、と棘の壁の前で胡坐をかいて座り込んだ。ずいぶんと余裕のある様相。まるで談笑しにきたかのような。緊張感をまったく感じられなかった。
「あの、ひとみさんは、親川君のほうに行かなくても、いいんですか……」
和と化け物がいるほうへ目を移す。和が、化け物の背から飛ばされる無数の棘を回避しながら、濃紫の尾を鞭のように駆使して化け物を攻撃する。
一人美が、無関心そうに和と化け物のほうを一瞥。「あー、うん。」と、力なく返す。
「でも、親川君だけじゃ、あの怪物は……」
和の濃紫の尾が、化け物を縛り行動不能にする。しかし、和の体力は限界を迎えているのか、彼は微動だにせず、次の攻撃をなかなか繰り出さない。まるで倒す気がないみたい。
「いや、あれ手加減しているだけだから、きみが心配するな。和は超強いし」
「え……? なんで、手加減なんか……。そんなことダメですよ、たぶん……」
「いや、いまのきみが、そんなことを悠長に心配できる立場にないだろ」
一人美の口調が、荒々しい。
「――んで、どうしてこうなった?」
一人美の冷淡な態度が、普段の彼女とは別人のように思わせた。
「どういう、ことですか……?」
摩怜は、緊張しいに訊き返す。
「ん――?」
一人美(?)が、なにを言ってんだ、と神妙な顔つきをして、やがて理解したように。
「あぁ。この時空を創ったの、――きみなんだ」
「…………」
一人美が、棘の壁を指し、
「この壁を作ったのも――」
今度は、和が抑圧する化け物を指し、
「あれを生み出したのも――」
次に、伏した人々を指し、
「あっちの人や、そっちの人を傷つけたのも――」
最後に、両手を大きく広げ――、
「この混沌な世界をソウゾウしちゃったのは! 全部ぜーんぶ、きみの仕業さ――!」
一人美(?)が、どこか可笑しそうに、摩怜を嘲笑するように説明した。
「やっぱり、そうなんですね……」
なんとなく、そんな気がしていた摩怜は苦しみ呟く。
「厳密には、きみの心の
――いや、世界設定の解説なんざ、いいや。
と、一人美(?)が呟いて。
「数時間前、喫茶店を去る直前のきみは、次こそやってやる! ってぇー感じでさぁ、心の蟠りが消えたように見えたが……、ここへ来るまでに何があった?」
「それは……、あの……」
一人美(?)の澄んだ緋色の瞳に、心を覗き込まれているような。摩怜は、気味の悪さを感じて、ここでどれだけ言い淀んでも、嘘をついても無駄だと察した。
「またっ……。また、怖れちゃいました……。また、逃げちゃったんですっ……!」
摩怜は、こうなった経緯を、一人美(?)に話した。
和からもらった勇気のおかげで「次、出風さんに会ったら話しかけるぞー!」と、そんな自信のもと、少しでもためになればとコミュニケーション本を買うため、本屋のあるショッピングモールへ……つまり、ここへと向かった。
ショッピングモールへ到着し、その駐輪場にて、摩怜は、とある人物を見つけた。
そこにいたのは、出風
思いがけぬ本番に心の準備ができているはずもなく。摩怜は、その場に立ち止まり、様子を窺う。宇宙のほうは気づいておらず、ションピングモールの入口へ向かっている。
話しかけるべきか――、話しかけなくちゃ――、でも急に話しかけたら迷惑じゃ――、なんと声をかけよう――、声をかけたら何を話そう――、謝らなくちゃ――、でも……。
摩怜は怖くなった。
怖くなって、……また、逃げ出した……。
「それで、しばらくして本を買いに戻ったら、ここへ閉じ込められたってわけか」
「ごめんなさい……。やっぱり怖くなって……。また……、またっ……!」
やっぱり、情けないままだった。そう思うと、涙が止まらなくなる。どれだけ涙を拭っても涙の溢れる量が勝って、地面にぽたぽた零れ落ちてゆく。
「どうして、そんなに怖れるんだい」
一人美(?)が、単刀直入に問うた。
「ひとみさんには、――ぐすっ、分かんないよ……。相手に無視されたら……、相手に嫌われていたら……、もし謝っても許してくれなかったら――って……。いろいろ考えるうちに、――ぐすっ、人と話すことが怖くなっちゃうんだよ……!」
「つまり、相手を不快にさせるのが嫌で、なにより無視されたり、嫌われているのを知ってしまったり、総じて失敗したり、――まあ、自分が傷つくのが嫌というわけだ」
一人美(?)は迷う素振りなく、また容赦なく、摩怜の怖れに核心を突く。
「だからぁっ、――ひぐっ! ひとみさんには、わかんないんだよぉっ……! んぐっ!」
摩怜は、一人美(?)の的を射た指摘に、咽びながらもムキになって抵抗した。
「もし、あたしが、ひとみさんみたいに人見知りじゃなかったら……! 人と関わることを怖れなかったら……! 勇気があったら……! きっと、こんなことにならなかった……! 普通の人ができて当たり前のことを、あたしができないからっ……! ひぐっ!」
「あぁ――?」
一人美(?)が、なに言ってんだ、と呆然。やがて呆れてしまい、掠れた声で失笑する。
「いやいや、摩怜さん。それ本気で言ってんの……?」
本気だよぉ……っ! 摩怜は感情的になって、肯定を口に出す。
一人美(?)は、摩怜のはばかりのない肯定に、さらに呆れて頭を抱えた。
「摩怜さん。ボクが今から言うことに、ぜったいムキにならないでほしいんだけどさ」
「な、なに……」
摩怜は俯いて、涙を拭いながら耳を傾けた。
一人美(?)は、こほん、とわざとらしく咳払い。
その後――、
「摩怜さん。あんたさー、誰かと鑑みるばっかより、鏡で自分を見つめ直したほうがいいぜ! いっひっひっひぃ~!」
小馬鹿にするように、わざとらしい引き笑いを見せた。
「ど、どういう、こと……、意味分かんないよ! 変なこと言わないで!」
「ああーあ、和がいねぇから、翻訳がムズイな……」
一人美(?)は、しばらく唸り考え込む。そして、ようやく答えを見つけたように。
「まあつまり、あれだよ。しょうもねーことばっか引きずって、下ばっか見てんじゃねぇよ! ――ってぇことだ!」
自信たっぷりにそう告げる。
「な、なに……、それ……」
摩怜は耳を疑った。が、どうやら言い間違いではないらしい。
「偉そうに、言わないでよ……。ひとみさんは、生徒たちを助けるお悩み相談部を創部するくらいすごい人でっ! かわいくてカッコいい後輩に好かれてっ! とっても、とっても美人さんな……、あなたにっ! あたしの気持ちなんて、怖れなんて、苦渋なんて! 一生わかんないよぉっ!」
つい、感情的に、衝動的に、反射的に、ムキになってしまった。
「うん。まぁ、そうなるなよな。ごめん」
予め、こうなることを見据えていた一人美(?)は、素直に謝る。
「あ、でもボク、すごく好印象みたいで嬉しいよ……。ありがと……」
「論点、そこじゃないよぉ……、ひぐっ……。あたしだって、しょうもないことって言いたいよっ……。でも、ひとみさんと違って、あたしは人見知りで、人と関わることにいっつも怯えちゃって、勇気が全然ない……っ。あたしも、ひとみさんのように誰からも慕われて、誰かに勇気をあげられるような、特別な人になってみたいよっ……。でも、あたしは、こんなあたしだから……、浮いてばかり……っ。そんな、正反対で生きている人の悩みをさ、しょうもないなんて安易な言葉で片付けないでよっ……」
「いや、だから、ボクが言いたいのは、まさにそこなんだって」
一人美は胡坐から体勢を変えて、足を伸ばして床に手をつけ、ラフな姿勢をとる。
「摩怜さん、きみは深刻に悩み込むほど人見知りじゃないし、人と関わること自体に怯えているわけでもない。それにさ、すでに勇気は十分持っているでしょ?」
「そんなこと、ないよ……」
「まー、たしかに、人見知りだったり、人と関わることに怯えたりってのは、ボクときみの感じ方に差異があるから、はっきり断言できないかもだけど。
――だけどさ、勇気は十分持っている。悪いが、この事実だけは否定させないぜ」
「…………」
摩怜は下を見たまま、反論も、返事もしなかった。
「摩怜さんは受け容れたよね、和くんのバカバカしい屁理屈をさ」
「え……?」
彼の名前、それとその言葉に反応し、摩怜は顔を上げた。
すると、棘の壁の向こうの、蛍光グリーンの瞳の色をした一人美が優しい口調で言う。
「摩怜さんは十分すごかったって、次は二分だけすごければいいって。十分な勇気がないと、十分にすごいことはできないよね。――ううん」一人美は首を横に振る。「そもそも、一昨日の昼休み、ボクに話しかけてくれた時点で――いや、これも違うね……」
一人美が、ほころんだ。
「きみが、今の自分を変えようって志したときから、勇気は生まれていたんだよ」
――ただ、少し空回りしちゃったみたいだけどね。と、一人美は苦笑した。
「――――」
棘の壁が消えていき、摩怜の目には、美麗で純白な姿の一人美が鮮明に映る。
それも束の間――。
「――ただぁー……」
一人美が、ぷくうと頬を膨らませ、今度は黄色の瞳でジトーと摩怜を見やる――と、四つん這いになって、八つの尻尾を揺らし、バッ! と、隔たりのなくなった摩怜に飛びついて、押し倒す。摩怜に乗った一人美が、むすっと不機嫌そうな顔を見せて。
「故意なく間接キスを差し向ける奴がさぁ、手を握られて好きだって言われる奴がさぁ! なによりッ! 和くんとはにかみ合う奴がさあッ! ボクにコンプレックスを抱くなんて、」
すぅうう、と一人美は大きく息を吸って。
「新手のマウント取りかよぉおおおおお~~!」
彼女の怒りの叫喚に、摩怜は耳を押さえる。目の前の一人美は、涙目になっていた。
「ボクなんか和くんに、母親か恩師くらいにしか思われてないんだぞ! どれだけアピールしても狼狽えてくれないし! ボクだって和くんと、はにかみ合ってみたいのにッ!」
幼児退行したように怒りを剥きだし、無茶苦茶で純粋な想いを告げる一人美。
摩怜は、呆気に取られるしかなかった。
「えっと……。ご、ごめん、なさい……?」
「謝るなぁッ! 恋敵に謝られると、挑発にしか見えないやいッ!」
「ご、ごめん……!」摩怜は、つい反射的に謝ってしまうが、「――いや、あ、あたしはべつに、親川君のこと、す、す、すきって、わけじゃ……」チクリと胸が痛くなる。
「はぁ!? 好きになれよ! あれだけのことをしておいて、好きじゃないのはズルいッ!」
「だ、だって、ひとみさんと親川君……お、お似合い、だと思うし……」
摩怜は、一人美から目線を逸らし、ぎゅっと力強く目を瞑って、その言葉を放った。
「……ねぇ、摩怜さん」
一人美に名前を呼ばれ、摩怜はおそるおそる一人美のほうを覗く。と、彼女の瞳が黄色から蛍光グリーンに戻っていた。それに、どこか落ち着きを取り戻した様子で――。
「虚ろを吐くのは良くないよ……」
「――――!」
一人美の悲しそうな顔が、摩怜の心に、なにかを突き刺す。
一人美は、押し倒した摩怜をそっと起こすと、少しの距離を置いて、体育座りをして膝を抱え込んだ。彼女に生えた八つの尻尾が、萎れたように、たらぁんと垂れ下がる。
「横暴なことして、ごめん……」
恥ずかしがるように、落胆するように、ぼそっと小声で謝る一人美。
「私さ、心を開いた人がいると、わがままっ子になっちゃう体質……いや、その逆で、普段の私はね、人から嫌われず良く見られるように接してしまう体質なんだ……」
「……そ、それって、親川君の体質と、似たような感じ……?」
「うん、そう。本当の私は、摩怜さんに似ているんだよ」
一人美は、怪物と睨み合う和のほうへ視線を向ける。
「お悩み相談部の創設案を出したのは、親川くんなんだ。それまでの私なんて、何者でもない空虚な存在だったし、親川くんと――和くんと出会えたおかげで、少しずつボクらしさを知っているだけで、ボク、『九尾一人美』自体に魅力はないんだ……」
物憂げな表情をする、目先の一人美。摩怜は胸を押さえた。一人美の侘しさ募る嘆きに共感してしまいそうだったから。いや、実際、共感したのかもしれない。――でも、摩怜は。
「そ、そんなこと、ないよ……!」
頭で考えるより先に口が動いて、一人美に否定を訴えていた。
「ひとみさん、いっつも体育の準備運動でペアになってくれるし、修学旅行でもグループ班に誘ってくれたし、体育祭や文化祭だって役割を振るときに、あたしなんかの意見も聞いてくれるでしょ! あたしは、ひとみさんの魅力、知ってるもん……!」
一人美は苛立ち、湿気た顔を見せる。
「だから、それが体質のせいだって――」
「――体質でもだよ!」
「…………!」
「それでも、あたしは嬉しかった……! 憧れた……! ひとみさんに魅力があるのは、あたしの経験に基づく絶対だから……! だから、否定させないよ……!」
はぁ、はぁっ……!
気持ちを伝えただけなのに、息切れする摩怜。誰かに対して想いを伝える、そんなこと初めてで、身体中が熱くなった。だけど、晴れやかな気分だった。
ふふっ、と一人美が、微かに口角を上げる。
「摩怜さん、和くんみたいなことを言うんだねぇ」
「え…………?」
最初、摩怜は、一人美の言葉にピンと来なかった――が、
「――そ、そそそれはっ……! そ、そそそぉーだよ……! あ、あたし、なぐ君の、へ、屁理屈が、大々的に大好きだからっ……! だ、だからね、まねっこしてみたんだよっ、うん……!」
「…………」一人美が、ジトーとした摩怜に疑いの目を向ける。「なぐ君呼びじゃーん」
「ご、ごごごめんなさぁあああああいぃ!」
一人美に向かって土下座する摩怜。
そのとき――。
「ひぃいいいやぁああああ!」
自分の身体の異変――全身真っ黒に覆われ、胸辺りには白い横筋、頭には髪に代わって白黒まだらの棘が生えている。さらに、手は獣のような鉤爪、頭に小さくて丸みを帯びた獣の耳が生えていることに気づいて、悲鳴を上げた。
くすすっ、と一人美は、どうしようもなくなって仄かに口角を上げる。
「ボク、摩怜さんの摩怜さんらしいところ、大好きだよ。普段は小動物みたいに怯えているくせして、言うときは正直に想いを伝えてくれる。だから、接しやすいんだよね」
「そ、それは、あたしが、単純な子みたいな言い方、だよ……」
摩怜の言葉に、一人美が、にぃっ、と悪戯っ子っぽく笑う。
「単純じゃーん。失敗や不慣れなことに怖れてさ、下ばかり向いているから、本当の自分が見えてないし、周りにいる人のことも見えなくなっちゃう。これが単純以外の何者だよぉー」
「だとしても……」
と、摩怜は俯く。
「やっぱり、失敗はしたくないし、不慣れなことって怖いよ……。それに相手を傷つけたくないし、あたしも傷つきたくない……。愚かだって分かってる……。でも、逃げちゃうよ……。傷つけるのも、傷つくのも痛いもん……」
「まぁでも、それが人間なんだし、それでいいんじゃない?」
「え……?」一人美の予期せぬ言葉に、摩怜は顔を上げた。
「無理をしてまで怖れに立ち向かえばいいわけじゃないよ。どうしても怖くなったら、怖れず逃げちゃえばいいんだ。そのための怖れなんだしさ」
顔を上げた先にいたのは一人美だが、八つの尾が生えた白狐の擬人のような姿ではなく、裸体の彼女だった。うまく体育座りをして恥部を隠しているが、胸の膨らみが元に戻っているのを、摩怜は見つけた。
一人美が、にこっと微笑んで言う。
「怖れって漢字は、心に布って書くでしょ。つまり、布で心を覆い隠してしまう。心を守るために発生するのが怖れって感情で、人にはなくちゃならないもの。だから、怖れを怖れる必要はないんだ」
「だ、だけど、大切な物事に怖れて逃げるばかりだったら……、いつか大事なものを失くしちゃうと思う……。それなら、怖れなんてないほうがいいよ……」
「うん、たしかに。一度きりの機会なら、怖れなんてないほうがいいね。でも、今回みたいに何度かチャンスがあるならさ、逃げてもいいじゃん。次の勇気を手に入れればいいんだよ」
「でも、その勇気は……、貴重なものだから……」
「そう。だから肝心なのは、勇気を得るためにどうするかだよ。下を向くんじゃなくて、前を向くなり、横を見るなり、鏡で自分を見つめるってのもいい。前を向けば、次に進む道が分かるし、横を見れば、愚痴や言い訳を聴いてくれる人や、アドバイスをくれる人がいるかもしれない。鏡を見つめれば、そこに諦めてないきみが映るだろうさ。下を向くのはやめなよ、零れた涙しか映らないからね。――なーんて、達観ぶった綺麗な持論は嫌いかな……?」
「……ううん」
照れ臭そうにする一人美の問いかけに、摩怜は首を横に振った。
あたしは、怖れから逃げていたんじゃなくて、勇気を手にする機会を見逃していただけだったみたい。……あれ、でも、怖れに立ち向かう勇気を見逃すということは、相対的に怖れから逃げていたことになるのでは? ――なんて細かい疑問を抱いたが、一人美の達観ぶった言葉は、そんな疑問をどうでもよくしてしまうほど、荒山摩怜という人間にうまく噛み合った。
破顔を見せて、摩怜は言う。
「大々的に、大好きかも……」
心がすこし楽になった。
そしたら、刺々しい怪物が消えた。
苦しんでいた人々が苦しむのをやめた。
灰色に濁った世界が、なくなった。
ここに広がるのは、綺麗というには不気味で、汚濁というには無垢すぎる、黒と白が交錯した世界。なんというか、混沌と整頓の中間みたいな、白黒マーブルの世界があらわれた。
「怖れていいし、逃げてもいい。失敗したら、言い訳してもいいんだよ」
一人美が、巨大な白狐に姿を変えながら、四つ足で立ち上がる。
《失敗に囚われず、上を向こうぜ?》
気楽そうに、緋色の瞳の白狐が笑った。
「うん……。ひとみさん……、……ありが――――ひゃっ!」
そのとき、ふぁさ、と摩怜の身体の上に、なにかが覆い被さった。
摩怜が慎重に見上げると、そこにいたのは、濃紫の蛇のような、蔦のような尻尾を生やした和が。彼は、カーキ色のジャケットを身に着けておらず、細身に、ところどころ筋肉が浮き出ている、黒の長袖Tシャツを腕まくりした彼の姿が、摩怜の鼓動を打ち鳴らす。
そんな彼と、摩怜の上に被さるカーキ色のジャケット……。
「……うん?」
摩怜は、妙な肌寒さを感じて、下を見る。
――際限なく、裸だった。
「きゃぁあああああ!」
摩怜は叫喚し、裸体を隠すためカーキ色の布に
《和、はやくボクの背に乗れ。もうじきここは消える》
「はい」和は返事をすると、一人美の――白の狐の背に乗った。同時に、和に生えていた濃紫の尻尾が、白狐の一部になる。和は、摩怜を見ないで手を差し伸べた。
「摩怜さん、いまは何も聞かずにジャケットを着て、僕の手を取ってくれると助かります」
「う、うん……」
和に従い、摩怜はカーキ色のジャケットを羽織って、彼の手を取り、立ち上がる――と。
「――ふわぁあああ!」
和に手を引っ張られた摩怜は、重力を無視したみたいに軽々しく浮かび上がり、ひょいと白の狐の背に乗せられて、彼の臀部から伸びる、もう一本の濃紫の尻尾が、摩怜の腹部にぎゅうっと巻きついた。否が応でも、彼に密着してしまう。
「もし可能なら――いえ、しっかり僕に掴まってくださいね」
「う、うん……」なんとなく次に起きることを察した摩怜は、和の言うとおり、彼のお腹辺りに手を回して、落ちないようにしっかり手を握る。
家族以外に、こんなに密着する経験なんてなかったから、呼吸するのに気を遣う。それに、彼のジャケットに包まれ、彼に密着して、まるで彼の一部になったみたいな……。
「…………。
…………すんっ」
彼の、優しい匂い……。
《……はぁ》一人美が、溜息を吐いた。《まぁ……、とりあえず脱出するぜ……》
大儀そうにそう言って、黒と白が交錯する世界を駆け出した。
その初速度、――おそらく 60 km/h 越え。
摩怜は、念のため和の腹部に回した手に、さらに力を込めた。
「この世界って、発現させた人の心から蟠りがなくなると消えるんですけど、同時に、この場にいた人たちの記憶から、この世界で起きたことも消えちゃうんです」
和は、後ろの摩怜を見ずに、この世界の現象を説明する。
「そう、なんだ……。……ねぇ、なぐ君……」
摩怜は顔を上げて、彼に声をかけた。
「なぐ君やひとみさんって、その、何者……なの……?」
和は、できるだけ顔を後ろに向けて、ニッと八重歯が見えるほど笑った。
「僕らは、ただの、お悩み相談部ですよ」
「……そっか」
いまは、ふたりの正体を知らなくていいと思った。
暖炉の傍にいるような、和の温もりが心地よいせいか、安心感を得たら眠気が襲った。
摩怜は、右頬を和の背中にぺたりと付けて、完全に彼へと身を委ねる。
――と、彼にぎゅっと手を握られたような、そんな心地よい感触を得た。
《和、帰りはボクを負ぶって帰れよなあ》
完全に意識が遠のく直前、彼女の嫉妬が聴こえて、摩怜は愚かしくも優越感に満ち満ちてみた。
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