一章 - 1
一章 布に覆われ➀
進級して五日目の昼休み。
「――ねぇ、聞いてる、親川くん?」
目の前に座る黒髪ロングの女子生徒が、箸先を口にくわえて首を傾げる。
「……あぁ、ごめん。聞いてなかったかも」
和は遅れて返事をすると、目を伏せ、パステルカラーのお弁当箱を覗く。卵焼きに、たこさんウィンナー、ミートボールにミニトマト、ご飯は三色そぼろ丼。普段のお昼ご飯では決して食べないものばかり。卵焼きをひとつ食べる。自分で作るよりも甘くて美味しい。
「卵焼き、すごくおいしい……」
「えっ! ほんと!? よかったぁ……」
女子生徒は、胸を撫で下ろし、ほぉっと安堵。
「卵焼きってさ、お家によって味付けが全然違うでしょ? だから親川くんの口に合うか、ドキドキだったんだよねー」
頬を赤らめながら、自身の弁当箱に入った卵焼きを口に放り込んだ。
ふふ~ん、と満足げに咀嚼する女子生徒の愛らしさに、和は気恥ずかしさと気まずさを同時に抱き、またもや目線を落とす。
それにしても、現状に違和感しか抱かない。
二年生に上がって、初めてクラスメイトになった女子生徒、
違和感はまだ他にも。和のほうにあるお弁当箱と、宇宙のお弁当箱――というより、果物を入れる小さなサイズのデザートケース、その少ない容量に、ちょびっとだけ入った具材。まるで本来、宇宙のお弁当だったはずのものを、
「ねぇ、このお弁当って、本当に僕がもらってよかったの?」
和は、顔を上げて宇宙に訊ねる。
「もちろん! これは、去年の文化祭準備のときのお礼と――、」
ここまで言うと、宇宙が腰を上げ、二つの机を挟んで和のほうへ体を寄せると、他の生徒から見えぬよう、内緒話をするように左手を口元に寄せて、
「ほら、春休みのあれのお詫びも兼ねてだよ……」
和にしか聞き取れぬ声で、こそそっと囁き、ぎこちなく口角を上げた。
「でも、あれは僕も悪いし……」
「ホントだよー。あんなガン見されるなんて思ってなかったもん」
宇宙が椅子に座り直して、ジトーとした目つきで不満げに、あの日の出来事を掘り返す。しかし、すぐに笑みを見せて、
「でも、あれは不可抗力でもあったし。だから、去年の文化祭準備のお礼も兼ねて、私と昼休みを過ごしてくれれば、それでチャラ! ……そのぉー、私がビンタしちゃったことも、チャラにしてもらえると嬉しいな……、えへへ……」
と、照れ笑いを見せた。
「……うん、それじゃ……。ありがとう」
「うん! たんとめしあがれ! ――って、言いたいところだけどぉー……」
かわいらしい表情から一変、宇宙が不機嫌な顔つきになり、
「親川くんさー、さっきの話、全然聞いてなかったでしょー」
と、さっきの話を聞いていたのか、その有無を問うてきた。
和は、宇宙のさっきの話というものがピンとこない。ただひとつ心当たりがあるとするならば、『黒髪ロングの子と一緒に昼食をとっている』その事実に混乱し、彼女に見惚れていた合間にされた話なのかも……。それでもひとまず、「ごめん」と呟く。
「もぉー、ちゃんと聞いてよねー。
――あ、もしかして、私に見惚れちゃった、とか? ――なーんて……、」
「……い、いやぁ、あはは……」
「…………」
「……そ、そのぉ、えっと……、」
「……お、親川くん……?」
和は、宇宙にずばりと言い当てられ、目を見開き、慌てるあまり挙動不審に。誤魔化したり、嘘をついたりすることが苦手な彼は、余計な言い訳はせず謝ることにした。
「……ほ、ほら、出風さん、すごく綺麗だから……。――その、ごめんなさい」
「えっ――。えぇーっと……。
へ――っ?
――いやっ、いやいやいやいや……っ!」
宇宙は、ぶんぶんと首を横に振って否定するものの、綺麗だと言われて悪い気がしないのもまた事実。いや、むしろ――。
「……あぁー、――うん……。べ、べつにぃー? い、いいけどぉ……?」
宇宙の、どっちつかずの微妙で曖昧な反応。
和は、彼女を見過ぎないようにしよう、と不要な気を遣い、顔を伏せていたがために見損ねたが、このときの宇宙の顔といえば、湯気が見えそうなほど真っ赤っかに熱っていた。それはもう、春休みのあのとき以上に。否定が返ってくるのを前提に冗談で言ったつもりが、まさか潔い肯定が返ってくるとは思わず、宇宙もまた、彼をまともに見られなくなる。
気まずさと気恥ずかしさを誤魔化そうと、お弁当をぱくぱくと食べ進める宇宙。それを見た和もつられて、味わいながらも半ば急いで食べ進めることにした。
無言の時間が流れに流れ、ふたりはお弁当を食べ終える。すると、「弁当箱を洗って返す」と言う和と、「そんなの気にしなくていいよ」と言う宇宙の、両者一向に退かぬ応酬があり、最終的に「明日のお弁当が持ってこられないから」という理由で、宇宙は弁当箱を返してもらって、保冷バッグに仕舞いこんだ。この段階を踏んで、ようやくさっきの話へ移行する。
「ふぅ……。そ、それじゃあ! お悩み相談部の、親川くんに相談なんだけど!」
宇宙が、今までの気まずい空気を払拭するべく、はきはきと主旨を述べる。
「うん」と、和もまた被相談者として意識を改め、姿勢を正す。
「えっとね、つい先日のことなんだけど――」
この言葉を皮切りに、相談者・
ことの発端は、およそ半年前に遡る。とあるSNSにて、宇宙は共通の趣味を持つ人物と知り合った。相手のアカウント名は、『ポーキュの
そして、春休みの中頃――約束の日。集合時間の一〇分前に待ち合わせ場所へ到着したという宇宙。けれど、相手は集合時間が過ぎても現れず。それから四十分後、ポーキュの木公子さんから『ごめんなさい 急用で行けなくなりました』と、メッセージが届いた。宇宙は、『了解しました! また誘ってくださいね!』と返したが――。
「――あの日以来、気まずくって、連絡取れてないんだよね……」
宇宙は、相手がこの高校の三年生で、女子生徒であることしか分かっておらず、顔は知らないし、本名さえも知らぬまま。また、連絡をする勇気は出ず、相手を突き止める術もない。
ただひとつ、お悩み相談部に相談することを除いては――。
「――あのね、親川くん。その、なんだけど……。えぇっと……、この学校にいるポーキュの木公子さんを見つけて、次こそ会って、ちゃんとお話ししたいの……。
だ、だからね! それを手伝ってほしいなって!」
宇宙の力強い瞬きと、真剣な眼差し。和の視界が捉えたそれは、一瞬で心にまで達して、心の隙に突き刺さる。やがて、心を奪われ、二つ返事で相談に応じようと、そんな想いが芽生えた。――が、思い留まる。お悩み相談部としての責務を忘れたわけではなかった。
「先に伝えておくとね、僕たちお悩み相談部のやることって悩んでいる人を助けるんじゃなくて、悩んでいる人の勇気を引き出すことなんだ。だから……、えっと、出風さんの期待に副う行動とは違うかもしれないけど、それでもいいかな?」
個人的には、宇宙の代わりにポーキュの木公子の正体を突き止めて、ふたりがお話できるよう、その機会を手配したい。だが、お悩み相談部として行動する限り、あくまで勇気を引き出させることまで。誰かに頼るばかりでなく、相談者自ら悩みを解決してもらう。これが、お悩み相談部の存在する意義である――部長のモットーだった。
「うん、もちろん! 聞いてくれただけで嬉しいもん」
宇宙が、柔和にほころぶ。が、すぐにぎこちなく微笑み、
「親川くんの優しさは、一年経っても健在なんだね」
と。
一年前の出来事を懐古する宇宙が映り、和は反応に困った。あの日のことは、良くも悪くも思い出だったから。なんと返そうか迷った末に、ひとまずこちらも、ぎこちなく口角を上げてみる。この返しが正解だったかは分からない。
「あ、そうだ」と和は、話を進める。「今日の放課後だけど、お悩み相談部の部室に来てもらえるかな? いつもは、部長が相談者の話を聞いて勇気を引き出してくれるから、部長にも直接話したほうがいいと思って。もし用事があるなら、そっちを優先してくれていいんだけど」
宇宙が返事をするまで、少しの間があった。
「そのぉ……、えっと……。――ごめん!」
宇宙は、パチンと音を鳴らすほど力強く両手を合わす。
「放課後は、やることがあるから……」
「あー、そっか。」和は、心がぎゅっと痛くなる。「えっと、それじゃ部長には僕から話しておくから……、……もしかしたら連絡することがあるかもだからさ、連絡先の交換って大丈夫かな?」
「えっ……、うんうん! もちろんだよ!」
宇宙は携帯電話を取り出して、さっそく和に連絡先を教えた。
その後、連絡先の交換を終えたタイミングで、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「それじゃ、席に戻るね」と、宇宙が立ち上がる。「親川くん、ありがとう」そう言って、自分の席へ戻ろうとする宇宙だったが、言い忘れていたことを思い出したように、和のほうを振り返り、なにか言いたげに神妙な顔を見せた。
「どうかした?」
「あの、本当は――」
宇宙が、ぎゅっと右手の腕時計を握り締め、口を開いて、何かを言いかけた――そのとき、次の授業の地理の教師がやってきた。
「はやく席に着けー」と、着席を急かす教師。
「――ううん! なんでもない! ホントにありがと!」
ニコッと笑い、宇宙は席へ戻っていった。
「…………」
去り際、一瞬だったけれど、宇宙が下唇を噛んでいたのを、和は見逃さなかった。
授業終わりの休み時間に、彼女の言いかけたことを訊ねてみたが、「忘れちゃった!」とすっとぼけられ、「きっと、大したことじゃないよ」と言われる始末。詮索のしすぎは嫌われるかな、と思った和は、「もし思い出したら、遠慮せず教えてね」と無理な問いかけはしなかった。
あっという間に放課後を迎え、和が帰りの支度をしていると、颯爽と教室をあとにする宇宙の姿を見つけた。和は、そんな宇宙に代わって、いち早く部長に彼女の相談内容を伝えるため、帰りの支度を素早く済ませると、足早に別館校舎のお悩み相談部の部室へ向かった。
階段を上り、渡り廊下を渡り終え、部室が近づくと、お悩み相談部の部室にふたりの気配を感じとる。もしかして――、和は心構えをして、早足で廊下を進む。
部室の前に立つと、中からふたつの女声が聞こえた。ひとつは部長――
和は身構え、ノックを三回、「親川和です」と呼びかける。間もなく「入っておいで!」と一人美の溌剌な声で入室を許可されて、失礼します、と遠慮がちに扉を開けた。
扉を開けて目にしたのは、応接用のローテーブルに向かい合わせで置かれたふたつのロングソファ、そこに対面越しで座るふたりの女子生徒だった。片側のソファには、部長の
相談者で間違いない、和は杞憂によって生じた緊張を解く。
「お疲れさまだね、親川くん。来てさっそく申し訳ないけど、相談を受ける準備はできているから、はやくこっちにおいで。相談者を待たせては悪いからね」
一人美が、部室の空きスペースに荷物を置く和へ声をかけた。
応接用テーブルには、湯気の立つコーヒーカップが三つと、近所のスーパーで購入したお徳用パックのお菓子が盛られたボウル皿。それに、相談内容をメモする白紙が挟まれたクリップボード。通常、これらの準備は、後輩である和の役目だが、先に部室へ到着していた一人美がやってくれたらしい。
「ありがとうございます」と和はお礼して、一人美の隣に半人分のスペースを空けて座った。
「お待たせ、
一人美が、手で和を指し、対面の女子生徒に紹介する。
「お待たせしてしまい、すみません。親川和です、よろしくお願いします」
和が女子生徒に一礼すると、一人美が、今度は目の前に座る女子生徒の紹介をする。
「そしてこちら、本日の相談者、
「よ、よろしく、お願い、します……」
摩怜は、やけに畏まった様相で和に会釈。
「ちなみに、荒山さんと私はクラスメイトで、相談は昼休みに受けたんだ。親川くんへ報告せずに悪かったね。急だったもので」
「いえ、僕も気を利かせて、もっと早く来ればよかったです」
和は、それとないことを返してみる。が、実のところ、自分が部室へ来る前に相談者がいた現状に、すこし驚きがあった。普段は暇を持て余しているものだから。
和がテーブルにあるクリップボードを持つと、相談者・
「では、荒山さん。きみの悩みを教えてくれるかい」
「はい、えっと……。とっ、ともだち関係のことで……、悩んでいまして……。その…………」
無関係な第三者に悩みを伝える――そんな経験、摩怜にとって初めてのことで、緊張で上手く言葉が出てこない。悩みを聞いてくれる一人美を見ようにも、なかなか顔を上げられず。目線の位置も定まらず、俗にいう目が泳いでいる状態だった。
「――荒山さん」
自分を呼ぶ声がした。摩怜が、その声に反射して顔を上げると、柔らかな笑みを見せる和が映った。彼が、優しい声で言う。ゆっくりで大丈夫ですよ、と。下級生の彼の言葉に、こそばゆい安心感を得た摩怜は、強張っていた身体から強引に緊張感を解いた。
改めて一人美のほうへ顔を向け、口を開いた。
「は、半年前くらいに、SNSで同じ趣味を持った子と知り合って……。そ、それで、しばらくやり取りするうちに、同じ高校の、女の子だって分かったから……、その、ゆ、勇気を出して……、『今度、一緒にイベントへ行きませんか?』って……、誘ってみたんですけど――――」
「…………」
摩怜の話をメモしていた和は、走らせていたペンを止めた。聞き覚えのある内容――というか、昼休みに宇宙から聞いた話とそっくりだった。断言するには早いが、おそらく宇宙がSNSで知り合った『ポーキュの木公子』というのが、ここにいる荒山摩怜なのだろう。奇遇にも、宇宙の悩みも同時に解決できそうで、和は安堵する。
すぐにでも、摩怜が『ポーキュの木公子』なのかどうかを確かめたいところだが、いまは相談者として訪れた摩怜の悩みを聞くターンであるため、ここで不躾に口を挟むのはよくない。和は、止めていたペンを再び走らせ、摩怜の話をメモすることに徹した。
「それで当日になって、集合場所の駅前に行ったんですけど……、その……」
摩怜は、言葉に詰まり、耐えられなくなって顔を伏せ――、
「あ、あたし……、その子と会うのが怖くなって……、逃げちゃったんです……!」
今にも泣き出しそうな震えた声で、心の中に溜まっていた罪悪感を吐きだした。
摩怜が待ち合わせ場所の近辺へ訪れたのは、集合時間の十五分前だったらしい。待ち合わせ場所の近辺に着いたときには既に、会う約束をしたと思われる人物を見つけたが、モデルのような雰囲気に、肌を大胆に開けさせたヤンチャそうな服装――肩出しトップスに、細身の太ももが剥き出しになったデニムのショートパンツ――、それと目深に被ったストリートロックなつば付きキャップ、そんな彼女と、冴えず地味な見た目の自分では不釣り合いだ――と身勝手なコンプレックスに苛まれ、家を出る前からあった不安が募りに募って、怖くなって、待ち合わせ場所へ足を踏みだせなくなってしまった。
恐怖や不安を十二分に克服できないまま、二十分以上が経過。スマホを見ながら、辺りをきょろきょろ見渡す約束の相手に申し訳なさを感じながらも、逆にその申し訳なさが、更なる逃げ腰の思考を募らせ、後退り。――と、今更、摩怜はスマホを家に忘れてきたことに気づいて、愚かしくもそれを言い訳に、一旦帰宅することに。
逃げ足は速いかな。摩怜が帰宅すると、案の定、玄関の靴箱の上にスマホを発見。スマホの画面を覗くと一件の通知が入っており、SNSのアプリを開いて確認してみる。相手から来たのは、『すみませんが、今日は無しにしませんか?』というメッセージのみ。集合時間が過ぎても連絡すら入れない非常識さを怒ったのだろう、と更なる不安に苛まれた摩怜は、急いで待ち合わせ場所へ戻った。あまりの焦燥から、返信するなんて考えは浮かばず、ただただ走った。
そんな摩怜の行動に反し、待ち合わせの場所に約束した彼女の姿はなかった。
摩怜は、怖くなって、どうしようもなくなって、『ごめんなさい 急用で行けなくなりました』と人として最低なこと、自己愛による愚行――身勝手に嘘を吐いてしまった。
それから数日が経った今でも、その子に連絡できずにいるという。
「最低ですよね……、――ごめんなさい……っ」
摩怜は、説明するうちに罪悪感が込み上げて、ぽろぽろと涙が止まらなくなっていた。
「私たちに謝っても仕方ないよ。でも、荒山さんの気持ちは十分に伝わったよ」
どうぞ使って、と一人美が、テーブルの隅にある箱ティッシュを摩怜に差しだした。
ティッシュペーパーを取って涙を拭う摩怜に、一人美が続けて言う。
「それで、荒山さんの相談というのは、SNSで知り合ったその子と今後どうしたらいいのか……、――あわよくば、解決案を一緒に模索してほしい、ということだね」
こくん、と摩怜が首肯する。
「そうだなぁ……」
一人美が天井を仰ぎ、うーんと熟考する。その間に、摩怜の言った内容をメモし終えた和は、彼女に声をかける。
「荒山さん。間違っていたらすみませんが、荒山さんのSNSのアカウント名って……」
宇宙に教えてもらった、摩怜のそれと思われるアカウント名を用紙に書き出して、彼女に見せる。
「ポーキュの木公子さん、じゃないですか?」
「えっ……。は、はい……」摩怜が赤い目を見開いた。「でも、どうして……」
「実は、僕も昼休みにクラスメイトから相談を受けたんです。そのときの内容が、荒山さんの話してくれた内容にそっくりだったので」
「そっか……」
摩怜は曖昧な返事をして、視線を落とした。
「おぉ、お見事だね、親川くん」
一人美が、和の頭をよしよし撫でる。髪がぐしゃぐしゃになるほど雑に。理由は不明だが、彼女の手から苛立ちのようなものを、和は感じた。
なにはともあれ、摩怜がポーキュの木公子だと分かった今、はやくも解決の糸口が見えてきた。あとは彼女たちがしっかり話し合えば……。
――と、視線を落としていた摩怜が、不安を抱えた瞳を和へ向けた。
「あの、相手の子……、『スペース』さんは……、どんな相談だったんですか……?」
摩怜の口から、スペースさん、と聞き慣れない名前(?)が出たが、和は、それが宇宙のアカウント名であると察して、「相手もお会いして、話し合いたいそうですよ」と、そう伝えようとした時、ふと相談者の守秘義務があったことを思い出す。内容を言いかけていた和は、横目で一人美に助けを求めた。それに気づいた一人美が――。
「荒山さん。たしかに相手の出方が気になるのも分かるけど、荒山さんがここへ出向いたのは、相手との関係を曖昧に終わらせるのが嫌だったからでしょ?」
「だ、だけど……、もしも向こうが縁を切りたいって、思ってるなら……、あたしが、それを否定できる立場じゃないから……」
摩怜が身をすくめ、膝の上で祈るように指を組む。それを見た一人美が、ソファから腰を上げて、前のめりになり、摩怜の手をそぉっと握ろうと――。
「――っ!」
「いたっ……!」
パッ、と二人同時に振り払うように手を離す。まるで静電気が放電したような、あるいは鋭利な針先が指に刺さったような、そんな突拍子のない痛みに驚くふたり。相談者に寄り添う部長の優しさ――そんな感動的な描写は却下され、むしろ部長の一人美を避けるようにして、摩怜は胸元で両手を握り直した。
「……申し訳ない。静電気を溜めていたみたいだ」
一人美がソファに座り直し、こほん、と照れ隠しの咳払い。そして、スカした顔で――。
「荒山さん、杞憂しなくていいと思うよ。もしも縁を切りたかったら、連絡を取り合っていないこの現状を、わざわざ誰かに相談しないでしょ?」
そう言って、ぐにゃりと歪んだウィンクを飛ばした。
摩怜は顔を上げ、きょとんとした顔で一人美を見やり。一人美は彼女に向けてウィンクを保つ。ふたりの間で、閑静なにらめっこが始まった。和は、その行く末を見届ける。
勝敗はすぐに着いた。負けたのは摩怜だった。――くすっと声を漏らし、
「たしかに、そうかも、しれないです……。あ、あの、ありがとうございます、九尾さん」
強張っていた彼女の表情が、柔和な笑みに変わった。
「まぁ、私にお礼を言うよりも、」ウィンクを解いた一人美が、ジトーとした目を和へと向ける。「相談者の守秘義務を守らなかった、私の後輩に言ってあげてよ。今回ばかりは、それに助けられた側面もあるし。――ね、親川くん?」ニコッと、わざとらしく笑った。
「すみませんでした……」
一人美に言わせれば、他の相談者の相談内容を話すのは当然として、当該の相談を受けた、と、これを言ってしまうのも守秘義務違反である。和の考えが甘かった。
「えっと、親川くん……? あ、ありがとう……、ございます……」
不慣れそうな摩怜のお礼に、和は、返事の代わりに笑顔を作ってみせた。守秘義務を破ったことで、素直に感謝の言葉を受け取れなかった。
「では、そうだね……。荒山さんの悩みを解決するのに手っ取り早い手段としては、相手方のクラスへ出向くか、SNSでの連絡を復活させるか、この二択だね」
「……そう、ですよね……」
一人美の言葉に、摩怜が煮え切らない表情を見せる。――が、すぐに彼女の気持ちを汲んだ一人美が、ふっと優しく笑いかけた。
「それができたら、私たちを頼っていない。そういうことでしょ?」
「は、はい。連絡してないから、一気に距離が離れちゃったみたいで……、その……」
摩怜は次の言葉を躊躇ったが、おそらく「再び連絡をする勇気がない」と、そう言いたかったのだろう。それを感じ取った和が、「ひとみ先輩……」と声をかける。一人美が、半ば呆れたように半笑い。「分かっているよ」と言うように頷いた。
「荒山さん。あなたの心にありあまるヤミは、私たちお悩み相談部が責任をもって寄り添い、必ずや光を見出してみせよう。光と影が混在するようにね」
「……?」
頭上に、はてなを浮かべる摩怜。
「すみません、部長の小難しい常套句です……。要約すると、『私たちお悩み相談部が、荒山さんの勇気を引き出してみせよう』ということです」
和が、一人美の言葉を訳して摩怜に伝える。
それを聴いた摩怜は、心が温かく――それを超えて、熱くなった。そんな心の熱にほだされて、今にも涙が沸き上がってきそうになる。が、泣くのをグッと堪えて、心から湧き上がる気持ちを吐き出した。
「ありがとう、ございますっ……!」
その後の成り行きとしては、一人美が「解決案を考えるから」と、今日は摩怜に帰ってもらうことに。そのため、摩怜との連絡手段として、和が彼女と連絡先を交換(一人美が携帯通信機器を持ってないため)。連絡先の交換を終えると、一人美が「荒山さん。追って連絡するけれど、今週末は予定を空けておいてくれると助かるよ」と言い、和は摩怜を部室の前までお見送り。摩怜は、最後に「よろしく、お願いします」と深く頭を下げ、お悩み相談部を後にする。その際、背筋が伸びた彼女の後ろ姿が、和の印象に深く残った。
摩怜の姿が見えなくなるまで見送った後、和は扉に掲げられた『対応中!』の札を反転させ、『受付中!』と記された札に変えて扉を閉める。
ふたりきりになった、静かな部室。
ソファに座る一人美が、後ろで結わえた髪を解き、うーんと伸びをする。そして、和をちょいちょいと手を仰いで招いて、ぽんぽんと自分の横の座面を叩いた。和は、それに従い、互いの腕が当たる至近距離で腰を下ろした。
すると――。
「和くんにぃー、
――ダぁああああああイヴ!」
一人美が体勢を変えてソファのひじ掛けに脚を伸ばし、――ぽふん! と後ろに倒れて和の膝へダイブ。すっ――、と、彼女の雰囲気が一変した。
「和くんっ……。――嗚呼、ボクの和くんッ! ねぇねぇ、あたま撫でてほしぃ~」
摩怜が居たときの、頼りになる優等生は何処へ、ふたりきりになった部室にて、一人美の年不相応な甘々甘えモードが炸裂。
和は、慣れた手つきで、自身の膝元にいる一人美の頭を優しく撫でる。
「いひひぃ~。和くぅ~ん」大満足げに口元をふにゃふにゃと緩める一人美。「やっぱ、和くんとふたりきりで居るときが、いっちばん楽だねぇ」
「それは、よかったです」
九尾一人美は、極度で重度な八方美人を患っていた。和を含む、ごく一部の心を許した者以外に対しては、「優等生モード」の仮面を被って接する。もはや
「和くぅーん、このままキスしてくれもいいんだぜー?」
と我慾の儘の言動をとる――ただの我儘な厄介者になるのであった。
「しないです。冗談にも程があります」
和が、きっぱりと断ると、一人美は、ぷくうと頬を膨らませ――。
「なんだよぉー。昼休みはボクを裏切ったくせに、えらそうにぃー」
和と一人美は、和がこの高校に入学してからというもの、昼休みは毎日部室へ集合し、一緒に昼食をとっていた。一人美がごねて、そうなった。しかし、今日だけは違って。
「僕、昨晩言いましたよね。『クラスメイトに昼食を誘われたので、明日は部室に行けません』って。ひとみ先輩も了承してくれたじゃないですか」
「ふーん、だっ! 昨日の段階で芽生えた和くんに友達ができた嬉しさと、そのクラスメイトが女子生徒だって知って、ついさっき芽生えた嫉妬は別ものだい!」
「それは、なんとも言えないですけど……。でも、僕らが昼休みに別々に居たから、こうやってスムーズに事が進んでいるわけですし、――なんて言い訳はダメですか?」
和は下を向き、一人美を覗き込むように彼女の機嫌を窺う。
「それは結果論じゃん! それで許されると思うな! お詫びとして、晩ご飯はボクにあーんして食べさせてね! ふぅふぅも忘れずに! もちろん、デザートのプリンも!」
「それは別にいいんですけど、そろそろ昼休みの相談内容を話してもいいですか?」
「さらっと流すな! もっと動揺してよ! ボクは狼狽える和くんが好きだったのに!」
そっけなく、あっさりと我儘を肯定された一人美が、ひじ掛けに置いた脚をバタバタと動かし、首を激しく横に振る。それでも和は表情を変えず。
「先に、お仕事を片付けちゃいましょう。そういうのは、それからです」
「なんだよ、それー。同棲して二年目になるからって、マンネリみたいで、やだやだ!」
ぶつぶつ
「ふーん……」
と、相談内容を聞き終えた一人美の第一声は、無関心にも等しい相槌だった。
「ひとつ訊きたいんだけど、和くんと出風さんって子は元々知り合いなの? 付き合ってもいない男女が、お昼を一緒に食べるなんて、ずいぶん仲がいいみたいだけど」
「はい。去年ちょっとだけ話す機会があって……。でも、たぶん、僕をお昼ご飯に誘ってくれたのは、今回のお悩みを相談するためだと思います」
「あー、なるほどね。放課後に用事があるから昼休みに済ませた、と。――なーんか、ボクの和くんが良いように使われたみたいで、釈然としないなぁー」
一人美が、真上――和の顔へと両手を伸ばし、彼の頬を包むように触れる。すると、餅をこねるように、もにゅもにゅ、と彼の頬をこねくり回す。
「あのふたりに言えることだけど、少しの勇気を持って踏みだせば、すぐに解決する話だよね、これ。SNSなんて分厚いフィルター越しにやり取りするからダメなんだよ」
「むにゅ。でも、八方美人な、――むにゅ。ひとみ先輩が、――むにゅむにゅ」
「え、なにぃー? 八方美人なボクは人のこと言えないって、そう言いたいわけ?」
「むにゅぃ」
「いいんだよー、ボクはさぁー。ボクには勇気が無かったから、和くんに縋って今があるわけだしー。ぜったいぜったい! 今のほうが幸せだもん!」
力強く断言する一人美だったが、徐々に複雑な顔になっていき、和の頬を横に引き伸ばし始める。
「……やっぱり、ボクが言えたことじゃないのかなー」
和の顔が、平べったくなった。
「でぃも、ひとみ
「そうだね。まぁこれに関しては、今さら議論する必要ないし。それよりも――」
一人美が和の頬から手を離し、彼の顔の前で、グーパー、グーパー、と手を開いたり閉じたり。
「早く解決しないと、あの子、棘に刺さって傷ついているみたいだったから……」
一人美が、勢いをつけて和の膝から起き上がり、軽やかにソファから立ち上がった。
「――だからさ、ぱぱっと解決して、久しぶりにふたりで湯船に浸かろうぜ!」
「すみません、それだけは勘弁です」
和は、笑顔で即却下した。
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