一章 - 2

 一章 布に覆われ②




 摩怜まあれの相談を受けてから、二日後の正午過ぎ。

「…………」

 なぐは、ブラインドカーテンから漏れる日の光に目を奪われていた。

 呼吸をする度、鼻を抜けるコーヒーの独特な匂いが癖になる。

 相変わらず、居心地のいい空間だ。

 和と一人美ひとみ、それと摩怜は、高校の近くにあるモダンレトロな喫茶店を訪れていた。喫茶店のマスターが一人美の祖父ということもあり、お悩み相談部の校外活動場所のひとつとして使用させてもらっている。

 窓際の席に座り、三人は最後の一人が来るのを待つ。

「…………」ブラックコーヒーをちびっと口にして、『鳥頭でも忘れない 初心者のためのタロット占いの教科書』を優雅なに読む一人美。

「…………」これで何杯目だろうか、忙しなく、ごくごくと水を飲み干す摩怜。

「…………」そんな対照的なふたりの様子を、対面越しに座る和が眺める。

「――ねぇ、親川くん」

 一人美が、タロット占いの本を閉じて、

「彼女は――出風さんは、いつになったら来るのかな?」

 と笑顔ながらも、その内にあるイライラを表に出して訊ねる。

「あはは……、ですね……。……すみません……」

 待ち合わせの時間から四〇分が経っているが、宇宙の現れる気配が一向にない。三〇分ほど前から、和が何度かメッセージを送っているのだが、返信すらない状況だった。

「あの……」摩怜が、氷だけになったグラスを見つめて言う。「やっぱり、あたしと会いたくないんだと、思います……」

 涙目だった。

「そ、それはないと思いますよ。お寝坊さんって、可能性もありますし……」

「私も、その線だと思うよ。ドタキャンするなら、最初から断っているだろうし」

「……それなら、いいんですけど……」

 可能性としては寝坊もあり得るのだろうが、ここまで遅ければ事故に遭ったのではないか、と最悪なケースも頭をよぎる。和は、一度電話をかけてみることにした。「電話してきます」そう言って、喫茶店の外へ行くため立ち上がる。

 戸口へ向かう途中、「桃ジュレクリームソーダと、ソフトクリーム付きのコーヒーわらび餅をひとつずつお願いします」と暢気に注文する、一人美の声が聞こえてきた。

 和が扉の前まで来ると、扉の先に人影を見つけた。立ち止まり、相手の出方を待つ。

 カララン、とドアベルが柔らかくそよぐ。

「あ――。」

 扉を開けて現れた人物を目にした和の口から、ぽっと一文字、零れ出る。

「わぁ、親川くん!」

 扉を開けた先にいた和を見て、驚きを口にする女性。

「きれい……じゃなくて、こんにちは、出風さん」

 喫茶店に入ってきたのは、三人が待ちに待っていた宇宙であった。

 だぼっとしたうぐいす色のパーカーに、ゆったりとした白のロングスカートを履いて、さらりと癖っ毛のない黒髪を、後ろに少し高い位置に結わえている。高校の彼女とはまるで別人の様相。前段階で、ヤンチャな恰好だと聞いていた和にとって、その比較的素っ気ない恰好に不意を突かれる。喫茶店に合わせてコーディネートしてきたのだろうか。見慣れぬ恰好の一方で、普段の宇宙と同様、右手に男ものの腕時計をつけているのを見つけて、和は妙な安心感を得た。

「ごめん、寝坊しちゃった! 連絡しようと思ったんだけど、急いで来たから連絡するタイミングがなくて……ホントにごめんなさい!」

 と、一心に謝る宇宙。

「ううん、気にしないで。ひとまず無事でよかった。席に案内するからついてきて」

 和は、一人美と摩怜の待つ席へ宇宙を案内する。

「やあ、きみが出風さんだね。なにかあったんじゃないか、と心配していたんだよ」

 一人美が本心を隠して穏やかに言う。

 一方の摩怜は、緊張してか、宇宙を一切見ようとしない。

「あの、遅れてすみませんでした! それに連絡も入れず、ご迷惑おかけしました!」

「いやいや、無事に来てくれただけで嬉しいから。ね、荒山さん?」

「は、はい……」摩怜が意を決したように、それでもおそるおそる宇宙を見て、「き、来てくれて、ありがとう……ございます……」ぐにゃり、と不器用に口角を歪ませた。

「じゃあ、出風さんはこっちに座って」

 和は、摩怜と対面する席に宇宙を案内して、宇宙が座ったのを確認すると、自分も席に着く――と、一人美がこちらを窺っていることに気づいた。

 一人美が、満面の笑み……というか、厭にわざとらしく口角を上げている。

「……?」和が首を傾げる。

 すると一人美が、和と宇宙を交互に指さして。

「あれだね。あれだよね、きみたち。近似ペアルックみたいだね」

 宇宙の鶯色のパーカーに、和のミリタリー風のカーキ色のジャケット。近似色に、どちらもオーバーサイズという類似点。偶然とはいえ、和の服に関しては一人美がチョイスしたとはいえ、隣り合うふたりの姿を見て、一人美は嫉妬と苛立ちを微小に覚えた。

「偶然です。そんなことよりです」

 一人美の嫉妬に気づかぬ和は、彼女の言葉をでお片付け。

「乾杯しましょう。皆さん、グラスを持ってください。――乾杯です!」

「…………。乾杯……」

「か、かんぱい……!」

「えっと、か、かかかんぱいっ……!」

 水の入ったグラスを合わせた四人。それ以降も、和は淡々と進行していく。

「音頭の後は自己紹介です。まずは僕から! 僕は、二年三組の親川和です。お悩み相談部では、主に書記をやっています。好きな食べ物はスイーツ全般、嫌いな食べ物は特になし。えーと、ほかには……。――あっ、特技は、夏の夜空のへびつかい座と、冬の夜空のオリオン座を瞬時に見つけられること! 逆に、それ以外の星座は分かりません!」

「…………」

「…………」

「…………」

「――では、次にひとみ先輩、お願いします!」

 満足そうに自己紹介を終えた和は、次の自己紹介を一人美に振った。

「いや、和くん和くん。」

 和の進行に、一人美はついつい素の声になってしまって。

「なんで、キミは合コンみたいな進行をしているのさ。ボク、ちょっと恥ずかしいよ」

「でも昨日、ひとみ先輩に『進行役は頼んだよ!』と任されたので……」

「いや言ったけれども。でもさ、喫茶店で合コン紛いは趣というやつに失礼でしょ」

「……あー、そう言われると、そうですね……。――どうしましょう」

「それは、あれだよ……。ふつーの自己紹介でいいんだよ。うん……」

「ふつー?」

「うん、ふつー」

「ふつーって、どうすれば」

「そりゃあ、まぁ、ふつーに……だよ……」

 幹事役のふたりが、ふつーについて考え始めたことにより、沈黙が漂う。


「――お待たせいたしました」


 そこへ、どことなく一人美に似た、白髪を後ろに結わえた女性スタッフが、注文したデザートを持ってきた。頼んでいた二品が、一人美と摩怜のそれぞれの手元に渡る。

「出風さんもなにか頼まない? お昼がまだだったら、焼きナポリタンとか、白黒オムシチューとかもあるよ。はい、メニュー表」

 自分と宇宙の席に、心細い余白があると感じた和は、なにか注文しようと促して、かわいい丸文字や色鉛筆で描かれた料理の絵が載った、手書きのメニュー表を渡した。

「ありがとう。でも、大丈夫。お昼、食べてきたんだよね」

「あー、それならデザートはどう? ここのスイーツ、すっごくおいしいよ」

「じゃ、じゃあ……、親川くんのおすすめ食べてみたいかも……」

「うん、任せて」

 和は、迷わずコーヒーパフェをふたつ注文。

「ぐだぐだダメダメじゃん……」

 一人美は、段取りの悪い進行を指摘しながらも、ソフトクリームが溶ける前にコーヒーわらび餅を頬張る。

「――うんまぁ……」

「…………」

 慣れない場所に、一向に解けない緊張――、摩怜は遣る瀬なさを感じていた。そんな中、桃ジュレクリームソーダを口にしてみる。

「あ、おいしい……」

 あまりの美味しさに、気持ちが少し和らいだ。そして現実逃避するように、これを飲むのに専念する。

 ――数分後、コーヒーパフェが届いた。これも当然、文句なしの美味しさ。

「ほんとだ。親川くんの言うとおり、すっごくおいしい!」

「でしょー? 僕のお気に入りなんだよね。最低でも、週三回は食べちゃうもん」

「ふふ、たしかに分かるかも。これは飽きない味だね」

 顔を見合わせ、共感する和と宇宙。これに嫉妬する一人美が不貞腐れて眺める。

「親川くんさ、上に乗ったミルクアイスが一番好きなんじゃない?」

「え――。うんうん、そうだよ! よくわかったね!」

「いやぁ、私と味の好みが似てる気がしてさ、そうじゃないかなぁ~って」

「ああ、たしかに。出風さんの作ってくれた卵焼き、すごくおいしかったし、僕たち似てるかも」

「あはは……。改めて言われると恥ずかしいなぁ……えへへ」

 宇宙が、はにかむ。

「ねぇ、よかったらさ、一昨日の卵焼きのレシピ教えてほしいな」

「いやいや! そ、そんなぁ……。あれは、ふつーの卵焼きだよ……」

「ううん。ふつーじゃないよ。僕が食べた卵焼きの中で、一番おいしかったもん」

「――――!」

 最上級の賛辞を耳にして、宇宙は和と目を合わせられなくなってしまう。

「お、大袈裟だなあ……。も、もぉー、親川くんはお世辞がうまいんだから……」

「大袈裟じゃないよ。僕の経験に基づく、僕の絶対だもん」

「も、もぉ……。あ、ありがと……」

 絶対、なんて言葉を使われて、照れを隠して否定はできない。宇宙はコーヒーパフェを食べる手を止め、和のお願いに答える。

「じゃ、じゃあ今度……、うちに来てもらったら卵焼きの作り方教えるね……」

「やった! 出風さん、ありが――ぃいいいっ!」

 ドン! とテーブルの下で脛を蹴られた。和が宇宙との会話を中断させ、おそるおそる正面を向くと、脛を蹴った犯人が、恐ろしいほどの満面の笑みを見せていた。

「親川くん! 私もコーヒーパフェ食べてみたいな! あ、そうだ! 私のコーヒーわらび餅と食べ比べをしよう! はい、あーん!」

 一人美は、和に断る隙を与えず、コーヒーわらび餅の乗ったスプーンを彼の口へ運ぶ。

「あ、あーん……、……あむっ……」

 和は、宇宙と摩怜の視線を気にしながらも口を開け、コーヒーわらび餅を受け入れる。

「どうかな? おいしいでしょ? おいしいよね! そうかそうか、もっとお食べ~」

 一人美は、勝手に和の感想を決めつけて、次のコーヒーわらび餅をスプーンに乗せると、咀嚼中なんてお構いなしに和の口へと持っていく。和は、口にある分のコーヒーわらび餅を急いで呑み込み、迫り来る次のコーヒーわらび餅を口にした。

「どんどん食べなぁー、親川くぅーん。はい、あーん」

 ペースを上げて、次々とコーヒーわらび餅を和の口へ押し込んでいく一人美。

「すみませーん、コーヒーわらび餅、三つ――いや、五つお願いしまーす」

 スタッフが通りかかると、無遠慮に更なるコーヒーわらび餅を注文。

「――もごっ、も、もう大丈夫、でふ……。むぐっ、ひとみへんふぁい」

「いやいや気にしなくていいんだよー。わらび餅を食べることだけに集中すればいいんだよぉー。他の誰かと話す暇がないくらい、わらび餅にありつけばいいんだよおー!」

 ね――っ! と、一人美が強く念を押した。

 ここで和は、一人美が暗に伝えている真意に気づく。つまり、『和くんが出風さんと話していたら、荒山さんの話す機会が無いでしょ』――こういうこと。

 一人美は手を止めず、和は口止めされているのに口を塞げず。

 すると横から、――ふふっ、――くすっ、と、微かな笑い声がふたつ聞こえた。

 和と一人美が、ちらりと隣を一瞥。そこに映ったのは、顔を見合わせ、照れ臭さそうに苦笑を見せ合うふたりの姿。――しかしその直後、人見知りし合って、ふたり同時にスイーツへ視線を落とし、再び黙々、ちゅーちゅー吸ったり、ぱくぱくと口へ運んだり……。

 あぁ、おしい! 和と一人美は、心の中で叫ぶ。――てことで、次の手だ。

 一人美が、和の口へコーヒーわらび餅を押し込む作業を中断。

「親川くん親川くん、私もコーヒーパフェ食べてみたいなー」

「もごっ、…………。むぐぐっ」

 和は、口を閉じ、頬を膨らまして、パフェグラスをテーブルの上でひきずって一人美に渡す。

「――いやいや、ここはふつー、あーんだよねぇ?」

「――――!」

「――――!」

 一人美の迷いのない主張に、黙々と食べていた摩怜と宇宙が勢いよく振り返る。が、しかし、聞かぬフリをするように、慌ててデザートへ目線を戻した。

 和は、口に含んでいたわらび餅を呑み込むと。

「あの、今日はふたりが居ますし……、そういう無茶振りは……」

「いやいや、私は親川くんに、あーんしてあげたじゃんねえ。それにぃー、親川くんに、あーんしてあげる過程で手を動かし過ぎちまったので、これ以上、手を動かせんのだよ。そんな私に、親川くんは『ひとりで食いやがれ、この女狐が』と、鬼畜を言うのかい?」

「食べないって選択肢もありますけど……」

「わかっちゃいないなぁー、親川くんはぁー。誰かと分かち合う、その行為に意味があるんじゃあないか。好きなものは即共有ッ! 現代社会の通説を怖れちゃあ、終いだぜ?」

 一人美が、決め顔で、達観したような言葉を吐いた。

「…………」

「…………」

 デザートを食べていた摩怜と宇宙が手を止める。一人美の言葉に思い当たる節でもあったのか、神妙な面持ちでデザートをじぃっと見つめている。

「わかりました」

 と和は、一人美の提案を受け入れて、スプーンでミルクアイス――は自分が丸ごと食べたいので、下にあるコーヒーゼリーをすくう。ホイップクリームを添えて。

「ひとみ先輩、あーんしてください」

 一人美の口へスプーンを伸ばした。

「いひひ~、それでいいんだよぉ~。あぁ~~むっ!」

 一人美が、喜色を浮かべてコーヒーゼリーを頬張る。甘さ控えめで、鼻から抜けるコーヒーの香り、さすが祖父の作るコーヒーパフェ(コーヒーゼリー)は絶品。しかも今回は、和くんにしてもらった――これが、この上ないご褒美である。しかし、隣に相談者がいる以上、浮かれる心をグッと抑え、「おいしいね」この一言に集約させた。

 こんな光景を、摩怜は頬を桃色に染め、ぽかんと口を開けて呆然と目にする。一方、宇宙は自身のコーヒーパフェを見やり――次の瞬間、顔を上げて正面を見た。

「あ、あの!」

 宇宙の緊張で張った声に、摩怜は肩をびくつかせ、おどおどと正面に顔を向ける。

「あの、えっと、ぽ、ポーキュ、さん……!」

「は、はぃ……っ!」

「こ、この、こーひーぱふぇ、すっごくおいしいので、た、食べてみませんか!」

「…………!」

 摩怜は耳を疑った。

「あ、えっと……、その……」

 宇宙の思いがけぬ言葉を頭が上手く処理してくれず、なにも言えぬまま時間が過ぎる。

「あ、あの、た、たべ――」


「――な、なーんて! 初対面で、これはキモいですよね! あはははは!」


 宇宙は言葉を取り消すように笑い飛ばして、せかせかとコーヒーパフェをかき込む。

 チクリ、と胸に小さな針が刺さったような痛みを、摩怜は感じた。すぐに返事をしなかったせいで、宇宙に恥ずかしい思いをさせてしまった。自責の念に駆られる。今さら「食べてみたい」と言ってもいいのだろうか――いや、さすがに、もう遅いだろうな。焦燥と躊躇いが、ぐしゃぐしゃに混ざり合うせいで、完全に言う機会を見失ってしまう。

 正面の宇宙を見ることができなくなった摩怜は、顔を伏せ、クリームソーダを飲むことに集中。息継ぎもせず、喉が冷たくなっても止めず、クリームソーダを飲み干した。

 拒絶してしまった空間にいるせいか、お腹が痛くなってきて、一刻もはやくこの場から逃げ出したくなる。

「――あ、あの、あたし!」

 摩怜は立ち上がり、鞄を手に取った。

「今日はもう――!」

 ――帰ります、と逃げの言葉を言おうとしたとき、その言葉を遮るように、彼らの席のどこかで着信音が鳴った。

「――あ、すみません、私です」

 いつの間にかコーヒーパフェを食べ終えていた宇宙が、バッグから携帯を取り出し、「すみません」と再度言うと電話に出て、申し訳なさそうに小声で受け答える。

 立っていた摩怜が、気まずそうに席へ座り直した。

 一人美は、宇宙の通話や、摩怜の突飛な行動を気にも留めず、正面に向かって、あーんと口を開けて和を誘う。そんな彼女に対して、和は首を横に振って断ると、彼女が大量に注文したコーヒーわらび餅の残りを、ソフトクリームが溶ける前に食べていく。断られた一人美は、むすっとご機嫌斜めな様子で、ブラインドカーテンの方へそっぽを向いた。

 始めは相槌ばかり打っていた宇宙が、次第に怪訝な表情になり、「大丈夫なの?」とか「ほかに怪我はない?」――仕舞いには、「すぐに帰るから、待ってて」と言い放ち、電話を切った。

 鞄にスマホを仕舞った宇宙は、引け目を滲ませた八の字眉で――。

「あの、部長さん……。お、弟が外で遊んで、ケガしちゃったみたいで……、その……」

「すぐに帰らなくちゃいけないんだね」一人美が、宇宙のほうを向いて言う。

「すみません……。その、いま母がうちに居なくて、私が看ないといけなくて……」

「理由や経緯はなんだっていいよ。そこにある事実がすべてだからね」

「すみません、ありがとうございます……! その、ポーキュさんもごめんなさい!」

「あ、あたしのほう、こそ……。いえ……、大丈夫です……」

 摩怜は答え方に困り、結局、下を向いて安直な言葉を放った。

 宇宙は、摩怜に対して申し訳なさそうにしながらも、鞄から財布を取り出してコーヒーパフェ代の小銭を漁りだす。それを、隣に座る和が止めた。

「僕が立て替えておくから、それよりはやく帰ってあげて」

「え、でも……」

「立て替えるだけ。明日、学校で渡してくれればいいからさ」

「う、うん……! 本当にごめんなさい! ――失礼します!」

 宇宙は顔に焦燥を滲ませ、お辞儀をすると、あっという間に喫茶店を後にした。

 短時間で三人に逆戻り。事実として、宇宙を待っていた時間のほうが長かった。

「あっという間だったね、あの子……」一人美が、少々呆れながら呟く。

「そうですね。でも、家族は大事ですから」

「ふふっ。キミが、それを理由にあの子を庇っても、皮肉にしか聞こえないよ」

「あはは……、すみません……」

 宇宙の帰った席で、なんともいえぬ空気が漂う。

 一人美がコーヒーを一口、隣をちらりと一瞥、ふぅと一息ついた。

 摩怜は、一途に俯いている。和から見ても、居心地悪そうなのが一目で分かった。

 悩みは解決しなかった。しかし、お悩み相談部のふたりに言わせれば、こんなこと日常茶飯事。人間関係の悩みが簡単に解決できるなら、この世界はとっくに素晴らしき平和を迎えている――そのくらい難しいことだと理解していた。また、和や一人美も一人間であるため、落胆する摩怜にどんな言葉をかけようかと悩んでいたのだった。

 そこへ、しんみりとした空気を払拭するように、女性スタッフがやってくる。

「お待たせしました。ココアでございます」

 摩怜のもとに甘い香り漂うココアが、そっと置かれた。

「あの、あたし、頼んでないです……」

「はい。こちら祖父から――、こほん。マスターからのサービスになります」

 女性スタッフが、厨房にいるマスターを手で指した。

 それを聞いた摩怜が厨房を覗くと、白髪と黒髪の交ざる渋い顔の老人――喫茶店のマスターが、そっぽを向いた。

「うちの祖父、内気なくせに恰好つけちゃう、優しいおじいちゃんなんだ」と、一人美が苦笑。続けて「ココアが嫌いじゃないなら、もらってあげてよ」と。

「ありがとう、ございます……」

 厨房に聞こえるか否かの微小の声量で、摩怜は感謝を述べた。そして、熱いカップをつまむように持ち上げ、ふーふー、と冷ました後、一口飲む。

「おいしい……」

 摩怜から発せられた声は、今にも泣いてしまいそうなほど震えていた。

「独身さん――おっと、失礼。お迷惑客さま」

 と、その場に残っているスタッフが、挑発的に一人美へ声をかけた。

 一人美は、無反応かつ女性スタッフと顔を合わせることなく、彼女の言葉に耳を傾ける。

「祖父が――、こほん。マスターがお呼びです」

「……おじいちゃんが――、うっうん。マスターがなに用かな?」

「お迷惑客さまが、ふざけてご注文されたお代分のお皿洗いを頼んだぞ、とのことです」

「…………」

「本来なら、およそ三時間分のご注文でしたが、一時間におまけしてあげると。なので、さっそく厨房へ向かい、一時間みっちり働いてきてください。――失礼します」

 表情の希薄な女性スタッフが、お辞儀して厨房のほうへ戻っていった。

「親川くん」

 一人美が立ち上がり、和に声をかける。

「私は少々調子に乗りすぎたようなので、アルバイトで反省してくるよ。そういうことだから、荒山さんを帰して、キミも先に帰っておくれ。では、また後で……。

 ――はぁ、やりすぎちった……」

 一人美が肩を落として、厨房のほうへ向かっていった。

「…………」

「…………」

 四人席で、二人きりになる。時間経過で喋りづらくなる前に、和は一早く声をかける。

「さっきの店員さん、ひとみ先輩のお姉さんなんですよ」

「そう、なんですね……。たしかに、お顔とか雰囲気、すごく似ている気がします……」

 摩怜が目線を落としたまま、和を見ずに答える。和は、その姿が居た堪れなくなって。

「荒山さん、すみませんでした。僕が出風さんとしゃべりすぎたせいで……」

「――そんなことないです!」

 摩怜が、ばっと顔を上げる。

「せっかくお悩み相談部のふたりが、こんな機会を設けてくれて、出風さんは寝坊しても来てくれたのに……、なのに……、あたしこそ……、ごめんなさい……」

 しかし、すぐに俯いて後悔を滲ませた。

「謝らないでください。荒山さんは、十分すごかったです」

 後輩の和に気を遣われているように感じて、摩怜は情けなくなった。せっかくの機会を無駄にして逃げ出そうとした自分が、すごいわけがない。

「そんなことないです……」

「いえ、すごいですよ。緊張とか、プレッシャーとかあったはずなのに、僕らよりも早く喫茶店に来て、待っていてくれたじゃないですか。荒山さんは、十分すごかったんです」

「そんなの……、すごいうちに入らないです……。みんなができて当たり前の普通のことを……、あたしができないだけで……、全然すごくないです……」

 摩怜は、ココアの入ったカップを両手で握り締める。

「もし、親川君の言うように、今日のあたしが十分すごかったとしても、それなら本当は、十二分にすごくないといけなかったんです……。でも、あたしは、できなかった……」

「たしかに、十二分にすごいことをするのが、最善だったと思います」

 和の迷いのない正直な発言に、やっぱり……、と、摩怜は心が苦しくなる。しかし――。

 ――だけどです。と、和は逆接に変な敬語を付けて、続きを言う。

「今日、十分にすごかった分、次回は二分にぶんだけすごければいいわけですから、今日の荒山さんは、とってもすごいことをしたんです!」

「…………」

 彼の言葉に、重かった摩怜の顔が上がった。

「――なんて屁理屈、お嫌いですか? あはは……」

 彼が、恥ずかしそうに、ぎこちなく笑う姿が映った。

 摩怜は、無意識のうちに首を横に振る。

(ううん。ありがとう)

 ――そう言いたかったけど、いま口を開けてしまったら、彼からもらった勇気が逃げちゃいそうで、冷まさずのココアとともに、ごくりと飲み込んだ。

 熱かった。胸の辺りが熱かった。火傷するほど熱くなった。――でも、今だけは彼にもらい過ぎた勇気の熱を冷ましたくなくて、水も飲まず耐えることにした。

「すごい、です……。親川君としっかり話すの、初めてなのに、あたし緊張しないです」

「あはは……」和は、気まずそうに笑って、「それ、僕の体質だと思います……」

「体質……? あ……、もしかして、渡り廊下から飛び降りたことと、関係してますか?」

「あはは、そうですね、はい。

 …………。

 ――――うん?」

 一瞬、和の思考が停止する。

 刹那――。

「――ど、どうしてそれを!?」

 和が、胡散臭くなるほど身振り手振りを使って、驚く。

 ふふっ、と、摩怜の口から、自然と穏やかな声が漏れた。

「春休みが始まったころ、ですよね……。夕方に、渡り廊下から飛び降りる男子生徒の影を見たって、生徒会執行部に所属しているクラスメイトが言っていたのを、耳にして……。その日の夕方は、生徒会執行部と相談部だけが学校に残っていたらしくて、親川君かなって、つい……」

「あー、完全に油断していました……。強風が吹いて文書が飛ばされちゃって……、それで身体が反射的に動いて……。あの、できれば他言無用でお願いします……」

「あ、安心してください。誰かに話すなんてしないです。――あ、それと……」

 やはり和の体質のおかげなのか。摩怜は、生まれつき頑固に染みつく人見知りを克服したわけでもないくせに、和にだけは自ら話題を持ち出すくらい、言葉が口から溢れ出る。

「あの、部活動の掲示板に貼られていた、お悩み相談部の部員募集のポスター見たんですけど……。い、今も、新入部員さんって、探してるんですか……?」

「はい、そうなんです。規定人数にあと一人、足りなくて……」

 生徒会長に「新学期開始から二週間以内に部員があとひとり入部しなければ、廃部決定」と、とんでもない条件を課せられ、急遽、例の部活紹介の文書の上に、『部員募集中!』と、太字の油性ペンで部長が殴り書きしたA4紙を貼りつけた。和は、それを端的に説明する。

「そ、そんなことが、あったんですね……」

 摩怜が苦笑を見せて、ココアを眺め、しばらく黙り込んだ。

 その後、

「あ、あの……!」と意を決したように、ばっと顔を上げた――が、すぐに俯いてしまう。

 けれど――!


「も、もし……! もしよかったら……、――もし悩みが解決したら……! あ、あたしを、お悩み相談部に入れてくれませんか――!」


「……っ! むごっ――!」

 予期せぬ言葉に、和はコーヒーわらび餅をのどに詰まらせた。

「あ、あぁっ! すすすみませぇええん! お水お水! お水がありませぇん! どどどどうしましょう!? ――あ、あのぉっ! よよよよかったら、あたしのココアをぉ!」

 摩怜は、慌てて飲みかけのココアを和に渡した。和も、余計なことは考えずに受け取り、熱いココアを一気に流し込む――と、当然、今度は胸をかきむしって暴れだす。コーヒーわらび餅に付いているソフトクリームを大量にすくって、大口を開けて詰め込んだ。

「はぁはぁ、すみません……。ご迷惑おかけしました。もう、大丈夫です……」

「ごめんね! 熱かったよね!? ――あ……」つい勢いで口調が変わっていることに気づく。「ご、ごめんなさい……」

「いえいえ。熱いココアのおかげで、のどに詰まったわらび餅が柔らかくなって、つるんと滑ってくれました。ココア、すっごく助かりました。ありがとうございました」

「いや、それは、お水でも同じじゃ……」和の不思議な言い分に反論しようとしたけど、和が無事であるという安堵が勝った。「ううん。親川君が無事でよかった……です……」

「荒山さん、ため口で大丈夫ですよ。僕、後輩ですし」

「あ、はい……あっ、う、うん……。……ありがと」

 なんだかこそばゆくなり、摩怜は体を動かし、座り直すフリをする。

「それで、どうしてお悩み相談部に入部してくれるなんて……」

「いや、ダメならいいん、だけどね……。その、えっと……」

 次の言葉に詰まる、というより照れ臭くて言い淀む。

 しかし、意を決し、和を見て――。

「親川君や九尾さんといたら、あたし、変われそうだなって……!」と思いを告げたのも束の間、「――な、なんて理由、気持ち悪いよね……! きゅ、急に変なこと言っちゃって、ごめんなさい……!」

「えっとぉ……」

 和が、どうやって答えようか迷っている合間に、摩怜は落ち着きを取り戻す。

「その、あたし……、小さい頃から人と関わるのが苦手で、人見知りで、お友達が全然いなくて……、そんな自分が大嫌いで……。だ、だから……、ちょっとでも自分を表現できるように頑張ろうって思って、SNSを始めて……、それで自分らしさが何か見つかればいいなって……、……だけど、やっぱり怖くてなって、逃げ出しちゃって……」

 ……いまに至る。再び摩怜は俯いた。改めて自分の情けなさを思い知り、自責の念が襲う。


「――摩怜さん!」


 自分の名前を呼ぶ、彼の声がした。

 摩怜が顔を上げ、彼のほうを振り向くと、そこには目を輝かせた彼が。

「やっぱりすごいです、摩怜さんは! 十二分――いや、二十分にじゅうぶんにすごかったんです!」

「…………!」

「僕なんて変わりたいって思っても無理だって諦めちゃって、ひとみ先輩が手を取ってくれるまで動くことすらできませんでした……。――でも! 摩怜さんは自分から変わろうとして、それで失敗しちゃったかもしれないけど、それでも摩怜さんは諦めてないんです!」

 和は、摩怜の手を取り――、


「僕、そういう人、大々的に大好きです!」


 と迷惑も甚だしく、叫ぶように気持ちを伝えた。

「え……? へっ……? ――ふぇぇ~~!?」

 一方の摩怜は、褒められすぎて、……あと、告白されて? 思考回路がショートしてしまう。

 大好きなんて言葉、家族以外に言われたことないから、なんだか……。

 なんだか、よく分かんない……!

 ――と、ふたりの前に、店員がやってきた。

「こぉーら、お客様。お静かに」

 こつん、と円形のお盆が和の頭に乗る。

 お盆を乗せたのは、黒を基調としたパンツタイプの、喫茶店の制服を着用した一人美。

「店内ではしゃぐ子は、めっ、だぞぉー。まったく……」

 はぁ、と、一人美が溜息を吐き、呆れた微笑で摩怜を見た。

「ごめんね、荒山さん。親川くんは、誰にでも好き好き言っちゃう時期なんだ」

「そう、なんですね……」摩怜は、微かに肩を落とす。

「――というか荒山さん、きみもだぞぉー。少しはマナーというやつを考えてくれよ。うちの部員になるなら尚更さ。悪いけど、私は部員に厳しいタイプなんだ」

「え……?」

「『え……?』じゃあないよ。入部してくれるんだったら、はやく自分の悩みを解決して、入部届を出してくれないと、期限はもう一週間もないんだぜ。期待しているよ」

 ふっ、と微笑む一人美。裏の姿を知る和でさえ、いまの彼女はかっこよく映った。

「九尾さん、あ、あたし頑張ります……!」

「うむ、ぜひ頑張ってくれたまえ。それと三年間クラスメイトなんだしさ、ひとみでいいよ」

「え、あ、ひゃい! ひ、ひとみんっ――はむっ! ごめん、なさい。ひとみさん……」

「うん、ひとみんも悪くないね」

 一人美が、目を細めた。

 一時は――宇宙が去った直後はどうなるかと思われたが、次こそ絶対に悩みを解決できそうだ。お盆の下からふたりを眺める和には、そんな確信があった。

 すると、喫茶店の女性スタッフ――一人美の姉が、再び現れる。

「失礼します。お客様。それと、なぐた――こほん。親川くんと悪態従業員」

 表情の乏しい一人美の姉が、一人美だけに冷たい視線を送る。

「……なんだよ」一人美が、むすっと不満げな顔で言う。

「他のお客様のご迷惑になりますので、ご配慮お願い致します。それと、悪態従業員……あなたには、空きテーブルの食器を回収してくるよう指示しただけですが……」

「わかってますよ。親川くんが勘違い誑しだから注意しただけでしょ。いま行くよ」

 大儀そうに、一人美は空きテーブルの片付けに向かった。

「それと、なぐたん――おっと、親川くん。マスターが、お料理を手伝ってほしいとのことです。手伝ってくれたら、ぼくからの、ほっぺにちゅう、を差し上げますよ」

「えっと……、ほっぺにちゅうは要らないので、マスターのお手伝いしますね」

「いつもありがとうございます。制服はいつもの場所に置いてますので、着替えたら厨房へお願いします。感謝のお礼に、みみはむはむ、を後ほど差し上げますね」

「あ、それも大丈夫です……」

 ――では。と、和の断りも聞かずに、女性スタッフは一礼して去った。

「あの、すみません……。あたし、調子に乗りすぎちゃったみたいです……」

 しょんぼり肩を落として、摩怜が謝る。いつの間にか敬語に戻っていた。

「気にしないでください、いつもこんな感じですから。それにお手伝いするのは、喫茶店のスペースを長時間使わせてもらっている、お礼みたいなものなので」

「じゃ、じゃあ、あたしも……、お手伝い、させてください……!」

「いえいえ! 相談者にそんなことをさせたら、部長に怒られちゃいます」

「で、でも、親川君が注意されたのは、あたしのせいでもあるし……」

「んー、じゃあ部員になったとき、改めてお手伝いをお願いしますね。……まぁ、僕の一声では決まらないと思いますけど……、そのときはよろしくお願いします」

「う、うん……! あの、ありがとう、親川君……!」

 摩怜が立ち上がり、お辞儀して、店内に響くほどの声量で感謝を述べる。

「はい!」と、和が摩怜に負けじと声高に返事をすると、遠くの席から、しーっ! と人差し指を口に当てる、険しい表情の一人美が映った。その様子に「やってしまった!」なんて表情をシンクロさせる和と摩怜。妙に可笑しくって、恥ずかしくって、目を細ませあった。

 それから、摩怜を喫茶店の出入り口前までお見送り、お別れした。

 お見送り後、和は喫茶店の制服に着替えるため、マスターと一人美の姉の住居になっている喫茶店二階の洗面所へ向かった。すると洗面所には、ふたりの従業員が――一人はスマートフォンを、もう一人はチェキカメラを持って、お出迎え。制服姿の和と交代で一枚ずつの撮影会。その過程を踏んで、和はマスターのお手伝い――主に調理を二時間ほど手伝った。




 二時間後、ふたりが喫茶店を出る頃には、暖色の空気、夕方って感じの橙の空だった。

 和と一人美は隣りあい、のんびり歩いて帰路に着く。

「んーっ! けっきょく、こうだよぉー。いつもごめんね、和くん」

「いえ、お手伝いは楽しいですし、僕は好きなので謝らないでください。それに、喫茶店に行けば、二色にしきさんに会えますし」

「うん――? もしや、和くん……」

 一人美は顔を上げ、和に不穏な顔を向ける。

「キミは、ボクとあいつをはべらして姉妹丼でもするつもりかい?

 ――この破廉恥ぃ!」

「……そんなことしないです。たまに会わないと、――そわそわするだけですから!」

 和は、きっぱり(?)と否定した。

「……い、いやぁ、その言い方なんだかなぁ……。そんなにあいつと会いたいならさ、連絡先くらい交換すればいいじゃん。さすがのボクも、それにとやかく言うつもりはないよ」

「はい。もう交換してますよ」

「は――?」一人美は、耳を疑った。

「起床のときと学校終わり、就寝前に毎日連絡をくれるので、それにお返事をする程度ですけど。……あ、でも、たまに夜更けまで、お話が続いちゃうこともありますね」

「……は? なにそれ、知らないんだけど。寝ているボクの隣でそんなことしていたの?」

「それは語弊があります。隣の部屋で寝ている、です。なので、知らなくて当然です」

「はぁ? いや、そーいうことじゃねーし。――え……、うそでしょ……」

 しばらく神妙な面持ちで歩く一人美。なにかを考え込んでいるようだった。

「よし。和くん!」

「なんですか?」

「今日さ!」

「はい」

「今日ね?」

「はい」

「今日一日、いっろぉーんなことで嫉妬させられたから一緒に寝ようね!」

 狼狽える彼の姿が見られるかもしれない――一人美は、その光景を想像しながら、和に無茶振りを当てつけた。が、しかし。

「いいですけど、僕は床で寝ますよ?」

 同棲を始めて一年が経つ。一緒の部屋で寝るだけなら、さすがに狼狽えないらしい。

「えぇー、なに言ってんのさー。ベッドで抱きあうに決まってんじゅわーん!」

「それですよ」

 和が顔を下げて、一人美の顔を見た。

「前回、ひとみ先輩に誘われて、ふたりでベッドに寝たとき、散々だったじゃないですか」

「…………」

「なので、僕はお布団を持ってきて床で寝ます」和は断固として譲らなかった。

 一人美は、黙って回想する。

 去年の出来事。シングルベッドで、「ぎゅっとして」と和に頼むと、断りもせずに包み込んでくれた。しかも、腕枕までしてくれた。一人美は全身を和に包まれ、息をしようとすると、どうしても彼の胸辺りに当たってしまい、さらに彼の温もりと彼の匂いが、一人美を寝かしてくれなかった。その結果、一人美は寝不足、和は腕を痛めてしまったのだった。

 回想、終了。

 あの日のことを思い出し、一人美は急に恥ずかしくなった。

「――い、いやぁ~、あのときは和くんが寝惚けて、ボクを抱いてきたんじゃぁーん……」

 調子に乗っていた自分が恥ずかしくなって、一人美は嘘をついて言い訳する。

「あれ、そうでしたっけ……?」和は素っ頓狂な顔をするが、すぐに笑みを見せ――。「それなら、尚更やめておいたほうがいいですね」

「え……」

「僕のせいで、ひとみ先輩が寝不足になるなんて、たとえひとみ先輩が許してくれても、僕自身が許せません。ということで、お断りさせていただきます」

 あのときは、すみませんでした――。再度、和は謝罪した。

「いや、いいんだけどね……? 今日も一緒に寝てもいいんだけどね……」

「いえ、大丈夫です。ひとみ先輩の健康が第一ですから」

「……あ、そう……。ありがとね、ボクのことを想ってくれて……」

 一人美は、複雑な気持ちを抱く。否、嘘をついたことへの後悔が大きかった。

「そ、そういえば和くんや……。喫茶店で出風さんと楽しく話していたとき、出風さんの作る卵焼きが一番おいしい、とかなんとか聴こえたんだけど……、あれどういうこと?」

 一人美は、一緒に寝られなくなった代わりに(自業自得だが)、喫茶店での嫉妬を、和へ吐きだすことに。性格が悪いと思われようとも、真実を聞き出すほうが大事であった。

 和は、罪悪感も、悪気もなく正直に言う。

「一昨日の昼食、出風さんがお弁当を作ってきてくれたんです」

「――――!?」

 この事実には、アッチョンブリケを唱えるしかない。

「はぁあああっ!? ま、まさか和くん、付き合っちゃったりしてるわけ!?」

 その衝撃に狼狽える一人美。

「そんなのじゃないです。たぶんですけど、相談するための口実だと思います」

 和が交際を否定し、ほっとした反面、一人美は、その後の彼の言葉が腑に落ちなかった。

「――いや、それは違うんじゃないかな、和くん」

「でも、ひとみ先輩も言ってましたよね。良いように使われてるみたいって」

 和の言葉を聞いて、一人美はしょうもない怒りを覚える。

「和くん。一昨日のボクは、出風さんが放課後に用事があるから、都合よく和くんを昼休みに誘ったんだと思っていたけれど、真実を知った今、一昨日の言葉を撤回するよ」

 一人美は和の前に立ち、足を止める。和の頬を両手で包んで。

「和くん。たとえ、その人にどんな意図があったとしても、もらったものに口実をこじつけちゃダメ。和くんのことだから、感謝はしたんだろうけど――いや、感謝とお礼だけでいいんだ。頑張って作ってくれたものに、裏があるなんて考えちゃダメだよ」

 人の気持ちを蔑ろにする奴にはなってほしくない。一人美の心からの想いだった。

「しゅみましぇん、でぃした……」

 少し落ち込んだように、和が謝る。

「わかったなら、よし!」

 と、和の頬から手を離し、彼の左手を引っ張る一人美。

「ショッピングモールへ行こう。食料と弁当箱の調達だ! それと今すぐ、出風さんに『明日のお昼は持ってこなくていい』と連絡するんだ。明日は、和くんがお弁当を作ってあげなよ」

 ついでにボクの分もねっ! と、一人美が無邪気に笑った。

「――あぁ、そうそう。たまごは二パック買おうね。ボクお手製の卵焼きを和くんに食べさせて、寝取られた和くんを取り返してやるんだからなぁー!」

 一人美が拳を上げて、意気込みを叫んだ。

 そんな一人美に引っ張られる和は、彼女がいてくれてよかったと改めて思う。


「ありがとうございます、ひとみ先輩」


 ふたりは、ショッピングモールへ足を運んだ。

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